たびながコラム

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江戸時代のストイックヒーロー

江戸時代のストイックヒーロー

了翁道覚(りょうおう どうかく)
1630年〜1707年 秋田県出身 僧侶・社会事業家

偉くなってからの道覚さん

 新しい年を迎えました。牛さんよりもモゥーッと目立つように、“じげにゃん”も頑張るけん、今年もどうぞよろしくニャン。
 さて、今回紹介すっとは、了翁道覚(りょうおう どうかく)禅師。仏教の大切なお経の本を集めてお寺に寄付したり、捨て子・迷子の養育や大火事の被災者の救済を一生懸命におこなったりと、教育文化、社会福祉、公共事業などに尽くしたお坊さんばい。

 了翁道覚は、今の秋田県湯沢市生まれ。小さい頃にお母さんば亡くし、お父さんもあまりの貧しさに育てきらんで、伯父さんの家に引き取られたとけど、その伯父さん夫婦も早う死んでしもうたとって。伯父さん夫婦が亡くなったとは流行り病が原因やったばってん、実の親と育ての親を次々に亡くした道覚は、「あの子は不幸を招く子どもだ」と言われ、引き取り手が無くなってしもうた。親のおらんだけでも大変かとにそがん噂までたてられて、本当に可哀想かよね。
 こうして道覚は、望んだわけじゃなかけど、龍泉寺というお寺に預けられることになったと。こんとき道覚は12歳、ここから了翁道覚の仏教の道が始まるとばい。

 ところで、みんなは「一切経」って知っとる? “じげにゃん”は初めて聞いたとけど、大蔵経とも言って、お経の百科全書みたいなものらしか。あらゆるお経ば集めたもんで、とても高価やったとって。ほら、あの『西遊記』に出て来る三蔵法師様は知っとるよね。あのお坊さんが旅に出たともこの一切経ば求めてやったげな。この「一切経」の存在が道覚の人生に大きく関わることになるとよ。

お金も時間もかかったばい・・・

 道覚は14才のときに平泉(岩手県)の中尊寺に行ったとね。そこには奥州藤原氏が奉納した一切経があったはずとやけど、どうしたもんかバラバラになってしまっとって、必死で探しても6巻しか見つけきらんやった。嫌々入った仏門けど、道覚はここで初めて、仏教における自分の使命みたいなもんば感じたとって。「大切な一切経、いわば仏教の大辞典がこんな状況になっとるとは、一般の人はもちろん、僧侶自身も仏教の意義ば理解しとらんけんたい!」と憤って、自分が生きとる間に一切経ば集めることば誓ったと。道覚は他の人ができない事をたくさん実現させたとけど、なかでも「一切経」の寄進は、偉業という言葉がぴったりのことじゃなかやろか。道覚は自分の宗派だけではなく、他の宗派のお寺さんにも同じように寄進したとよ。なかなかできんことばい。

 さて、そろそろ、長崎との関わりの話ばせんばいかんね。
 道覚と長崎を結びつけたとは、隠元禅師(いんげんぜんじ)。元和6年(1620年)、中国の僧・真円(しんえん)によって開かれた長崎市寺町の興福寺に、日本黄檗宗(おうばくしゅう)の開祖となる隠元禅師が承応3年(1654年)にやってきたと。当時、隠元禅師は高僧の誉れ高く、日本中の注目ば集めたとって。

 幕府の鎖国政策のもと、海外貿易の窓口になっとった長崎には、外国の様々な文化が入ってきて、そんなかに中国・明時代の黄檗文化もあったとね。隠元禅師が日本に伝えた黄檗文化は幅広く、仏教美術や建築はもちろん、インゲン豆、精進料理、お煎茶など数えきれんほどあっとよ。隠元禅師の噂はあっというまに日本中に広まって、仏教関係者だけでなく、各藩のお殿様からのお使いや学者などが、隠元禅師に会うために長崎に集まったと。今風に言えば「カリスマ坊さん」たいね。道覚も隠元禅師来日のことを友人から聞き、長崎に向かったとばい。
 今と違って、電車や飛行機で移動できる時代じゃなかけん、道覚は岡山や広島のお寺で修行をしながら待ち、ついに来日直後の隠元禅師に会うことができたと。そんでそのまま、長崎で修行を積んで黄檗宗の僧になったとよ。やがて隠元禅師は長崎から京都に移りなさったとけど、道覚も同行して、隠元禅師が京都に萬福寺を建立したときには、それはそれは尽力したとって。

夢のお告げの万能薬

 萬福寺の建立も無事に終わり、江戸へと移った道覚。「一切経」収集の悲願はあっても財力はなかし、後援者もおらんやった。ただただ仏に祈願するだけやったげな。あるとき、厳しい修行の後遺症に苦しんどった彼の夢枕に、黙子如定(もくすにょじょう)が現れたとって。長崎のジゲモンにはお馴染みの黙子如定は、中島川の「眼鏡橋」ばつくったことで知られとるお坊さんばい。それが夢で言うことには「後遺症ば治す薬の作り方を教えるけん」と。道覚が素直に処方に従って調合したら、あ〜ら不思議。本当に良く効く薬のできたとって!この薬に「錦袋円(きんたいえん)」と名前ばつけて、万能薬として売り出したとさね。そしたらこれが大当たり!そのお金で悲願だった一切経収集の夢ば実らせ、なおかつ天和2年(1882年)の江戸大火の被災民への義援金やら、捨て子や迷子の世話、亡くなった人の埋葬などに使ったとって。錦袋円は困っとる人たちには無料で配られ、江戸の人々は道覚のことを「如来様」と呼んで慕ったげな。
 道覚は一切経を集めただけでなく、上野に図書館をつくって一般の人も一切経ば見ることができるようにしたとよ。錦袋円で得たお金は、自分のためには一切使わんで、自分自身は本当に質素な暮らしぶりやったらしか。

平成の時代も健在!

 道覚は、こげんふうに慈愛と奉仕の人やったけん、終生周囲の人たちに慕われたことは言うまでもなかね。
 弟子のひとりが彼の最期ば書き残しとるとよ。亡くなる前の道覚のところに、出家したいという人が故郷・秋田湯沢市から来たとって。道覚の体調ば心配した周囲の人たちは止めたらしかとけど、「自分がする最後の出家の儀式」と言って微笑んで式に臨んだとって。そして自分で書いた法名ば渡して、「もう自分は長いことはなか」と死期が近づいたことを周りに告げて、2日後、静かに息ば引き取りなさったとって。錦袋円が爆発的に売れて、図書館までつくった道覚やったけど、自分の物はほとんど人々に分け与えとったけん、後に残ったとは竹製の法具と略式の袈裟だけやった…。

じげにゃん

 今回登場した黄檗宗のお坊さんの了翁道覚さんと隠元さんは、他にもみんなの身近なものにかかわっとっとばい。たとえば、カレーライスについてくる福神漬け。あれは道覚さんが考案したもんじゃなかろうかって言われとっとばい(諸説有り)。また、パソコンの文字でお馴染みの明朝体や400文字詰めの原稿用紙は、隠元さんが日本に広めたとって。何百年も昔の人たちやけど、なんだか親しみがわくニャー。
 今度は誰ば紹介しようかな。じゃあ、また次回も楽しみにしとってにゃん。

[原文:林すみこ / 切り貼り画:田中今日子]

参考文献
  • 『コンサイス人名事典』三省堂編集所(発行/三省堂)
  • 『長崎遊学者辞典』平松勘治著(発行/渓水社)
  • 『了翁禅師没後300年記念誌』了翁禅師没後300年記念誌編さん委員会編集(発行/了翁禅師没後300年記念誌事業実行委員会)


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