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長崎・激動の時代の目撃者

長崎・激動の時代の目撃者

長井長義(ながい ながよし)
1845年〜1929年 徳島県出身 薬学者

エフェドリンのおかげでいくらか楽に・・・

阿波踊り。長義の故郷の踊りたいね

 「長崎で見るもの聴くもの、新しくないものなど一つもなく、別世界にきたよう」。長崎に遊学した長井長義は、こがん手紙ば書いとっとばい。近代薬学の世界に大きな業績ば残した人ばってん、知っとる人は案外少なかかもねー。薬の開発や、大量生産を可能にしたとって。長義の開発した薬は、今でも風邪や花粉症の薬に使われとっとよ。

 長井長義は阿波藩の御殿医(ごてんい)の家に生まれた。お父さんはお殿様に仕えるお医者さんやったとよ。でも、長義のお母さんは若こうして亡くなってしまったけん、「おいは医者とに、妻ば助けられんやった…」って、自分ば責めたとやろか。お父さんは、長義にも医者になってほしかと思うて、たくさんの事ば教えなったって。塾に通わせて漢学や蘭学を学ばせ、道を歩く時にもボーっと歩くことはせんで、薬草を見つけては幼い長義に、効能ば教えなったとって。長義も優秀やったばいね、そのかいあってか、15歳の時には、お父さんの代診ばできることなっとったって。!すごかねー!

 こがんして一生懸命勉強しよった長義は、22歳の時に阿波藩のお殿様から、長崎遊学ば命じられたと。このことが後の長義を、世界的な薬学者にするとけど、当然まだ誰も、長義自身も知らんこと。当時は最先端の新しかことば勉強しようとするなら、長崎にいかんば始まらけん。たぶん、お殿様もお父さんも、長義は立派な医者になるもんと思うて長崎に出したとやろね。最初は精得館(元長崎養生所)で、オランダ人医師のボードウィンやマンスフェルトから西洋医学ば習うた。そいけど、いろいろ勉強するうちに、医学より化学に興味ばもったごたるね。そして化学者にしてカメラマンの上野彦馬の弟子になったと。そこから長義は、舎密学(せいみがく)つまり化学のおもしろさに目覚めてしもうたとさ。彦馬のもとで更に一生懸命勉強して、写真撮影にも同行したりしたとって。

日本にも長義にも変革ばもたらした人たち

 そんの頃の彦馬邸には、坂本龍馬や大久保利通、伊藤博文などが出入りしよった。後の日本ば大きく変えることになる彼らの持つエネルギーは、計り知れないものがあったとやろうね。長義も影響ば受けたと思う。長義が長崎に来たとは1866年(慶応2)、22歳の時やった。そいで遊学を終えて長崎を去るのは1868年(明治元)。慶応から明治に変わる、ちょうどその激動の時を、長義は長崎で過ごしたわけたいね。

坂本龍馬や大久保利通たちが、“政治”の世界で時代を変革へと導いたというならば、長義は漢方から近代薬学へと日本に薬学の変革を起したというてもよかよね。そんな長義の、長崎遊学で受けた刺激の強さがよう伝わってくるとが、後に知人に宛てた手紙ばい。
 曰く、「初めて出会う異国の人々の印象、初めて見る石炭の煙、そしてその燃える臭い、彦馬に同行して黒船と呼ばれた軍艦の中に入り目にした、異国の人々の食事風景。日曜日のミサに集う人々、初めて口にした西洋料理・・・」。
 「長崎で見るもの聴くもの、新しくないものなど一つもなく、別世界にきたよう。私の思想も新しくなりはじめた」。「衝撃」という言葉ば使うてもオーバーじゃなかごと、長崎の様子には相当の刺激を受けたことが、ようわかるやろ。

本当にお世話になったばい

 長崎ば出た後、長義は1870年(明治3)に、後の東京大学医学部に入学する。化学の勉強ばしたかったとけど、当時の日本には、まだ化学を教える機関がなかったけんね。
 江戸時代から明治時代へと大きく変わった日本やけど、政府はたくさんの問題ば抱えとった。新しくなった日本が諸外国と対等に向き合うためには、まだまだ足りんもんがいっぱいあったと。その一つが医療やったげな。
 「医療環境の整備を早うせんば!」と思うた明治政府は、1871年(明治4)に初めての国費留学生をアメリカとヨーロッパへ送り出した。その中に長義もおったとさ。この時の留学で長義はドイツのベルリン大学へいったと。
 でもね、医学生として留学したとけど、ホフマン先生から化学や薬学を学ぶうち、「やっぱりこっちがおもしろか」って思うたみたいやね。医者であるお父さんの跡を継ぐつもりやったし、医学生という立場でドイツに留学したわけやけん、散々悩んだとけど、結局は許しば貰うて化学(薬学)へと、研究の方向転換ばすることになったと。
 その後、ベルリン大学で助手として頑張っとった長義。なんと約13年間、ドイツで勉強ば続けたとさ。日本人学生は長義ひとりやったらしかし、長義自身も真面目に勉強して教授たち達の教えに応えたとやろね。だけん、ベルリン大学では本当に大事にされたらしか。

世紀の大発見たい!

 1884年(明治17)、日本政府からの願いでやっと帰国。東京大学で薬化学、化学を教えたり、内務省衛生局東京試験所長も兼務して、薬の成分分析などもしなったとって。そして、日本で初めての半官半民の製薬会社の技師長として、技術の指導にあたったと。翌年明治18年には漢方薬「麻黄」からエフェドリンば発見! その3年後、日本で初めての理学博士になったとよ。その後は日本薬学会ば創って初代会頭になり、その後もずっと薬の研究に没頭したと。
 そのまた一方で、長義は、女性に対しての化学教育の必要性を唱えて、日本女子大学の創立にも尽力したとよ。創立後は化学の講義ばするって言うて、自らが教壇に立ったとよ。長義の奥さんは留学先で巡り会ったドイツ人女性のテレーゼさん。長義はテレーゼと協力し、日本女性への化学教育を定着させようと、がんばったとね。女性への新しい教育に熱心だった長義の胸には、長崎遊学時代に感じた「新しい時代の息吹」が消えずに残っとったって思う。

じげにゃん

 長義の教えを受けた多くの後輩たちが、後の日本の薬学会で活躍したとって。自分が学んだことを後世へと繋ぐことにも一生懸命だった長義は、日本の薬学の道ば切り開いたというてもよか人たいね。やっぱりすごかよね。

[原文:林すみこ / 切り貼り画:田中今日子]

参考文献
  • 『旅する長崎学7 近代化ものがたり1』(発行/長崎文献社)
  • 『長井長義傳典』金尾清三著(発行/社団法人 日本薬学会)
  • 『長崎遊学者事典」平松勘治著(発行/渓水社)
  • 『コンサイス日本人名事典』(発行/三省堂編集所)


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