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静かなる熱血漢・二宮敬作

静かなる熱血漢・二宮敬作

二宮敬作
1804年〜1862年 愛媛県出身 医者

敬作が採取した土佐ミズキにシーボルトはケイサキイと名付けたとって

 今回紹介すっとは、シーボルトやその娘・おイネさんの物語に必ず登場する二宮敬作(にのみや けいさく)ばい。彼は農業のかたわらお酒ば売る、半農半商の家で生まれなったと。おとなしいけど賢い子どもで、早くから医者を目指しとったらしかよ。

 長崎に来たとは文政2年(1819)、16才の時。武士の家系でもなく医師の家系でもない敬作が、蘭学を目的に長崎遊学できたとやけん、もう時代もずいぶん新しくなっとったとね。
 長崎にやって来た敬作は、オランダ通詞の吉雄権之助(よしお ごんのすけ)、その弟・忠次郎(ちゅうじろう)から蘭学を学び、美馬順三(みま じゅんぞう)からは蘭方ば教えてもろうた。やがて文政6年にシーボルトが来日すると、美馬順三とともに門下に入り、一生懸命勉強したとって。遊学時代の敬作の暮らしといえば、貧しくていわゆる苦学生やったらしか。シーボルトから頼まれる調査や翻訳ばして、学費の支給を受けながら勉強に励んだとばい。

 ところで、シーボルトって、みんな知っとるやろか?
 出島にあるオランダ商館の医者として着任した人たい。ドイツ医学界の名門の家系に生まれたとけど、東洋の動植物や民族学にえらい興味のあったらしか。出島ではオランダ通詞やお医者さんたちに、医学や植物学の講義ばして評判やったけど、そいだけじゃなかとよ。当時、外国人は出島から出られんし、一般の日本人は出島への出入りはできんやったけん、シーボルトは長崎奉行から特別に許可ばもろうて、市中で診察や治療もしたとって。病気ば治してくれるシーボルトのうわさはあっというまに全国に広がって、日本中からたくさんの若か人が、教えば乞うために長崎に集まってきたとばい。やがてシーボルトは「鳴滝塾」を開き、そこで敬作も勉強したとさね。

二宮敬作の底力がわかるばい!

 さて、どちらかというと、歴史の中では控えめな印象のある敬作やけど、日本初の記録ば持っとるらしかよ。
 なんばしたと思う?・・・・・富士山の計測ばい。シーボルトが江戸参府したとき、同行した敬作に富士山の高さば計るごと言いなったと。そいで敬作は日本で初めて、日本一の山・富士山の高さば洋式測量術で計ったとって。これがきっかけになって洋式の測量術が日本でも広まっっていったらしか。すごかね。

 シーボルトに懸命に学んだ敬作は外科医としても成長し、シーボルトからもすごく信頼され可愛がられてたとって。こげんして鳴滝塾で良き師や先輩、同僚に恵まれ、長崎での学生生活を満喫していた敬作やけど、あるとき大事件に巻き込まれてしまうとばい。
 文政11年(1828)、西日本一帯をふとか台風が襲ったと。その台風のせいで、シーボルトが乗るはずやった船が座礁して積み荷が流出。それを調べていた長崎奉行所が国外持ち出し禁止の物ばたくさん見つけたとって。そいでシーボルトだけでなく、弟子たちもたくさん捕まってしまったとよ。その中には敬作もいて、一時、牢屋に入れられた。この事件は「シーボルト事件」といって、たくさんの人を巻き込んだ大きな出来事やったとよ。
 文政12年、この事件で国外追放の判決が下ったシーボルトは6年あまり暮らした長崎を離れることになったと。その後、敬作は釈放されて故郷の愛媛県宇和町に戻り、お嫁さんばもろうて開業したとけど、どんな境遇の患者さんでも懇切丁寧な診察ばしなったし、貧しくて診療費の払えん患者さんには無料で診察ばしなって、話題になったとって。

敬作にイネを託したシーボルトそれを忠実に守った敬作強か師弟愛たいね

 敬作の人柄のわかる出来事がほかにもあっとばい。天保10年(1839)、「蛮社の獄」っていうて、幕府による蘭学者たちに対する弾圧事件があったとさ。そん時に終身刑ば言い渡された高野長英(たかの ちょうえい)という蘭学者がおっとけど、牢獄ば脱走するとさね。敬作は、脱獄犯の長英ば自宅にかくまったとよ。長英は、敬作と同じく鳴滝塾の門下生。いわば学友たいね。終身刑の人ばかくまうってことは、それ相当の覚悟がいることやっけんね。敬作は友情ば大切にしとっとね。

 敬作は安政2年(1855)には宇和島藩の藩医になるとばってん、再来日が決まったシーボルトば迎えるため、その翌年には再び長崎へ来て開業しなったと。そいけど、安政4年に脳溢血で倒れてしまい、幸い命は助かったとけど、右半身は動かんごとなって、左手だけで上手に手術ばしよったとって。若か頃、シーボルトについてひたすら医学の勉強ばした敬作は、外科医師としても大成しとった。
 いよいよ安政6年、30年ぶりに再来日した恩師シーボルトに再会すっと。江戸へ行くシーボルトに同行するつもりやったばってん、脳溢血の二度目の発作を起こし、結局、同行を諦めた敬作はその3年後に長崎で亡くなってしまうと。

今も敬作が眠る晧台寺の門前

 敬作のお墓は、長崎市寺町の晧台寺(こうたいじ)のシーボルトの妻・おタキさんや娘のおイネさんのお墓の近くにあるとよ。もし機会があったら、真面目に勉学に励み、師であるシーボルトの恩を忘れることのなかった二宮敬作のお墓にお参りしてほしいにゃー。

じげにゃん

 シーボルトから娘・イネの養育を頼まれた二宮敬作は、後年、イネが医学の道ば目指したとき、オランダ語や西洋医学ば教え、その道に進めるよう心ば砕きなったとって。まだ女医のおらん時代やったけん、もし敬作が「女が医者になるなんてとんでもないっ!」という考えの持ち主やったら、イネは医者にはなれんやったかもしれんたいね。敬作は“日本初の女医さん誕生”の一番の功労者かもしれないにゃー。  今度は誰ば紹介しようかな。じゃあ、また次回も楽しみにしとってにゃん。

[原文:林すみこ / 切り貼り画:田中今日子]

参考文献
  • 『幻の宰相 小松帯刀伝』瀬野冨吉著(発行/宮帯出版社)
  • 『長崎遊学者事典』平松勘治著(発行/渓水社)
  • 『鹿児島大百科事典』(発行/南日本新聞社)
  • 『コンサイス人名事典』三省堂編集所(発行/三省堂)


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