たびながコラム

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平戸藩

南蛮貿易後の平戸

前回の「長崎の幕末1」でも平戸の歴史を紹介しましたが、中世末期には南蛮貿易の中心地として栄えました。しかしオランダ商館は出島に移り、貿易港も平戸から長崎へと変わりました。
このことにより、平戸藩の財政は大打撃を受け、寛永年間には深刻な財政難に陥りました。南蛮貿易断絶後の平戸藩では、まずは農業に基盤をおき、新田開発を行いました。また1725年(享保10)から始まった益冨組による捕鯨が一大事業として栄えました。商人のなかには鯨突に転向する人も多く、18世紀中期には捕鯨業がピークに達します。平戸から壱岐、対馬、五島、西彼杵(にしそのぎ)、長州(山口県)など各地に漁場をひろげました。益冨又左衛門から藩主へ納入された献金は15万2000両を超えるほどで、平戸藩の財政を支えました。そして19世紀には石炭業にも取り掛かりました。相浦や小佐々町で炭坑をひらき、長崎や博多、瀬戸内海の塩田へ石炭を送っていました。その後、草刈太一左衛門は、中里・相浦・佐々・小佐々一帯の石炭山を経営し、明治以降に栄える北松炭田のもとを築きます。
しかし、新田開発による増収が限界に達したことや捕鯨業の衰退も起因し、またも財政難に陥ることになりました。
 

松浦清[静山](まつらきよし・せいざん)

1775年(安永4)に平戸藩主となった清[静山]は、平戸藩財政の再建を図り、節約の実行を藩士に徹底させました。そして農業が根本であるとして藩内の各地に新田や新畑を開拓し、土木治水や耕牛・農機具の貸与などに力を入れました。洪水や旱魃などで天災による飢饉のときには税を免除し、被災者を救うために米を与えるなど安定を図りました。
また農業とともに平戸藩の重要な基幹産業である漁業においては、清[静山]みずから捕鯨の様子を検分して当事者を激励しています。そして魚市場を作り、魚介類の流通と価格を安定させ、漁港の護岸工事を行うなど漁業の保護発展に取り組みました。

中山愛子像(平戸城亀岡公園)
中山愛子像
(平戸城亀岡公園)
[静山]は自らの生活も質素に努め、藩用の出納は非常に厳格で、無駄遣いせず、常に節約させました。さらに財政の安定を図るため、1790年(寛政2)『財用法鑑(ざいようほうかん)』を、そして1795年(寛政7)に藩の会計法を改革して条規を定めた『国用法典(こくようほうてん)』を編集しました。清[静山]は、平戸藩の民生の安定・安行の発展に尽くしました。
[静山]の第11女・愛子は、中山忠能と結婚し、慶子(よしこ)をもうけました。この慶子は、典侍として孝明天皇に仕え、明治天皇を生みました。このことから、清[静山]は、明治天皇の曽祖父にあたります。

 

名著『甲子夜話(かっしやわ)』

ある日、親交が深い林述斎(はやしじゅっさい)が清[静山]を訪れました。話題が4代藩主・松浦鎮信[天祥](まつらしげのぶ:てんしょう)の著述『武功雑記(ぶこうざっき)』におよんだ際に、林述斎が清[静山]に著述をすすめました。清[静山]は刺激を受け、その夜から筆をとります。この夜が1821年(文政4)11月17日甲子(きのえね)の夜であったことから、「甲子夜話」と名づけられました。

「甲子夜話」は、どんな内容かご存知ですか?

「甲子夜話」は、歴史書や民俗書、説話文学の要素を持っており、当時の社会・風俗・宗教・自然現象・地理・博物誌、朝廷や幕府、そして一般庶民の生活ぶり、さらに笑話にいたるまでこと細かく描かれた随筆集です。中には挿絵も描かれており、全編で287巻という膨大な著述書です。
この原本は、松浦家より寄贈を受けた松浦史料博物館に保管され、展示されています。興味がある方は、ぜひ平戸市の松浦史料博物館へ見に来てください。

【松浦史料博物館】

[現在特別展覧会『平戸藩の明治維新』が開催されています!!]
松浦史料博物館特別展覧会『平戸藩の明治維新』
■期 間 2010年5月1日(土)〜2010年12月28日(火)
■入場料 大人500円 高校生300円 小・中学生200円
■主 催 平戸市・財団法人松浦史料博物館
■開館時間 8:00〜17:30/8:00〜16:30(12月のみ)
■休館日 年末年始のみ(12月29日〜1月1日)
■お問い合わせ TEL: 0950-22-2281
 

平戸藩校「維新館(いしんかん)」

平戸藩学の基礎は、4代藩主・松浦鎮信[天祥](まつらしげのぶ:てんしょう)が山鹿素行(やまがそこう)と親交が深く、素行の弟平馬と孫の高道が平戸に使官して山鹿の学統を伝えたことに始まります。そして松浦清[静山]は、文武の奨励と振興を目的として、藩校「維新館」を設立します。総裁・教頭のほかに数名の教授や助教授、漢文の読み方を教える句読師(くとうし)らを置き、清[静山]自身もしばしば教壇に立って講義を行いました。維新館の開校により、学問を志す人が増え、数年ではやくも校舎の建て替えが必要となったといいます。現在の平戸小学校近くに校舎を新築し、隣に武道場を設置しました。

この維新館では、正課として中国の四書(大学(だいがく)・中庸(ちゅうよう)・論語(ろんご)・孟子(もうし))と五経(易経(えききょう)・書経(しょきょう)・詩経(しきょう)・春秋(しゅんじゅう)・礼記(らいき))などがありました。
藩の子弟は、13歳で入学し、句読を三年間学んで秀士となり、のち三年で学員に補し、さらに三年で官に就くことができました。主人の乗った馬の周囲で警護を行う役目にあった馬廻(うままわり)以上の子弟は、13歳から35歳までの間に入学しなければ厳しい罰則があったといいます。

吉田松陰が平戸を訪れた際に滞在したといわれる紙屋跡
吉田松陰が平戸を訪れた際に滞在したといわれる紙屋跡
この維新館のことを知り、平戸を訪れた中の一人に吉田松陰がいます。この当時吉田松陰は、諸外国の事情を研究しており、日本の新たな防衛策の必要性を感じていました。山鹿流兵学をさらに深く学ぶために遊学の旅へ出て、目指した場所がこの平戸だったのです。儒学者で平戸藩家老でもあった葉山佐内にひかれ、紙屋に滞在しながら数多くの書物を読み、書き写したといいます。

この維新館では、多くの人材が育ちました。幕末に行動した人物や明治期に活躍した人物など少なくありません。

次回の「歴史発見 長崎幕末編」平戸藩の2回目では、この人々にもスポットを当てながら紹介していきます。


歴史散策「田助(たすけ)港周辺」

オランダなどとの貿易が断絶した後、松浦鎮信[天祥](まつらしげのぶ:てんしょう)が平戸港の副港として整備したのが、この田助港です。壱岐や小値賀から50戸ほどの住民を移住させて拡張し、商人たちが集まり港町として栄えました。
幕末当時は、回船問屋や船宿、遊女屋などが立ち並び、賑わいました。当時、長崎・長州間の船旅では、寄港地として利用されていたといいます。薩摩藩とゆかりのある回船問屋多々良孝平の角(すみ)屋や明石屋には、西郷隆盛や桂小五郎、高杉晋作など薩長のそうそうたる志士が集まり密談していたといわれています。主に明石屋が密談や隠れ家として利用され、隠れ部屋や脱出口が設置されていたといいます。
田助港
田助港
松浦鎮信[天祥](まつらしげのぶ:てんしょう)が平戸港の副港として整備したのが、この田助港です。
永山邸(明石屋)
永山邸(明石屋)
永山邸はもともと回船問屋明石屋で、1903年(明治36)の火災で焼失しましたが、翌年には消失前とそっくりに再現したといいます。
浜尾神社・田助ハイヤ節発祥の地
浜尾神社・田助ハイヤ節発祥の地
起源はあきらかではありませんが、蘭学者の司馬江漢が1788年(天明8)に田助を訪れたとき、船宿の繁栄振りとともにハイヤ節を表すものと考えられる記述を日記に残しています。

維新志士会合の碑
維新志士会合の碑
薩摩藩の西郷、長州藩の高杉、桂、肥前藩の大隈などの英傑がこの地で会合して密かに謀議を行ったといいます。
現在は、多々良孝平氏の居宅から浜尾神社に移設されています。

田助港は、平戸城から北へ向かって車で約8分のところです。
 

周辺散策地図


永山邸 維新志士会合の碑 浜尾神社・田助ハイヤ節発祥の地


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