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インタビュー・高島・軍艦島の証言

■ インタビュー・高島・軍艦島の証言(2009.08.26.更新)
 
2009年(平成21)4月22日、35年ぶりに端島(軍艦島)への一般の上陸が解禁となり、軍艦島クルーズが大変な人気を集めています。また、端島炭坑や北渓井坑跡(高島)は、“世界遺産暫定一覧表”記載の「九州・山口の近代化産業遺産群」の構成資産候補となっていることもあり、その歴史や価値についてもますます関心が高まっているようです。
当時の島の生活はどういうものだったのか・・・。今回は、三菱の坑務課安全灯係に勤務し、高島炭坑に長年携わってきた山崎 徳(やまさき めぐみ)さんに当時の様子を伺うことができました。
 

当時、日本国内においての高島・端島は、どんな特徴を持った炭坑の島だったのでしょうか?

操業中の北渓井坑(明治初期)

操業中の北渓井坑(明治初期)

まず、高島炭坑は、日本最初の機械化された炭坑です。ここで言う機械化とは、蒸気動力、風車換気、給水ポンプ、排水などのことです。全国のどの炭坑も、手掘りや人力による石炭の搬出をおこなっていた頃、ここ高島炭坑では、高い技術をもって採掘されていたのです。
この技術導入の背景には、有名な外国人商人トーマス・グラバーの活躍があります。
グラバーは、優秀な技術者を招き、高島炭坑を機械化することに成功しました。中でも、北渓井坑は、掘削わずか40mで石炭を採掘できたことから、グラバーが連れてきた技術者が、地質学、鉱物学などの知識も高く、相当に優秀であったことを物語っていると考えられます。
やがて、高島炭坑が三菱の経営になると、その技術が端島へも導入され、高島・端島炭坑は、日本の工業化、近代化へ貢献することとなるわけです。

 

 

高島炭鉱に関する写真パネルと職員クラブ模型(高島石炭資料館内)

高島炭坑に関する写真パネルと職員クラブ模型(高島石炭資料館内)

高島・端島炭坑は非常に良質の石炭である強粘結炭を出炭しておりました。強粘結炭は、熱量が高く不純物の少ない良質のコークスとなることから、製鉄に利用されました。通常の石炭が3,000~4,000kcal の熱量でストーブ、機関車などに使用されたのに対し、高島の石炭は、7,000~8,000kcalと非常に高エネルギーを持ちます。
大村の発電所が、高島の石炭を使ったところ、発電の炉が溶けたとのエピソードも聞いております。
 

 

当時、炭坑で働く人々やその家族の生活ぶり、文化はどうだったのでしょうか?

採炭現場模型(高島石炭資料館内)

採炭現場模型
(高島石炭資料館内)

鉱員の給与は、当時の日本の労働者の1.5倍から2倍はあったと思います。
また、無料の社宅に住み、光熱水費も長崎までの乗船料も無料でした。配給米も国産白米と非常に恵まれた生活でした。(一般はガイ米など)
そういう状況ですので、鉱員は各地(主に西日本)から集まりました。募集にたくさんの人が応募するため、会社は技術力の高い労働者を採用し、職員も東京大学などの卒業者の方などが集まり、技術や技能の集まる場所となりました。

鉱員たちは、スポーツを好んでいました。野球、柔剣道、バレーボールなどは、全国炭坑の大会で優勝するほどで、端島は地域的な制約から室内競技が多かったように記憶しておりますが、これも高島と交互に優勝するなど非常に盛んでした。
また、映画が大好きで、荒天で海が荒れ、船が端島へ接岸できないときでも、ロープでフィルムを渡すなどして、映画を楽しんでおりました。

文化面においても、演劇コンクールに参加するなど活発におこなっていました。大正琴や舞踊などは、現在も高島町の婦人会の方々が楽しんでおられます。
食費、日用品費以外は、お金を使う必要もありませんでしたが、鉱員たちは、お酒を飲むことがしばしばありました。時折、酒の島などと揶揄(やゆ)されたこともありますが、それは炭坑を知らない方々の意見で悲しく思います。

当時、炭坑は24時間3交代制でフル稼働し常に危険と隣り合わせでした。坑道内は、多くの鉱員、職員で作業を進めており、万一のことがあれば大惨事になる可能性がありました。鉱員たちは、結束を深め協力体制を整える必要があったのです。各地から集まった鉱員たちは、お酒を飲み、会話することでお互いの理解を深めていきました。

そのような中、鉱員の奥様方は非常に教育熱心になっていきました。危険の伴う鉱員よりも更によい生活を我が子にさせたかったのだと思います。当時は珍しかった高校、大学への進学もさせていきました。そのような動きは、高島高校の創立に繋がることになったのです。

子どもたちは、どんな遊びをしていたのでしょうか?

子どもたちの楽しみといえば、海でした。子どもたちは「こちらがサザエ、こっちはアワビ、あっちは伊勢海老。」などと生息場所の情報を逸早くキャッチし、海に潜っては、サザエを採るなどして遊んでいました。
端島では、屋上が大事な遊び場でした。屋上菜園がおこなわれた時でも、子どもたちの遊び場はきちんと確保されていました。端島の子どもたちも海は楽しみでした。
しかし、し尿処理の充分でなかった頃は、海へ下水を排水したため、海での遊泳が禁止となりました。
その後は、子どもたちは大人たちを見習い、スポーツを好むようになりました。

忘れられない出来事や思い出はありますか?

1982(昭和57)年 火事で焼けた蛎瀬事業所

1982(昭和57)年 火事で焼けた蛎瀬事業所

個人的な意見で言えば、やはり炭坑事故が記憶にあります。

事故により坑内で亡くなると、棺に呼びかけながら外へ出していました。
「今、坑道のどこを通っているよ、もうすぐ上がるよ。」などと呼びかけました。
みんな、大切な仲間の魂を、暗い坑内から出してあげたかったのだと思います。

 
その他、炭坑事務所が火災にあったこともあります。1982(昭和57)年に火災にあった時などは、既に閉山していた夕張から、様々な道具を調達しました。

 

閉山することが決まったときはどんなお気持ちでしたか?

閉山以前、炭坑が下り坂になってきた頃から、社内誌でも「力を合わせて乗り切ろう」などと毎年スローガンを掲げて、何とかやっておりました。
そういった意味では、閉山することへの現実感は少なかったと思います。
むしろ、閉山を決定的にしたのは、炭坑事故です。

高島からみた中ノ島(手前左)と端島(奥右)

高島からみた中ノ島(手前左)と端島(奥右)

端島は、1963(昭和38)年に自然発火により事故が発生しました。消化のため散水しましたが、一度水浸しになると戻せないのです。その後、1974(昭和49)年に安全に採掘しうる炭量が枯渇し、閉山いたしました。
高島でも、1985(昭和60)年に爆発事故が起こりました。1960(昭和35)年頃からのエネルギー革命により転換期を迎えた後のことですので、技術の低下もあったかと思います。今となれば、その時、正しくガス検知などをおこなっていたのかも分かりません。ただ、「もう、閉山するかもしれない。」という不安感がありました。
翌年、その不安は現実となり、閉山することとなりました。

 
会社は、鉱員たちに再就職先を斡旋し、退職金に加え閉山交付金を出しました。また、通称“黒い手帳”と呼ばれる就労証明書を発行しました。“黒い手帳”とは3年間の失業手当が受け取れるものでした。
再就職した人たちの多くは、島を離れることになり、再就職できなかった人たちは、退職金と失業手当で暮らし、その後、年金生活となりました。

 

現在、世界遺産暫定一覧表に記載されている「九州・山口の近代化産業遺産群」の構成資産候補として、高島の北渓井坑跡や端島炭坑がリストアップされています。
2009年(平成21)4月22日から始まった“軍艦島上陸クルーズ”には、乗船予約が 殺到しているそうです。参加者の年代は幅広く、高校生や大学生など若い世代も少なくありません。いま、「軍艦島」に高い関心をお持ちの方々に、メッセージをお願いします。

炭坑夫の像「曙」

炭坑夫の像「曙」

端島の炭坑の成り立ちからすると、端島は高島とのつながりが非常に大きいところです。更に言えば、端島は高島あっての端島であり、高島を知ることによって、もっと端島を理解できます。

現在、長崎市が北渓井坑の発掘調査をおこなっておりますが、北渓井坑が全国の炭坑に与えた影響が、本来の遺産であると思っています。
高島、端島を大きな観点で眺めることによって、貴重な歴史、遺産価値を理解できるでしょうし、また、そこに暮らした人々の思いを張り巡らすことによって、日本の近代化を支えた高島、端島の炭坑を評価できるものと考えています。

 

山崎 徳(やまさき めぐみ)氏のプロフィール

山崎 徳(やまさき めぐみ)氏大正14年5月4日生まれ。
長崎市高島町在住。郷土史家。
高島炭鉱時代には、三菱の坑務課安全灯係に勤務、高島炭鉱に長年携わる。

 

 

山崎 徳さんは、炭坑をはじめとして、地名や方言、民俗、文化、高島の歴史に関する資料をまとめておられます。これらの資料は現在、高島石炭資料館内に所蔵されています。
高島石炭資料館の情報は、歴史発見ドライブルートの「近代洋式炭坑が始まった地、高島」(平成21年8月5日更新)で紹介しています。ぜひご覧ください。


 


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