たびながコラム

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幕末の長崎1

“長崎って何藩ですか?”という質問が少なくありません。長崎は、どの藩に属していたのでしょうか?・・・実は、長崎はいずれの藩にも属していませんでした。不思議ですよね。
いったい、“長崎”ってどんな地域なのでしょう。

少し歴史をさかのぼって、 “長崎”を紹介しましょう。
 

南蛮貿易とキリスト教のはじまり

長崎県北部の平戸では、古い時代から倭寇や松浦党水軍の根拠地のひとつであり、長崎県北部の政治・文化の先進地でした。中世末期には、南蛮貿易の中心地として歴史に登場します。
1543年(天文12)、種子島にポルトガル船が漂着し、日本に鉄砲が伝わります。次いで1549年(天文18)にはイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、布教を開始しました。しかし、当時の薩摩領主であった島津貴久(しまづたかひさ)はキリスト教に関心を示さなかったため、ザビエルは翌年に鹿児島を去ります。しかし1541年にザビエルと一緒にインドへ渡航したという船長ミランダが平戸に来航していることを知り、ザビエルは平戸を訪れます。

ポルトガル船入港の地(平戸市) ポルトガル船入港碑(平戸市) フランシスコ・ザビエル記念碑(平戸市)
ポルトガル船入港の地
(平戸市)
ポルトガル船入港碑
(平戸市)
フランシスコ・ザビエル記念碑
(平戸市)
 

平戸領主・松浦隆信(まつらたかのぶ)は、ポルトガル人船員たちが敬愛しているザビエルを歓迎し、貿易にも熱心だったこともあり、ザビエルに布教活動を認めました。これが、長崎における南蛮貿易とキリスト教布教のはじまりとされています。
しかし、1561年(永禄4)の宮の前事件などの紛争により、ポルトガル船の寄港地は平戸から西彼杵半島(にしのそのぎはんとう)の北端にある大村領の横瀬浦(現西海市西海町)へと移ります。翌年大村領主・大村純忠(おおむらすみただ)への反乱が起こり、武雄の後藤貴明(ごとうたかあきら)らの攻撃によって横瀬浦の港は焼き討ちに遭います。

横瀬浦公園の眺め(西海市)
横江浦港の眺め(西海市)
横瀬浦公園と横江浦港の眺め(西海市)
一時的にポルトガル船の寄港地は平戸に戻りますが、1570年(元亀元)に長崎へと寄港地を移します。当時の長崎は、大村純忠の家臣・長崎甚左衛門(ながさきじんざえもん)の領地で小さな漁村だったのですが、天然の良港でした。年々ポルトガル船の来航によって、港町として発展をとげていきました。岬の先端にまちづくりが始まり、みるみる人口も増えました。南蛮貿易によって莫大な利益をもたらすことから、周辺諸国の領主は誰でもがポルトガル船の入港を望んでいたため、大村純忠には様々な圧力がかかっていました。そこで大村純忠は、1580年(天正8)に長崎と茂木(現長崎市南東部)を、そして口之津で南蛮貿易を行っていた有馬領主・有馬晴信(ありまはるのぶ)も領地の浦上をイエズス会教会領として寄進したのです。
 

直轄領・長崎とキリスト教

ポルトガルとの貿易は、莫大な利益をもたらしましたが、貿易とキリスト教布教は切り離せない関係にありました。
その頃日本では、1582年(天正10)にキリスト教を保護していた織田信長が本能寺の変で倒れると、豊臣秀吉が全国統一を果たします。1587年(天正15)に大村純忠は没し、秀吉は九州を制圧すると、「伴天連(ばてれん)追放令」を発令し、イエズス会から長崎・茂木・浦上を没収し、直轄領(天領)としました。翌年には佐賀の鍋島直茂(なべしまなおしげ)を長崎の代官として任命しました。この地を統括する長崎代官には、大きな権限が与えられました。鍋島直茂に次いで任命された寺沢広高(てらさわひろたか)の時に長崎奉行の役職名が与えられました。徳川幕府も秀吉と同様に、長崎を直轄領としました。

なぜ幕府の直轄領にしたがるのでしょう?それには大きく2つの理由がありました。
ひとつは、長崎で行われる貿易の利益を独占するため、そしてもうひとつは、キリシタンを監視するためでした。

禁教令発令にもかかわらず、キリシタンの町として半ば黙認され、栄えていた長崎でしたが、1596年(慶長元)に起こったサン・フェリペ号事件では、長崎西坂の丘で26人を処刑させるという殉教事件にまで発展しました。それから長崎や大村、島原など各地でキリシタンの弾圧が始まりました。1637年(寛永14)には妊婦を拷問死させたことに憤慨した信者らが起こした島原の乱により、キリシタン取り締まりはますます強化されました。
1639年(寛永16)、幕府はイエズス会との結びつきが強かったポルトガルとの交易を断絶し、出島に住まわせていたポルトガル人を追放しました。平戸から出島にオランダ商館を移し、長崎での貿易はオランダと中国に限られました。長崎港の警備は九州大名によって行われ、江戸幕府の『鎖国』が完成しました。

今も残るオランダ塀 荷の積み上げを行っていたオランダ埠頭
今も残るオランダ塀 荷の積み上げを行っていたオランダ埠頭
 

 

国際貿易都市へ

秀吉の政策を継承して長崎を天領とした江戸幕府は、1603(慶長8)年に小笠原一庵(おがさわらいちあん)を長崎奉行に任命しました。いったい長崎奉行はどんな仕事を行っていたのでしょうか。
長崎奉行は、長崎の統治、外交交渉、貿易事務、長崎の警備、密貿易やキリシタンの取り締まりを行っていました。
しかし内町の行政は、町年寄をトップとする自治組織に委任され、外町と長崎村、浦上村の行政は、有力な豪商による代官によって行われました。
もともと長崎は、各地から逃げてきたキリシタンや、富をもとめて集まった商人、ポルトガル人や中国人などが多く住んでいました。鎖国の時代下においても、オランダ・中国との貿易は長崎でのみ行われていましたので、国際貿易都市としてますます発展していきます。
長崎では、封建的な家柄などよりも個人の才能が重視され、指導者としての資質や商才にたけたものが町を治め、尊敬されました。
幕府の直轄地でありながら、長崎の町人たちは奉行のもとで自治組織を形成して行政の実施を行うなど、他の都市にはない独特な都市“長崎”を創り上げました。
 

海外文化の窓口・長崎

西洋文化の窓口
近世の長崎は、海外文化を受け入れる窓口として発展し、ポルトガル・スペイン・イギリス・オランダ・中国などの文化が伝わり、長崎ならではの美術工芸を生み出していきました。
長崎の港が最初に開かれたのはポルトガル船との貿易によってでした。次いで唐船に乗った中国人が長崎の町に住み、スペイン人が出島に住み、次いでオランダ人が定着しました。当時の日本では知ることができなかったヨーロッパや中国大陸のさまざまな文化が次々と持ち込まれたのです。長崎の人々は、それらの文化に接し、長崎奉行の援助を受けて異国の美術工芸を習い伝えるようになったのです。
この長崎の人々に伝えられた新しい異国の美術工芸は、やがて江戸に、そして大坂、京都へと伝わり、日本の近代化に大きな影響を与えていったのです。
 

異国の技術を受け入れ、引き継いでいった長崎の人

幕末までの長崎はどんなふうに発展していったのでしょうか、少し具体的に見ていきましょう。

1570年(元亀元)に長崎が開港して以来、来航していたポルトガル船には、キリスト教の布教を目的としたイエズス会の神父たちも多く乗っていました。当時、長崎の町人は熱心なキリシタンでしたので、町人の協力によって大きな教会が建てられました。セミナリヨ(小神学校)、コレジョ(大学)という学校施設や画学舎(ががくしゃ)という油絵の画法を教える施設も建てられたといいます。ここでは信者に配布するためにマリア様やキリスト、聖者などの絵像・銅版画が制作されました。また京都や大坂で教会が多く建てられた頃には、教会内部を装飾するヨーロッパ風の壁画や彫刻を制作するために、長崎の芸術家たちが多く招かれたといいますので、当時の長崎にはヨーロッパ風の芸術工芸を制作できる人たちがすでにいました。
強い陰影をつけて表現される油彩は、多くの日本人を驚かせました。「南蛮画」「蛮画」ともよばれました。
南蛮貿易時には、美しいラシャの布やタバコ、ポルトガルの葡萄酒・チンダ酒、ビイドロ(ガラス)などが輸入されました。
特にガラスは、ポルトガル人が長崎でその製法を教えました。そして長崎から大坂・江戸へと製法は伝えられました。このビイドロ細工のひとつに眼鏡細工がありました。
長崎の浜田弥兵衛(はまだやへえ)がポルトガル文化圏にて、その製法を習い伝えたといいます。また1603年(慶長8)には、長崎には時計細工師もいました。江戸時代になると長崎の時計師は幕府の御用時計師に任命されています。

出島
出島
そして1641年(寛永18)よりオランダ船が長崎に入港するようになります。
オランダからは西洋の医学が伝えられました。オランダ商館にはオランダ語の医学書や医者も送られ、長崎の人たちはヨーロッパの新しい文化や学問を吸収していきました。
当時、出島に出入りできていたのは、オランダ通詞や役人、使用人、丸山遊女など限られていましたが、出島の使用人の中には御用絵師や御用細工人なども多くいましたので、これらの人々によって伝えられました。
また、杉田玄白(すぎたげんぱく)と前野良沢(まえのりょうたく)らによって翻訳された『解体新書』によって、医学と同時に蘭学も全国に広まっていきます。
オランダ船や唐船によってタイマイ亀(和名:タイマイ)の甲羅を材料とする鼈甲(べっこう)細工も長崎に伝わりました。中国人に鼈甲細工の技術を習い、細工人たちは女性の装飾品や置物などを製作しています。やがて長崎の鼈甲職人たちは、江戸時代後期には江戸や大坂へ進出していきました。
また唐船からは、美しい貝細工の漆工芸品や黄檗派(おうばくは)の絵画も伝えられています。1644年(寛永20)に中国より来航した画僧逸然性融(いつねんしょうゆう)は長崎の画人たちに大いに影響を与えました。渡辺秀石(わたなべしゅうせき)は逸然の画風から中国の新しい画法を学びとり、漢画の画風を確立しました。19世紀には南画が伝えられ、僧鉄翁(てつおう)や木下逸雲(きのしたいつうん)、三浦梧門(みうらごもん)と長崎南画の三画人が高い評価を受けています。

このようにして、長崎の人々は海外の文化を受け入れ、近代化の礎を築いていったのです。

 

ここから近代化の技術は広がった・・・長崎海軍伝習所

イエズス会本部、奉行所西役所、海軍伝習所跡
1853年(嘉永6)のペリー来航以来、イギリス・フランス・ロシアなどが琉球(沖縄県)や浦賀(神奈川県)、長崎に来航し、通商を求める事件がつぎつぎと起こります。
日本では、これまで通りに外国人を入れてはならないと主張する攘夷論と、時代に合わせて開国しようとする開国論とに国論が二つに分かれ、騒然とした幕末の真っただ中に突き進んでいきました。
イギリス・フランスなどの列強国の侵略を防ぐため、江戸幕府はオランダの助力を得て、1855年(安政2)に長崎海軍伝習所を設立しました。
オランダ国王から軍艦「スームビング号(のちに観光丸)」が献上され、長崎在勤の目付永井岩之丞(尚志)を取り締まりとし、勝麟太郎をはじめ、各藩から選りすぐりの青年約120名が、オランダ人教官のもと、長崎奉行所西役所(現長崎県庁)敷地内の海軍伝習所で必要な学科を学びました。
ここでは主に地理・物理・天文・測量・機関・航海術・造船術・砲術などの高度な技術を学んだといいます。まさに近代教育らしい内容ですね。
1857年(安政4)には、幕府がオランダに注文していた「咸臨丸(かんりんまる)」が第二次教官団とともに入港しました。咸臨丸は、勝麟太郎が1860年(万延元)に艦長として太平洋を横断し、遣米使節の役目を果たしたことでも知られています。この第二次教官団の中には、艦長カッティンディケ中尉(のちのオランダ海軍大臣)、医師ポンペ、ハルデスなどがいました。

近代化の技術がこの長崎海軍伝習所から広がっていくこととなるのです。
幕末であっても、長崎は西洋の近代技術の窓口としてその役割を果たします。この海軍伝習所から長崎溶鉄所(長崎製鉄所)、近代医学、洋式採炭技術、唐通事・オランダ通詞、英語伝習所、活版印刷・・・国内各地から、新しい科学や技術を吸収したい若者たちが、この“長崎”を目指していたのです。

次回は幕末の長崎で活躍した人々を取り上げながら長崎を紹介していきます。


参考資料


 歴史散策「長崎奉行所立山役所 長崎公園」

長崎歴史文化博物館
現在「龍馬伝館」が開催されている長崎歴史文化博物館は、かつて長崎奉行所立山役所があった場所です。発掘調査で発見された当時の遺構の一部を活かし、奉行所が復元され、博物館に併設されています。

奉行所の入り口
奉行所の入口の石垣を見てみると、当時の石垣と復元された石垣では明らかに色が異なり、当時の様子が偲ばれます。1867年(慶応3)に起こった「イカルス号事件」の取り調べでは、坂本龍馬もこの石段を上がったことでしょう。当時の奉行所の姿を体感してみてください。

長崎公園
また博物館裏手にある長崎公園には長崎に貢献した人々や長崎にゆかりのある人物の記念碑が自然に溶け込むように存在し、長崎の歴史の厚みを感じさせる空間となっています。
一部をご紹介します。

テュンベリー記念碑、シーボルト記念碑
スウェーデン人の医学者・学者であったテュンベリー記念碑、シーボルト記念碑
上野彦馬之像
日本初のプロカメラマンとなった上野彦馬之像
本木昌造翁像
日本初の鉛版印刷に成功した本木昌造翁像
長崎甚左衛門之像
今回の長崎港の歴史に登場した長崎甚左衛門之像
日本初の噴水公園
1878年(明治11)頃に建造された日本初の噴水公園といわれています。復元されて今日に至ります。
諏訪神社
噴水のある日本庭園からは諏訪神社へ。10月に行われる長崎くんちは有名です。

この公園は自然豊かで、1932年(昭和7)に上海から長崎へ運ばれたというオーストラリア原産のトックリノキなどが植えられ、歩いて眺めているだけでも癒されます。スロープも整備され、ベビーカーで散策する親子も少なくありません。
博物館を堪能した後に、ぜひとも立ちよってほしいスポットです。

 

周辺散策地図


 


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