たびながコラム

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大村藩

少し時代をさかのぼり、日本初のキリシタン大名として知られる大村純忠の生涯からご紹介します。純忠は、横瀬浦、福田、長崎を開港し、ポルトガル船を入港させ南蛮貿易をおこない、天正遣欧少年使節をローマへ派遣しました。戦国領主として苦しい領国経営を迫られるなか、中世から近世に移る時代の狭間で西洋文明と出会った彼は、海外への見果てぬ夢を抱いていたのでしょうか。
 

キリシタン大名 大村純忠

1533年(天文2)、大村純忠は、島原半島を治める有馬晴純(はるずみ)の次男として生まれましたが、大村純前(すみさき)の養子となり、17歳で大村家を相続します。しかし、大村家にはひとりの男子がすでにいました。純忠が大村家に迎えられる前に、武雄の後藤純明(すみあきら)のもとへ養子に出され、後藤家を相続した後藤貴明(たかあきら)です。この養子縁組により、貴明は純忠に恨みを持つようになり、生涯にわたり純忠を攻撃しました。

横瀬浦史跡公園(西海市)
横瀬浦史跡公園(西海市)

1561年(永禄4)、平戸で起こった宮の前事件などにより、ポルトガル船は平戸から撤退しました。平戸に代わる港を探していたイエズス会は、西彼杵半島(にしのそのぎはんとう)の北端にある大村領の横瀬浦(現 西海市西海町)を視察し、純忠と開港協定を結びました。1562年(永禄5)、横瀬浦は貿易港として開港することとなります。
ポルトガルとの貿易は莫大な利益をもたらしましたが、貿易とキリスト教布教は切り離せない関係にありました。純忠はポルトガル貿易における免税、キリスト教布教の自由、教会の建設などの特権を与えたといいます。翌年には、重臣たちとともに自ら洗礼を受け、日本初のキリシタン大名となりました。そして横瀬浦には教会が建てられ、多くの商人たちで賑わったといいます。
しかし1563年(永禄6)、キリシタンとなった純忠を快く思わない仏教徒の家臣らが、後藤貴明らと結託し、謀反を起こします。横瀬浦の港は焼き討ちに遭い、開港からわずか1年あまりで壊滅してしまいます。

その後貿易港は大村領内の福田へと移りますが、今度は平戸領主・松浦隆信(まつらたかのぶ)によるポルトガル船襲撃などもあり、最終的に長崎が開港することとなりました。外海に直接面するために風や波が激しかった福田と比べ、長崎は貿易港に適した天然の良港でした。

天正遣欧少年使節顕彰之像
天正遣欧少年使節顕彰之像
長崎空港から大村市内へ向かうと右手に見えます

長崎の開港後、港に突き出た長い岬には新しい町が誕生して賑わいます。しかしながら、隣接する西郷氏や深堀氏の度重なる攻撃をはじめ、龍造寺氏の圧力、有馬氏の口之津開港の動きなど、純忠を取り巻く情勢は町の繁栄と反比例するかのように厳しく、悪戦苦闘の日々でした。こうしたなかで勢力を保とうとする純忠は、長崎と茂木をイエズス会に寄進することを巡察使ヴァリニャーノに申し入れるという策を講じました。

天正夢広場
天正夢広場
JR大村駅から徒歩2分のところにあります。
純忠は、1582年(天正9)には、九州のキリシタン大名である有馬晴信、大友宗麟(そうりん)とともに、ローマに使節団を派遣します。名代として遣わされたのは、正使に伊藤マンショと千々石ミゲル、副使に中浦ジュリアンと原マルチノ。4人のうち3人は大村氏ゆかりの少年で、皆わずか13歳前後での旅立ちでした。ヨーロッパに一大センセーションを巻き起こし、西洋の文化を携えた使節は、8年半の歳月を経て帰国し豊臣秀吉と謁見、その後の彼らはそれぞれ波瀾万丈の人生を歩みました。

 

晩年の純忠は領主の座を退き、坂口(現在の大村市)に隠居しています。病気を患いながらも、宣教師たちに囲まれて純粋なキリシタンとして過ごしたといわれ、1587年(天正15)、55歳で息を引きとりました。

そのわずか1ヶ月後、豊臣秀吉の伴天連(ばてれん)追放令が発布されました。

大村純忠史跡公園 大村純忠史跡公園にある庭園跡
大村純忠史跡公園 大村純忠史跡公園にある庭園跡

キリスト教から日蓮宗へ

大村純熈公銅像
大村神社境内にある大村喜前公遺徳費と大村純熈公銅像
大村純忠の長男・喜前(よしあき)は、秀吉の九州征伐に出兵し、大村所領を安堵され、朝鮮出兵にも参加しています。幕藩体制のもと、喜前は大村藩の初代藩主となりました。キリスト教禁教がますます厳しくなることを見据えた喜前は、領民に先立ってキリスト教を棄て日蓮宗に改宗し、加藤清正(かとうきよまさ)の協力のもと、現在の大村市に本教寺を建立しました。

1657年(明暦3)、第4代藩主・純長(すみなが)の時代には、郡村3村より多数の隠れキリシタンが発覚し逮捕されるという「郡崩れ」とよばれる事件が起き、藩の存亡を揺るがす重大事件にまで発展しました。当時幕府の要職にあった旗本・伊丹勝長(いたみかつなが:純長の実父)の素早い対応などにより咎を受けずにすみましたが、この事件以後、大村藩ではキリシタンへの徹底した取り締まりと探索が行われました。

大村藩の藩政改革

豊臣秀吉によって直轄領(天領)となった長崎は、その後大村領に戻ってくることはなく、明治になるまで天領のままでした。長崎港でおこなわれる南蛮貿易で多くの利益を得ていた大村藩は、その収入がなくなってしまい、江戸時代初めには財政的に大変苦しい状況にありました。
喜前は、秀吉の朝鮮出兵の命に応じなかった家臣の所領を没収して大村家の直轄地とし、1598年(慶長3)には玖島城(くしまじょう)の築城に取りかかり、家臣を城下に住まわせ城下町を整備しました。
天下を統一した豊臣秀吉によって初めておこなわれた検地(一区切りごとの田畑の大きさや作物のとれ具合、耕作者を調べる調査)が、大村藩でおこなわれたのは1599年(慶長4)年、喜前によってでした。領地の範囲は、わずかな変化はあるものの、幕末まで国替えされることなく、長いこと大村氏の領地として続きました。

喜前は、江戸時代初期の1607年(慶長12)、有力一族の所領を没収・半減する「御一門払い」を断行し、この跡地を大村藩の直轄地に編入しました。これによって家臣の領地の整理もおこなわれ、藩の収入は大きく増加し、藩主の力は大きくなりました。また、江戸時代中期以降は、家臣に領地を与えるのを止め、米を支給する俸禄性に切り替えるなど、藩の収入増加を目指し、小さな大村藩が苦労して財政の立て直しに取り組んでいたことがわかります。

桜田屋敷跡
桜田屋敷跡
玖島城を築く際に埋め立て屋敷地として大村氏が居住したといわれています。ここに藩校集義館が創設されました。

1670年(寛文10)、4代藩主の純長が玖島城内桜馬場に藩校「集義館」を創立しました。九州内でも早期であり、わずか2万7千900石の小藩がこの時期に創立したのは稀なことでした。また純長自ら家老以下藩士に講義をしていたといいます。
集義館は1694年(元禄7)に静寿園と改称され、その後五教館(ごこうかん)へと発展し、幕末には多くの優れた人材を輩出しました。


次回の「歴史発見 長崎幕末編」大村藩の2回目では、この五教館の発展と幕末の大村藩の動向にスポットを当てて紹介していきます。


参考資料


 歴史散策「玖島城跡・大村公園」

玖島城跡
大村純忠の長男・喜前(よしあき)が築城した玖島城は、大村湾に突き出した半島に築城された平山城で天守閣はなかったといわれています。現在、この一帯は大村公園とよばれ、天然記念物のオオムラザクラや菖蒲など季節折々の花が咲き誇り、多くの人々が訪れる歴史ある憩いの場となっています。

斉藤歓之助の碑
斉藤歓之助の碑
幕末江戸の三剣客の一人といわれた斉藤歓之助の碑です。
板敷櫓台
板敷櫓台(いたじきやぐらだい)
このあたりの地名・板敷から名づけられており、大村湾を望むことができます。
玖島崎樹叢
玖島崎樹叢(くしまざきじゅそう)
玖島城の本丸を囲むように茂っており、昔からそのままの状態で保護されている自然林です。
長崎甚左衛門之像
戊辰戦争役記念碑、浜田謹吾銅像などが建てられており、大村の歴史も十分知ることができます。
大村神社
大村神社
本殿前には国の天然記念物に指定されているオオムラザクラ、境内には長崎県の天然記念物に指定されているクシマザクラがあり、春には多くの人が訪れます。
大村藩お船蔵跡
大村藩お船蔵(ふなぐら)跡
元禄年間にこの地に移されたといわれています。

周辺散策地図


大村公園・玖島城跡 板敷櫓台 大村藩お船蔵跡 大村神社


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