たびながコラム

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対馬藩

地図 江戸時代、対馬藩は、対馬国(長崎県対馬市)全土と肥前国田代(現在の佐賀県鳥栖市東部及び基山町)と浜崎(現在の佐賀県唐津市浜崎)を治めていました。藩主は宗氏で、初代藩主の義智(よしとし)以来、改易もなく宗氏が治めました。
室町時代の日朝関係はおおむね良好でした。朝鮮半島の三浦(さんぽ)に形成された日本人居留地に住む人々が起こした反乱(三浦の乱)によって、1510年、対馬と朝鮮の関係は一旦断絶状態に陥りましたが、翌年には宗氏が関係復活のための交渉に動き、日朝間のおおむね平和な外交関係を保っていました。ところが、豊臣秀吉による朝鮮出兵[1592年(文禄元)の文禄の役、1597年(慶長2)の慶長の役]により、朝鮮との国交が途絶えることになります。
それまで朝鮮貿易を独占してきた対馬にとって、国交を回復できるかどうかは死活問題でした。しかし、朝鮮出兵による影響は大きく、国交回復を求める対馬の交渉は難航します。こうした状況で江戸時代を迎え、対馬藩はスタートしたのです。対馬藩は、どうやって藩の危機を乗り越えていったのでしょうか。幕末にかけての対馬藩を一緒に見ていきましょう!

朝鮮との国交回復まで

江戸幕府が開かれた当時、徳川政権には外交の実務がなかったこともあり、家康は朝鮮との国交回復の任を宗義智(そう よしとし)に命じました。
内治・外交に藩主の信頼を得ていた柳川調信(やながわ しげのぶ)は義智とともに、朝鮮へ書を送ったり、朝鮮出兵時に日本へ連行した人々を送還するなどして、国交回復に努力します。
国交回復の条件として朝鮮側が示したのは二つ。一つめは、朝鮮出兵の際に先王の陵墓を荒らした犯人を捕らえて朝鮮へ連行すること。二つめは日本から先に国書を送ることでした。一つ目の件は対馬の罪人2人を送ることにしましたが、二つ目に関しては、先に国書を送ることは朝鮮への恭順を意味するため、幕府が条件を承諾することは到底不可能でした。そこで、義智と柳川調信・智永(としなが)父子、景轍玄蘇(けいてつげんそ)らは国書を偽造し、朝鮮へ送りました。さらに1607年(慶長12)、朝鮮の使者が江戸城で将軍・徳川秀忠に朝鮮国王の返書を渡す際、先に送った偽造国書への返書とばれないように、「奉復」を「奉書」と書き直す改ざんや朝鮮国王印の偽造などをおこないました。

外交僧玄蘇や弟子規泊玄方(きはくげんぽう)らが居住していた以酊庵(西山寺)
外交僧玄蘇や弟子規泊玄方(きはくげんぽう)らが居住していた以酊庵(西山寺)

以後も対馬藩は偽造と改ざんというかたちで朝鮮と幕府の仲介役を演じ、1609年(慶長14)、ついに国交回復の約条を結ぶこと[己酉(きゆう)約条]に成功します。
こうして対馬は、やっとの思いで朝鮮との貿易を再開することができました。

柳川一件

1635年(寛永12)、対馬藩主・宗義成(そう よしなり)を追い落とそうとした有力家臣の柳川調興(やながわ しげおき:柳川智永の子)が、国書偽造と改ざんを繰り返した対馬藩の実態を幕府に訴えました。調興は、幼くして義智の後継者として襲封した義成と、所領地の問題や調興自身の専横などで、たびたび対立していました。
この訴訟内容には、幕府政策の日朝交易に関わる重要問題が含まれていたため、幕府は役人を対馬へ派遣させて詳しく調べさせ、最終的に将軍・徳川家光が自ら関係者を呼び裁決することとなりました。義成は、この国書偽造と改ざんの内容について関知しておらず、一応義成の勝利に落着しました。この事件は「柳川一件」とよばれています。

朝鮮通信使

朝鮮国通信使之碑
朝鮮国通信使之碑
朝鮮は、鎖国体制下で幕府が正式に外交関係を結んだ唯一の外国でした。両国の修好を目的とし、朝鮮国王の国書を日本の徳川将軍に届ける使節のことを「朝鮮通信使」といい、幕府は国内に威信を示すため、国家的行事として一行を迎えました。宗氏の要請で、通信使が再開したのは、1607年(慶長12)のこと。その後、約200年の間に12回の使節を迎えています。「通信」とは、“信義を通わす”という意味です。

使節一行の総勢は300人から500人にものぼりました。使節の中には官僚のほか、朝鮮を代表する多くの学者や文化人も含まれていました。朝鮮通信使は、外交面だけでなく文化交流においても大きな役割を担っていたのです。当時、この行列を見物した日本人たちは、そのあまりの絢爛さに驚き、目をうばわれたといいます。

対馬アリラン祭りの行列の様子
対馬アリラン祭りの行列の様子

1回の通信使の対応に、前後3年間はその準備や後処理に時間を費やしたといいますから、どれだけ重要で壮大なイベントであったかがわかります。
現在では毎年8月に対馬でおこなわれる「対馬アリラン祭り」において、色鮮やかな衣装を身にまとった朝鮮通信使の行列が再現されます。この祭りには韓国の人々も参加して交流し、島民と一緒になって祭りを盛りあげています。

長崎県立対馬歴史民俗資料館
長崎県立対馬歴史民俗資料館

朝鮮国信使絵巻
長崎県立対馬歴史民俗資料館には、「朝鮮国信使絵巻」の資料が揃っており、当時の様子をうかがうことができます。入館料は無料ですので、ぜひ立ち寄ってみてください。

動画で見る歴史スポット【第12回】「日朝のかけ橋 朝鮮通信使」のアニメーションで詳しくみることができるよ!

宗義真(よしざね)

宗義成の亡き後、第3代藩主として義真が封を継ぎます。義真の治世では、朝鮮との貿易も順調で、財政も豊かでした。多くの土木事業をおこない内政を整え、「中興の英主」とまでいわれています。1672年(寛文12)におこなった、大船越(おおふなこし)瀬戸の堀切(ほりきり)によって、浅茅湾(あそうわん)の東西に水路をひらくことに成功しました。この事業で対馬は2つに分断されますが、船で積み荷をおろしていた人々にとっては、東西に船での出入りが可能となり便利になったといいます。

お船江
お船江

また全島の検地をおこない、土地の等級により租率を定め、禄制の改革にも取り組んでいます。
1663年(寛文3)、久田(くた)村に御用船の停泊所として人工で築かれたお船江(ふなえ)は、4基の突堤と5つの船渠がありました。今も当時の原状をよく残しているお船江跡は貴重な遺構であり、県の史跡に指定されています。

1689年(元禄2)、対馬藩は藩財政の生命線である朝鮮外交の体制を維持する目的で、記録文書の整理や保管をおこなう「朝鮮方」を設置し、制度の見直しや理論化をおこなうために、藩外から雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)を採用します。これも義真の時代でした。

「誠信之交隣」碑
「誠信之交隣」碑

芳洲は対馬藩の外交方針として「誠信之交隣」を提唱する『交隣提醒(こうりんていせい)』をまとめ、朝鮮通詞の養成にも力を入れました。
“交隣”とは、隣国と対等に交わることで、本来朝鮮で使われた外交用語です。芳洲は「互いに欺かず、争わず、真実を以て交わる」と方針を説き、朝鮮外交と友好親善に努めました。


対馬の幕末「ポサドニック号」

1853年(嘉永6)、ペリー提督が黒船艦隊を率いてやってきたことにより、江戸幕府の鎖国政策は危機を迎えました。朝鮮や中国、ロシアと近い場所に位置する対馬にとっても、外国船の来航は重大な問題でした。
当時インドを植民地としていたイギリスは、その勢いで極東へと進み、ロシアの南下を恐れてロシアを封じ込めようとしていました。
1859年(安政6)、イギリス艦アクチオン号が浅茅湾(あそうわん)の入口にあたる尾崎浦に停泊し、乗組員たちは湾内を勝手に測量して上陸し、対馬の村を歩き回ったため、大騒ぎとなりました。20日あまり滞在した後、同艦は釜山へ向け出航しましたが、朝鮮の倭館にも立ち寄ったのでここでもひと騒動あったといいます。
こうしたイギリスの行動に触発され、ロシアも動き出しました。1861年(文久元)、ロシアのポサドニック号が対馬の尾崎浦に現れ、芋崎(いもざき)を占拠しました。箱館から対馬まで来る途中で船を損じたため修理をさせてほしいという理由だったのですが、これが長引き、最終的には半年ものあいだ滞在しました。その間、対馬藩番兵による殺傷事件をはじめ、ロシアと日本のあいだで種々のトラブルが発生したので、藩も幕府も手を焼きました。
このロシアの芋崎占拠に対してイギリスは激しく抗議し、日本の要請なしでもイギリスの東インド艦隊を呼び寄せてロシア艦を排除すると通告したため、ポサドニック号は退去しました。ポサドニック号による芋崎占拠事件は「ポサドニック号事件」とよばれ、藩・幕府ともに単独では外国との問題を解決できないほど弱体化していることを明かにしてしまうこととなりました。
ここから、対馬も幕末に向かって動き出すことになります。

浅茅湾(あそうわん)

続きは、次回の「対馬藩2」で。お楽しみに!

参考資料


歴史散策「金石城跡周辺」

厳原(いづはら)は、宗氏が1486年(文明18)に佐賀(さか:峰町)から移館して以降、約380年間続いた城下町です。対馬藩時代の藩主にまつわる地や朝鮮通信使ゆかりの地など、格式ある10万石の城下町を歩きながら、日朝関係の継続に尽力した歴史を想像してみましょう!

金石城跡
●金石城跡
1528年(享禄元)に起こった宗盛治の兵乱で、宗氏の「池の館」は炎上焼失しました。その後、清水山のふもとの島分寺(国分寺)があったと伝えられる金石(かねいし)に、宗将盛(まさもり)は館を移して「金石の館」と称しました。そして1699年(寛文9)に宗義真(よしざね)が城郭を改修し、櫓を築いて、「府城(ふじょう)」または「金石城(かねいしじょう)」とよばれました。

旧金石城庭園
● 旧金石城庭園
2008年(平成20)の発掘調査により遺構の全容が明らかになりました。
玉砂利敷きによる洲浜は奈良時代から平安時代にかけて流行した様式で、近世庭園としては希少な意匠と構造をもっています。対馬独特の風土を活かした作庭精神と骨格がきわめて良好なことから、2007年(平成19)に国の名勝指定を受けました。
見学料:一般300円 小・中学生100円
休園日:火曜日・木曜日

万松院(ばんしょういん)
●万松院(ばんしょういん)
「対馬藩主宗家墓所」として国の史跡に指定されています。宗家墓所は、金沢の前田家、荻の毛利家の墓地とともに日本三大墓地といわれています。
1615年(元和元)、対馬藩2代藩主の義成(よしなり)が、朝鮮出兵・関ヶ原の戦い・朝鮮国交回復と苦難を重ねた初代藩主・義智(よしとし)の供養のため、金石屋形の西の峰に松音寺を創建しました。
拝観料:大人300円 高校生200円 小・中学生100円

以酊庵(いていあん)
●以酊庵(いていあん)
宗義調(よししげ)に招かれた博多聖福寺の景轍玄蘇(けいてつげんそ)が、対馬にひらいた禅寺を以酊庵とよびました。
以酊庵は何度か場所を変わりましたが、1732年(享保17)に西山寺に移りました。朝鮮通信使の宿泊所にも使用されました。

周辺散策地図


金石城跡 旧金石城庭園 万松院
以酊庵長崎県立対馬歴史民俗資料館


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