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ベンチャー起業のパイオニアばい、高峰譲吉

ベンチャー起業のパイオニアばい、高峰譲吉

人種の壁も文化の壁も乗り越えたとよ

 毎日暑かね〜。冷たかもんばっかり食べて胃腸の具合の悪か人もおるとじゃなか?気をつけんばね。
 今回の主人公は、消化剤「タカジアスターゼ」や「アドレナリン」の薬用を実現化した高峰譲吉さんばい。長崎での遊学体験ば活かして、国際的に大活躍した科学者の生涯ば紹介すっけん、読んでみんね。

 高峰譲吉さんは、1854年に加賀藩の御典医の長男として富山県高岡市で生まれなったと。長崎遊学しなさったとは12歳の時やったって。今で言えば、まだ小学生たい。そいけど譲吉さんは、どうしても長崎に行きたかて言うて、大人に交じって自分から立候補したげな。
 長崎に着いた加賀藩からの遊学生たちは、長崎に住む外人さんの家に一人ずつ預けられたらしか。今でいうホームスティたいね。譲吉さんをお世話してくれたとは、ポルトガル領事のロレーロさん。ロレーロさんは、まだ小さか譲吉ばよう可愛がってくれたとって。そのおかげで譲吉さんは、外国語だけじゃなか、外国人の暮らし方やマナーとかも自然に身につけることのできたごたるね。

 ある時のこと、加賀藩から長崎に使者のきたとって。ロレーロさんはえろう喜んで、譲吉と一緒に遊学に来とる人たちや加賀藩からの使者ば家に招いて、みんなで食事会ばしたとって。ところが・・・。
使)譲吉!譲吉!

声をひそめて使者の一人が呼びなった。呼ばれた譲吉が側にいくと、
使)ロレーロ先生は日本語がペラペラだと聞いていたけれど、おっしゃっていることがまったくわからないぞ。

とのこと。見ればロレーロ先生の方も使者の人たちが何ばゆうても首ば傾げたまま、通じていない様子。そこで譲吉は、
譲)私が通訳いたします。

て言うてから、使者とロレーロ先生の間に座ったとって。
使者は紋付袴で難しい顔ばして、
使)ペラペラペラ、ナントカカントカ、ペラペラペラ。

もちろんロレーロ先生にはチンプンカンプンさ。そこで譲吉の出番。
譲)ペラペ〜ラ。ペラペラ〜ペラ、ペラペラペラ。

とロレーロ先生に伝えたっとて。そしたら今度はロレーロ先生が大きか身振り手振りば交えながら、
ロ)ペラペ〜ラ。ペラペラ〜ペラ、ペラペラペラ。

って言いなったげな。それば聞いた譲吉は、また、
譲)ペラペ〜ラ。ペラペラ〜ペラ、ペラペラペラ。

 そがんことば何回か繰り返しておるうちに皆、心の打ち解けて楽しく食事会ば終わらすことのできたとって。
 その様子ば見とった大人たちは皆、譲吉のことば口々に誉めたとって。
大人1)さすが高峰さんとこのご子息ばい。見事な通訳ぶりやったばい。
大人2)まだこんまかとに、本当に大した子ばい。
大人3)本当に神童ばい。ところで譲吉君、二人はどがん話ばしよったとね?

 そう聞かれた譲吉は半分笑いながらこうゆうたと。
譲)おいが話よったとは両方とも日本語ばい。ロレーロ先生は日本語は達者やけど長崎弁しか知らんばい。加賀藩の使者は長崎弁はいっちょんわからんさ、金沢弁しか知らんけんね。だけん、おいはロレーロ先生の長崎弁ば金沢弁になおして使者に伝え、使者の金沢弁ば長崎弁になおして先生に伝えたとさ。最初の使者は「この度は、うちの藩の子弟ば預かって親切丁寧にいろいろと教えてくれよることに、おいたちの殿様に代わって礼ば言わんばと思うて、長崎まで来たと。本当に心から感謝しとっとよ」ていうたとばい。おいはそれを長崎弁になおして先生に伝えただけさ。そしたら先生が「何ば言いなっとですか。そがん堅苦しい挨拶はやめて、みんなでゴイゴイ飲まんですか!」って答えなさったけん、そいば金沢弁になおして使者さんに伝えただけばい。つまり日本語ば日本語に訳しよったってことさ。そがん神童、神童言われたら、聞いとるほうがシンドウなる・・・。

 双葉出る前から芳ばし童かな。「栴檀は・・・」の例えを出す必要もない、見事な神童ぶりの譲吉やったげな。

 譲吉は長崎に3年ほどおったとけど、ロレーロ先生の家だけじゃなくて、イギリスの実業家・オルトさんのとこにもホームスティしたらしか。オルトさんも譲吉のことば可愛がって、旅行する時も譲吉ばつれて出かけるほどやったとって。譲吉は外人さんの家で暮らしながら、英語ば専門的に教えよるフルベッキという人のところでも一生懸命勉強したげな。こうして3年間みっちり英語ば学んだと。
 長崎に遊学したあとは京都に移ってそこでも英語ば勉強したとって。そして1869年(明治2年)、大阪に日本で初めての医学校ができて、譲吉はそこに入学。同時に大阪舎密学校にも入学したごたっね。舎密(せいみ)てあまり聞いたことのなか言葉やけど、オランダ語で化学のことばい。Chemie(セミー)という単語にそのまま日本の文字を充てとっとばい。おもしろかね〜。その大阪舎密学校は2年でなくなってしもうたとけど、今の東京大学工学部の前身になる学校が東京にできたけん、譲吉はそこでまた舎密学ば勉強できることになったげな。その学校の先生はほとんど外国人で、他の生徒さんは言葉のようわからんけん大変やったらしかけど、譲吉は長崎でうんと英語ば勉強しとったけん、何不自由なく理解できたらしかよ。

 こがんして大学で一生懸命勉強した譲吉はイギリスに留学、帰国後は当時の農商務省に入省して肥料の研究ば始めたと。当時は作物の肥料は人糞やったとけど、あまり衛生的じゃなかけんが、譲吉は「何とかしたかー」ってずっと思いよったらしか。人工肥料は研究も開発も大変やったごたっけど、完成したら農家の人たちは本当に助かったとって。
 肥料づくりの見学にアメリカへ渡った譲吉は、そこで未来の奥さん・キャロラインと巡り会うたとよ。国際結婚も今ならあんまり珍しかことじゃなかばってん、明治の初めごろやけんね。譲吉のお母さんがひどく反対して大変やったらしか。でも、それば乗り越えて、日本に呼び寄せたキャロラインと結婚。落ち着いて研究に熱ばいれよったとき、アメリカから譲吉に「アメリカに来んね?」って話のあったとって。

譲吉さんも飲んだとかな?

 当時、日本で譲吉が研究しとった項目の中に日本酒づくりがあったとさ。日本酒は季節とか温度に左右されやすくて、ちょっとした気温の変化で、樽ごと腐ってしまうことがようあったらしか。そこで譲吉が研究しよったとが、こうじ菌さ。「高峰式こうじ改良法」というとば確立しなったと。この譲吉の発明で、日本酒づくりがずいぶん楽になったげなもんね。
 日本酒はでんぷん(米)ば糖化するとき麹を使うし、ウイスキーはモルトというて、麦芽ば使うとって。当時は麦芽を作るとに時間も手間もかかったけん、「麦芽より扱いやすい麹ば使うてみたらどげんやろか」て思いなったアメリカのウイスキートラストからの話やっとさ。譲吉は「また新しか研究のできる!」って張り切って、家族ば連れて渡米したと。
 そいけど、渡米した譲吉ば待っとったとは、楽しかことばかりじゃなかったと。研究そのものは大成功したとやけど、譲吉が研究に成功したら自分たちの仕事がなくなるって勘違いしたモルト製造の関係者が、いろいろと妨害ばしたとって。それはもう大変やったらしか。だけん、譲吉は研究は成功しながら、そいば事業に発展させることはできんかったげな。残念やったろうね。でも、それでめげんとが譲吉のすごかところばいね。
 日本酒とウイスキーの糖化から思いついて、譲吉が次に研究したとは「ジアスターゼ」。日本酒では麹、ウイスキーではモルトで醸造するとやけど、その両方に共通するとがジアスターゼという「発酵素」げな。このジアスターゼは人間の身体の中にもあって、でんぷん質を消化するとって。そこで譲吉が研究したとは、でんぷん質の消化ば助ける薬。それまで研究しよった麹から、酒ではなくてジアスターゼば作ったとよ。ジアスターゼば発見したとはフランスの学者さんらしかけど、どがん研究しても効き目が弱いままやったとって。それを研究して消化薬としての実用化に漕ぎ着けたのが譲吉やったと。その酵素には「タカジアスターゼ」という名前が付けられて、アメリカの製薬メーカーから世界的に発売されることになったとって。そのとき譲吉はその製薬メーカーに条件ば出したと。「日本だけは日本の製薬会社に売らせたい」ってね。

興奮するとアドレナリンが大放出ばい!

 その後研究したとがアドレナリンたい。アドレナリンは外科手術のときの止血に使われたり、強心剤、喘息を押さえる薬、産科や耳鼻咽喉科、皮膚科とか、ほとんどの科で使われとる薬。だけん、本当に大発見さね。このアドレナリンの発見でヨーロッパの医学界からも注目されるようになって、譲吉の研究活動は世界的なものになっていったとって。

 タカジアスターゼとアドレナリンの薬用の実現でお金持ちになった譲吉は、だんだん日本の学者たちへの支援を考えるようになったとって。1913年(大正2年)、日本に帰国したとき、当時の日本の偉か人たちば説き伏せて、1917年(大正6年)に理化学研究所を設立。それだけではなく、アメリカでも譲吉は日本人のために努力したとよ。日本からアメリカに来た人たちのお世話ばしたりしてね。
 そがんして人のために一所懸命しよった譲吉が亡くなったとは1922年(大正11年)のこと。68歳やった。若か時に肝臓ば悪くして、そこに心臓病も併発したのが原因やったと。譲吉が亡くなったとき、アメリカの大新聞は、「日本は偉大な国民を、アメリカは大事な友人を、世界は優れた科学者を失った」って記事ば掲載して、譲吉の死を惜しんだとって。

じげにゃん

譲吉のすごかところは科学の発見に終わらんで、それを事業に活かしたところと思わん?譲吉が後世に残る大事業ば成し得たのは、もちろん粘り強い性格の持ち主で勉強家であったということもあるけど、長崎で外国人と親しく付き合い、語学ばきちんと学んだことが大きく影響しとっとじゃなかかって、じげにゃんは思うとばい。長崎に遊学した体験ばうまく活かしてくれたとが高峰譲吉さんと思う。うれしか話たいね。
 今度は誰ば紹介しようかな。じゃあ、また次回も楽しみにしとってにゃん。

[原文:林すみこ / 切り貼り画:田中今日子]

参考文献
  • 『旅する長崎学7 近代化ものがたりI』(企画/長崎県 制作/長崎文献社)
  • 『高峰譲吉とその妻』飯沼信子著(発行/新人物往来社)
  • 『堂々たる夢』真鍋繁樹著(発行/講談社)
  • 『児童伝記シリーズ48 高峰譲吉』久保喬著(発行/偕成社)
  • 『高峰譲吉の生涯』飯沼和正・菅野富夫著(発行/朝日新聞社)
  • 『長崎遊学者辞典』平松勘治著(発行/渓水社)


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