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線路は続くよどこまでも・佐藤政養

線路は続くよどこまでも・佐藤政養

佐藤政養)
1821年〜1877年 山形県出身 鉄道家

山形の名物ばい おいしかよね〜

きれいかね、鳥海山

 今回紹介すっとは佐藤政養。江戸時代に長崎で学び、維新後の政府にとって一大プロジェクトだった、日本鉄道創設の責任者として大きな業績ば残した人ばい。

 佐藤政養の出身地は今の山形県飽海郡遊佐町(あくみぐん ゆざまち)。出羽富士とも呼ばれる綺麗な山、鳥海山(ちょうかいざん)のすぐ近くの村で生まれたと。家は農家で、あんまり裕福ではなかったばってん、政養は農作業の合間に隣の村まで、漢学や書道、彫刻の勉強に通ったとって。1853年(嘉永6)に、仲良うしとった友達が江戸に行ったことに刺激ば受けて、「オイもいかんば!」って思うてから、江戸へと向かった。はじめは山形で学んどった漢学や彫刻ば勉強するつもりやったらしか。でも、こん年は浦賀にペリーが来たりして、江戸の町はいろいろと騒がしかったけん、政養はそれば見て、「国のためには蘭学の方がよか」と思い立ち、勝海舟(かつ かいしゅう)の門下生になったげな。

 勝海舟という師と出会った政養は、そこで蘭学、西洋砲術、測量術などば勉強したと。やがて勝と共に長崎に来て、長崎海軍伝習生として勉強ば始めたとよ。長崎海軍伝習所での政養はオランダ士官から軍艦操縦術、フルベッキからは洋学など、たくさんのことば学んで、外国の新しい知識と技術ば身につけていったとって。こん時に勉強したすべてのことが、後に日本の鉄道創設に役立つことになるとさね。政養はね、勉強のできただけじゃなかとよ。人柄が良かうえに才能もあるもんやけん、師である勝海舟から信頼されて塾頭まで務めたとってよ。
 長崎で新しか知識と技術ばしっかりと身につけて、勝と一緒に江戸に戻った政養は、幕府からも注目される存在になったと。そして国防の第一線で大活躍すっとばい。政養の凄かところは、命じられたことだけばするとじゃなくて、幕府に対してきちんと忠告もしたこと。当時、幕府は欧米と通商条約ば結んどって、神奈川の開港を約束しとったとけど、江戸湾の測量ばしたことのある政養は、「神奈川より横浜の方が開港には絶対的に有利」ということがわかっとった。だけん、そのことば師匠の勝海舟から幕府に伝えてもろうて、ついに横浜開港を実現させたとよ。今も開港当時のハイカラさが残る横浜は、開港前は小さな小さな寒村やった。だけん、幕府の人たちは大きか神奈川を開港した方が得策と思とったらしかけど、政養が綿密に調査して作った資料ば見た勝は、幕府ば説得して横浜開港にこぎつけたと。
 やがて江戸幕府が倒れ、時代は明治へと移るとけど、ここでも政養が長崎で学んだことが役立つとさね。

心血注いだ蒸気機関車


 維新後の新政府にとって、国内の交通網の整備は重要な課題。なかでも鉄道の建設は悲願というてもよかほどの大事業!その当時、政養の身分は幕臣やったと。でも、政養の持っとる知識と技術は、世界と対等に付き合いたい日本の新政府にとって、何としても欲しかった。こうして政養は、請われて新政府の仕事ばすることになって、東海道や関西方面の調査などたくさんの事業を、責任者となってこなしていった。鉄道技術自体は当時の先進国やったイギリスから導入したとけど、技師とのやりとりや、どこに線路ば敷くかなどの決定は政養の仕事やったとよ。
 また、政養は人材育成にも力ば入れたと。当時は鉄道の知識や技術を持った日本人は少なかったけん、どうしても外国人技師に頼るところの大きかったとね。当然、高給で雇わんばいかんごとなるし、政養は国費の損失と考えとったらしか。それで、自分で塾ば開いて技術者の育成と指導に励んだとって。
 たくさんの努力のかいあって、日本で初めての鉄道がみごと開業。1872年(明治5)、東京の新橋から神奈川県横浜市までの29キロば蒸気機関車が走った!

 ところで、日本で初めて鉄道ば開業したとは東京やけど、初めて蒸気機関車が走ったとは長崎やったって知っとった?新橋から横浜に向けて汽車が走った7年前の1865年(慶応元年)、外国人商人のグラバーさんが長崎で蒸気機関車ば走らせたとばい。大浦海岸通りに600メートルほどのレールば敷いて、今の市民病院前から松が枝まで、客車2両ばつないで人ば乗せて走ったとよ。汽車の名前はアイアンデューク号、カッコよか名前やね。この汽車は上海博覧会に出品されたイギリス製で、そればグラバーさんが買いなったと。グラバーさんは造船や炭坑やらの商売ばしよらしたけん、長崎で鉄道業ば始めるつもりじゃなかったとやろかと思うたら、そうでもなかったとばいね。でも、当時の人々に刺激ば与えたのは確かたいね。

望遠鏡は家茂から、軍扇は明治天皇からの褒美ばい

 さて、日本の鉄道史に名を残す貢献ばした政養は、55才という若さで亡くなってしまうとけど、江戸時代には将軍・徳川家茂から、明治時代には明治天皇から褒美ば贈られとるとよ。二つの時代にまたがって、「鉄道」という新しい輸送のかたちを切り開いた偉人ばいね。政養が残した、東海道や中山道の地図、調査文書など、資料の数々は交通博物館や鉄道博物館に保存されとって、それば見ても政養の持っとった知識や技術のレベルの高さがようわかるらしか。
 みんなも汽車に乗る時には、長崎での遊学を経て鉄道線路を繋ぎ延ばした「佐藤政養」のことば思い出してみてニャー。

じげにゃん

 鉄道といえば、今は「長崎駅」が長崎本線の終点ばってん、昭和の時代には出島岸壁まで線路が延びて、「長崎港駅」という駅があったとばい。上海行きの日華連絡船に乗る人には便利やったとって。戦後は貨物列車しか走らんごとなって、とうとう昭和62年に廃線となってしもうたとけど。「懐かしかねー」と、覚えとる人もおるかもたいねー。
 今度は誰ば紹介しようかな。じゃあ、また次回も楽しみにしとってにゃん。

[原文:林すみこ / 切り貼り画:田中今日子]



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