たびながコラム

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川原慶賀

〜西洋人が見た日本を描く〜

 《日本の魚類のすべてを、既知と未知との、あるいは珍奇なると一般的なるとを問わず、すべて写生することを提案する。日本人画家、登与助の確かな手腕と、日本の鮮やかな絵具は、自然や実物の美しさに負けないであろう。》(『シーボルトと日本動物誌』より)
 シーボルトが日本を離れる前、助手のビュルガーへ宛てた書面です。登与助とは、出島出入りの絵師・川原慶賀(かわはら けいが)のこと。シーボルトがここまで信頼した画家は、なにを描いたのでしょうか?

一介の町絵師、画壇に名無し

 出島にいたオランダ人は出島絵師以外が描いた絵を持ち帰ることが許されていませんでした。カメラのない時代、日本の風景や風俗文化、動植物、出島の生活などは絵師によって記録されていました。その出島絵師のひとりが川原慶賀です。
 慶賀(通称登与助、号慶賀、字種美)は、1786年(天明6)に長崎で生まれました。父の香山は町絵師で、蘭船、唐船が浮かぶ港を描いた作品「長崎港図」を残しています。慶賀は香山から絵の手ほどきをうけ、その後、長崎で活躍していた画家の石崎融思(いしざき ゆうし)から絵画を学んだといわれています。

 江戸時代、長崎の画家を記した『崎陽画家略伝』、『長崎画人伝』、『続長崎画人伝』などに、慶賀の名はありません。厳しい身分制度の時代、慶賀が一介の町絵師だったからだといわれています。正統な画家の家系の出ではなかった慶賀でしたが、才能に恵まれ町絵師として身を立て、その後「出島出入絵師」となります。

 1820年(文政3)から1829年(文政12)、秘書、会計係、倉庫の管理者として出島で働いたフィッセルや1817年(文化14)に商館長に就任したブロンホフらの求めに応じて絵を描いた慶賀ですが、シーボルトのパートナーとして膨大な作品を残したことで知られています。

シーボルトの眼となり日本を写す

 シーボルトはある使命をもって日本へやってきました。当時、オランダ政府は衰退しつつある日本とオランダ貿易を建て直すために、日本を総合的に研究調査し、それに対応する策をたてる必要がありました。日本をあらゆる面で科学調査できる能力があり、医師であるため出島商館へ派遣しやすい条件がそろったシーボルトはまさに適任だったのです。
 1823年(文政6)、長崎へ到着したシーボルトは長崎奉行の許可を得て、長崎郊外にある鳴滝の土地と建物を購入します。それは研究をさらに深めるために優秀な門弟を雇い入れ、住まわせ、また患者の治療や医学教育の場として使用するためでした。西洋の最新知識を日本人に伝え、シーボルトの日本調査研究の拠点となったのが鳴滝塾です。塾では病人を診察し、診断の仕方や治療の方法などを門弟らに教えました。また、シーボルトは門弟らにオランダ語でレポートを提出させています。内容は「日本古代史考・神話学」、「日本の時の唱え方について」「江戸名所案内記」など具体的なものでした。
 慶賀もまた、シーボルトの注文に応じ、踏絵、端午の節句、精霊流し、ハタ(凧)揚げなど長崎の「年中行事」、また出生から墓参りまでの「人の一生」、「職人尽くし」、「動植物」など、日本や長崎の姿を詳細に描きました。
 シーボルトは、これらの資料で日本をヨーロッパに紹介し、日本研究の第一人者となりました。

 さて、大量の作品を残した慶賀ですが、本人の肖像画はなく、没年や墓所なども不明で、その生涯は謎に包まれています。資料が少ないなか、長崎奉行所の「犯科帳」には慶賀の名前を2カ所にみることができます。
 ひとつは、シーボルトの積み荷から国外持ち出し禁止の徳川家家紋の入った服や日本地図が見つかり、シーボルトが国外追放となったいわゆる“シーボルト事件”。慶賀も連座し一ヶ月ほど入牢、「叱り」という処分をうけます。もうひとつが、十数年後、オランダ商館からの要望で描いた長崎港のなかに、国外不出とされていた藩(細川家と鍋島家)の家紋を警備船の幕に描き、「江戸並びに長崎払い」の刑となった事件です。

1842年(天保13)に「江戸並びに長崎払い」となった慶賀ですが、1844年(天保15)ごろには長崎へ戻り、町絵師として仕事を再開していたようです。1853年(嘉永6)に来航したロシア艦隊の長官プチャーチンの肖像画や開国後、出島の日常風景を描いた唐蘭館図などが残されています。また、1860年(安政7)の「永島キク刀自絵蔵」は落款に“七十五歳 種美写”とあって、慶賀が75歳まで生きていたことを証明しています。

いたずら好き? 慶賀の素顔

さて、シーボルトが持ちかえった資料のほとんどは現在オランダのライデン国立民族博物館に所蔵されています。慶賀が描いた「日本人の一生」もそのひとつです。「出産」から「墓参り」まで記録されているなかに、慶賀のいたずらが隠れていました。「葬列の迎え(1)」には、寺の門前にたつ6人の僧侶のわきに“不許輩酒肉入山門”と石碑の文字。また「墓参り」ではあろうことか墓石に“酔酒玄吐行”、“淫好助兵衛腎張”と刻まれ、慶賀の素顔を垣間みることができます。ライデン国立民族博物館に所蔵されている慶賀作品のいくつかは、長崎歴史文化博物館のウェブサイトにある『川原慶賀作品データベース』で見ることができます。
 また、1853年に来航したロシア艦隊の長官プチャーチンの肖像画では、落款をロシア人名風に登与助を“Tojoskij(トヨスキー)”と書くなど茶目っ気たっぷりです。

 現在、国内に残る慶賀の絵は50点ほどで、ライデン国立民族博物館には1000点近くが収められています。そのなかには、フィッセルやブロンホフのために描いたものや、シーボルトが帰国前、助手ビュルガーにあたえた指示どおり、ベニサシやコブダイなどの魚の絵も色鮮やかに所蔵されています。
 慶賀の絵は、当時あまり知られていなかった日本の姿をヨーロッパに伝えるという大きな役割を果たしました。その一方、出島や唐人屋敷に暮らす異国人の生活や西洋の文物も描き記録しています。慶賀は、西洋と日本、両方に異なる国の文化を伝えることのできためずらしい画家だったといえるでしょう。

[文:高浪利子]

参考文献
  • 『シーボルトと町絵師慶賀 日本画家が出会った西欧』兼重護(長崎新聞)
  • 図録『鎖国の窓を開く:出島の絵師 川原慶賀展』(西武美術館)
  • 『旅する長崎学7 近代化ものがたりI』(長崎文献社)
  • 長崎歴史文化博物館HP 川原慶賀の見た江戸時代の日本1(http://www.nmhc.jp/keiga01/


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