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成功の源はポジティブシンキングゥ〜!文人画家、田能村竹田

成功の源はポジティブシンキングゥ〜!文人画家、田能村竹田

田能村竹田(たのむら ちくでん)
1777年〜1835年 大分県出身 画家・詩文家

「ポジティブシンキングゥ〜〜〜!」

 少しは涼しくなってきたニャン。ちょっと早かばってん、芸術の秋を迎えるにふさわしく今回は絵描きさんば紹介すっけんね。
 長崎に遊学に来たとはお医者さんや科学者ばっかりじゃなか、画家や陶芸家もきなったとよ。今回紹介するとは画家・田能村竹田(たのむら ちくでん)。こん人の名前はテレビの鑑定番組なんかで聞いた人もおるとじゃなかやろか?

 田能村竹田(たのむら ちくでん)は1777年に豊後国岡藩、つまり今の大分県竹田市(おおいたけん たけたし)で生まれなったと。竹田の実家は代々藩に使えるお医者さんやったとけど、皮肉なもんで竹田も兄弟も身体のえろう弱かったごた。竹田のお兄さんは「長男は身体の弱かけん、跡継ぎにせんでもよかですか?」というお父さんの願いが藩に受け入れられたという話やっけん、どんだけ弱かったかわかるよね。
 身体の弱か家族ばかばうようにして仲良う暮らしよった田能村家やったとけど、1783年の年末に火事で家が全焼。翌年には病弱やったお兄さんもわこうして亡くなり、その49日の直後にお母さんまで亡くなってしもうたとって。おまけにそん頃から竹田は耳がよう聞こえんごとなったり、目もよう見えんごとなったりしたと。踏んだり蹴ったりってこのことばい。竹田の伝記ば読みながら“じげにゃん”はえらい同情してしもうた。

竹田さんの故郷の民芸品「姫だるま」

 先に亡くなったお兄さんと同じように身体が弱かった竹田は、22才の時に藩主から「お前は身体の弱かばってん、学問のようできると聞いた。医者のあとば継ぐとは無理せんちゃよかけん、学問の道ばいかんね」って言うてもろうたと。これがきっかけになって竹田は、幕府の依頼で岡藩が始めた「豊後国志」の編纂に関わることになったと。その編纂の中心的な人物が江戸から来た医師・唐橋君山(からはし くんざん)やった。君山という方は本当に人格者やったらしく、若かった竹田に大きな影響ば与えなったとよ。後年、竹田が才能を発揮することになる画や詩文も、君山先生のコレクションば見せて貰ったとがきっかけやったって。でも君山は編纂事業に着手した3年目に逝去。後を頼まれた竹田が苦労の末に完成させたとがその5年後。つまり8年かかって、やっと完成したと。編纂するとに苦労はしなったけど、おかげで竹田は多くの知識人たちと知り合うことができたと。師匠の君山は社交的な人で、当時の第一級の知識人たちと懇意にしとったげな。君山の側におったからこそ、勉強できたことが山ほどあったとじゃなかやろか。

竹田さんの大好物は田楽ばい!

 最終的には画の道に自分の人生ば切り開いた竹田は、50才過ぎてから長崎に遊学したとよ。ちょっと遅めの遊学やったばいね。そん頃の竹田は画の才能によって世間では認められた存在になっとったけん、作品ば欲しがる人はいっぱいおったとって。実は竹田が長崎ば訪れたのは、この遊学の時が3回目やった。ばってん、前の2回はほんの数日立ち寄っただけで、ゆっくりと時間をかけて長崎の町に触れたとは初めてのことやったらしかよ。

当時の長崎がいかに活気にあふれていたかがわかるよね。
 ところで長崎遊学の時に竹田が一時身を寄せたとが、市内にあるお寺、「春徳寺」。当時の住職さんは鉄扇禅師(てつおう ぜんじ)やったげな。高名な竹田が来るとば心待ちにしよった禅師さんは・・・

鉄)おお、おお、元気やったとね。あん時に別れて以来、おうとらんかったけど、無事やったとね!

初対面の竹田はえろうびっくりして目を白黒させたげな。
竹)鉄扇禅師様、私はお会いするのは初めてですよ。

言われた禅師さん、涼しい顔ばして
鉄)いやいや、オイ(私)とワイ(あなた)は前世では知り合いやったけんね。ず〜っと心配しとったとよ。
竹)え〜っ!禅師様と私は前世では知り合いだったとですか
鉄)そうさ、やっと会えたとやけんお祝い(オイワイ)せんば!

って言うやりとりがあったかどうかはわからんばってんが、本当に親切に持てなしたらしか。禅師さんの親切なもてなしによって、長か旅の疲れもとれた竹田は、本来の長崎遊学の目的ば果たすため、精力的に動き出したと。一番の目的は中国の画の勉強。当時の長崎には中国から画家の先生たちも来なさったけん。「さぁ、中国の画ば山ほど見らんば!」って張り切った竹田。でも、中国から長崎に入ってきた画の質の高さに、ショックば受けてしもうた。もう書くのを止めたいって思うほどの衝撃だったらしか。それでも、「これではいかん」と猛勉強ば始めたと。幸い、長崎にいた画人の教えを受けることができたし、多くの文化人や知識人と交流を持つことができたと。その結果、遊学中に画についての考え方自体にも大きな影響を受けることになって、後年、大きな業績を残すまでになったとさ。

和室に一幅・・・シブかねぇ

 竹田の描く絵は南画といって、中国から来た画法さね。南画の基本的な考え方は「たくさんの本を読み、自然を身体で感じ取って山や川を描きなさい」。そのためには古くからの画法を会得することも大事ということ。でも、それは中国の作品をそのまま真似るということではなかけんね。そこで竹田は、中国の画法で日本の自然を描くことで南画の精神を表現したらしか。でも、この考え方に到達するまで、本当に悩み苦しんだみたい。本場中国からきた南画の、あまりのレベルの高さに一時は筆を折ったような状態になった竹田。それでも自分はまぎれも無く日本人である、ということを再確認したとが長崎遊学中のことだったと。

 若か頃から本当に苦労続きばってんが、あんだけ大変な思いばしたとに、お友達に出した手紙にこがんことば書いとるとよ。
 「目の悪かことも耳の悪かったことも、自分にとってはむしろ良かったと思うとっと。耳が悪ければ余計な事は耳に入らん。目が悪ければつまらないものを見なくてもよか。身体が弱かったことで藩からは、武術の訓練はせんちゃよか、学問を一生懸命やらんね、と言ってもらえた。本当に助かったとよ」。

じげにゃん

 すごかよね。体の不自由さも、プラス思考で、良い方に良い方に考えていったとやもん。亡くなったとは59才。今の寿命から言えば早か気もするけど、息子に手をとられ旅立ったとは、幸せなことだと思う。自分の人生を前向きに生きた竹田さんに学ぶことはいっぱいあるニャン。
 今度は誰ば紹介しようかな。じゃあ、また次回も楽しみにしとってにゃん。

[原文:林すみこ / 切り貼り画:田中今日子]

参考文献
  • 『田能村竹田』宗像健一著(発行/新潮社)
  • 『大分県先哲叢書 田能村竹田』佐々木均太郎著(発行/大分県教育委員会)
  • 『週刊 アーティストジャパン』新集社編集(発行/同朋舎出版)
  • 『長崎遊学者辞典』平松勘治著(発行/渓水社)


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