たびながコラム

ホーム   >  たびながコラム  >   近代化に向けて

臨機応変なチャレンジャー・福沢諭吉

臨機応変なチャレンジャー・福沢諭吉

福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)
1834年〜1901年 大阪府出身 思想家・教育家

一度は読んでおきたかね

 10月を迎えて、秋本番だニャン。芸術の秋、読書の秋、スポーツの秋・・・、みんなは何ばすっとかな?じげにゃんは食欲の秋だミャー♪。
 さて今回紹介すっとは、福沢諭吉さん。一万円札の諭吉さん、知らない人はいないかもニャ。慶応義塾大学の創始者で、「天は人の上に人を作らず。人の下に人を作らず」て言うたことでも有名ばい。

 福沢諭吉はお父さんが豊前中津奥平藩(大分県)の大阪の蔵屋敷に勤めていた関係で、大坂で生まれたと。蔵屋敷というのは、藩でとれた米を米商人に売るための倉庫兼取引所みたいな所ばい。そこに勤めとった諭吉のお父さんは学問好きで、書物ば読むとが一番の楽しみやったらしか。実は「諭吉」の名は、中国清時代の「上諭条例」という法律書にちなんだ名前げな。ずっと探しよったこの本が手に入った直後に、諭吉が生まれたとって。お父さんは、息子の誕生と「上諭条例」ば入手できたことがよっぽど嬉しかったとやろね。

 諭吉が3歳のとき、このお父さんが亡くなってしまい、お母さんは諭吉ら子ども5人を連れて、故郷の中津に戻ったと。でも、諭吉は両親の故郷・中津にはなかなか馴染めんかった。当時の日本はまだまだ身分差がはっきりしとったし、特に武家社会は厳しかけんが、子どもの諭吉でさえも、おもしろくない思いをすることが多かったらしか。だけん諭吉は物心つく頃から「なんとかして中津を出たい」とず〜っと考えとったごたるね。やがて日本が少しずつ開国へと向かっていって、外国との交流ば重視する動きの出てきた頃、中津藩では長崎に遊学したか人ば募集したとって。諭吉は「チャ〜ンス!」と思ったとやろね、すぐ応募したとさ。そして蘭学と砲学の勉強をしに長崎に来ることになったと。
 長崎には中津藩の家老の息子・奥平壱岐(おくだいら いき)が先に来ていて、桶屋町の光永寺に寄宿しとったけんが、諭吉も光永寺の世話になることになったと。しばらくして、奥平が砲術家・高島秋帆(たかしま しゅうはん)の門人の山本物次郎に諭吉ば紹介して、そのあとは山本の家に世話になったげな。

 山本家での諭吉はね、よう働いたとってよ。まず、眼の悪か山本先生の読み書きの手伝い。そいから山本家の1人息子に勉強を教えたり、下男が忙しい時には手伝ったり、奥さんが飼ってる犬の狆(ちん)や猫の世話をしたり・・・などなど。後年、自分でも「調法な男だ」と言うとるごと、本当によう働いたとばい。あまりの働きぶりに山本物次郎から「養子にならないか」とまで言われたとって。
 当時、砲術家の山本物次郎の所には、写本を貸してほしいとか、大砲をつくるから図を見せてほしいとか、また出島のオランダ屋敷を見学する世話をしてほしいとか、いろんな人たちが来よったとって。山本先生は眼が悪かけん、そういう頼まれ事は実際は諭吉が全部かわってやっとったとね。そうするうちに、中津藩の家老の息子である奥平壱岐と下級武士の子である諭吉の、長崎での立場が逆転したような状況になったらしかっさ。おもしろくないのは奥平壱岐。「中津におんなる諭吉のお母さんが病気」とウソをついて、諭吉ば長崎から出してしまうとさね。ただ、諭吉は奥平壱岐の幼稚な悪巧みはちゃんとお見通しやったごたるね。でも、「家老の息子に楯突いてもねぇ」という心境だったようで、山本家や世話になった長崎の人たちにお礼を言うて素直に長崎から出たとさね。

たくさんの学者さんを育てたばい

 そいけど、どうにも中津に戻る気にはなれんかったようで、最終的には、諭吉の兄・三之助の尽力で大坂の緒方洪庵の適塾に入ることになったげな。塾に入ってからも、兄・三之助の死去や自分自身もコレラにかかったりと、大変なことも多かったとけど、優れた蘭学者であり塾長であった緒方のもと、諭吉はともかく蘭学を一生懸命勉強したとさ。そのかいあって諭吉の学力はメキメキとあがったと。そんな諭吉にある時、なんと中津藩の江戸屋敷から「蘭学の教師として藩で教えるように」と言ってきたげな。その時の江戸家老は、諭吉ば長崎から追い出した、あの奥平壱岐。諭吉の心にはほんの少しわだかまりがあったみたいやけど、日本が諸外国と対等に向き合えるかどうかの時やけん水に流して、中津藩の江戸屋敷で教えるようになったとさ。江戸では安政の大獄の頃で、本当に日本が大きく変わる時やったけんね。中津藩から藩の中屋敷ば提供された諭吉は、そこで蘭学塾ば開くとね。これが今の慶応義塾大学のスタートばい。
 小さいながらも塾の責任者となり、江戸の蘭学者仲間もできて充実した生活が始まった諭吉はある日、横浜へ遊びに行ったとって。そこで諭吉が驚いたとは、眼に入った横文字のほとんどが英語やったこと。それまではオランダこそが日本にとっての西洋やったとけど、18世紀に起こった産業革命でイギリスが大国になっていたとさ。世界、特にヨーロッパの文明の分布図が、鎖国の間に大きく変わってしまったとね。諭吉は、あれだけ一生懸命学んだオランダ語やったとけど、「今は英語ば早急に会得せんば」と思い知らされたと。でも、こん出来事は諭吉にとって大きな転機になったとね。横浜から戻るとすぐ英語の勉強ば始めて、猛勉強の日々ば送るごとなったと。塾で教えるともオランダ語から英語へと切りかえたとよ。
 このかいあって、諭吉はアメリカへ渡る事になったとさ。こんとき、諭吉は多くのことば考えさせられたらしか。アメリカの機械文明などより、アメリカ社会の仕組みに一番驚いたごたっね。たとえば、諭吉が、アメリカの初代大統領のジョージ・ワシントンの子孫について訪ねたら、わりと冷淡な調子で「よう、わからん」という返事。ワシントンて言えば、諭吉の頭の中では源頼朝や徳川家康という感覚やったろうけんね。武家社会の門閥制度に対して若か頃から憤りを感じていた諭吉も、この辺は日本人やね、本当に驚いたとって。そいで、これこそ文明社会て思うたとって。諭吉はその後、日本人の思想に影響を与える人間になっていくわけやけど、この時の体験が諭吉ば指導者として導いたということかもしれんね。

 日本に戻って再び猛勉強をして、さらに実力ばつけた諭吉に来たとが、幕府の通訳としてイギリスやパリなどのヨーロッパへ行く話やった。こん時の話は諭吉自身も言うとるけど、おかしかことが結構あったらしかよ。

日本人) ペラペラペラ 【訳:あ〜、君、君。タバコを買ってきてくれたまえ。】
ボーイ) ペラペラペ〜ラ 【訳:はい。承知致しました。】
やがて、お使いを頼まれたボーイが戻ってきます。
ボーイ) ペラペラペ〜ラ 【訳:お客様。大変お待たせいたしました。】
といって差し出したものは「砂糖」?!。つまり、「シガー」と「シュガー」を聞き間違えたというわけ。「タバコを買うてきて。」と頼んだ人は思わずぽつり。
日本人) タバコば頼んで砂糖と間違われるようじゃ、オイの英語もまだまだ甘かなぁ・・・。

出て行くとは早かよね〜

 異国の文化・文明をその眼で直に確かめた諭吉はその後、大きな転換期を迎えた日本で、教育者として活躍したことは、みんな知っとるとよね。諭吉は28歳の時、中津藩士の娘、錦(きん)と結婚。9人の子どもにも恵まれて平和で幸せな晩年やったって。1901年、諭吉は亡くなるとやけど、その後100年もせず、1985年に一万円札に登場して、おなじみの顔になったとばい。



アンケート

コメント