たびながコラム

ホーム   >  たびながコラム  >   近代化に向けて

幕末の長崎2

幕末の長崎は西洋の近代技術の窓口としてその役割を果たしたことは、前回お話しました。海軍伝習所をはじめ長崎溶鉄所(長崎製鉄所)、近代医学、洋式採炭技術、英語伝習所、活版印刷など当時の長崎には、新しい技術や科学が入り、根付いていました。その長崎を目指し、日本各地からそれらの技術を吸収したい若者たちが、この“長崎”を目指し、学びました。
さて、幕末の長崎にどんな人々が訪れ、どんな技術を学んでいたのでしょうか。

西洋医学〜シーボルト、ポンペに学んだものたち〜

長崎公園(長崎歴史文化博物館裏手)のシーボルト記念碑(一番右)
長崎公園(長崎歴史文化博物館裏手)のシーボルト記念碑(一番右)
1823年(文政6)、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは長崎に上陸しました。シーボルトは日本を訪れた西洋人医師の中でもよく知られた人物です。長崎では名医としてシーボルトの名が広まり、治療を受けたいという人々が増え、当時の商館長ブロンホフは奉行高橋越前守に願い出て、外科部屋でシーボルトが診療などを行えるようになったといいます。

 

また町年寄であった高島四郎兵衛の協力もあり、長崎町内での診療もできるようにな り、その後オランダ通詞吉雄耕牛(よしおこうぎゅう)や楢林鎮山(ならばやしちんざん)が開いた私塾へも出張し、診療や医学指導をする許可を受けたといいます。

楢林鎮山宅跡
楢林鎮山宅跡

ますますシーボルトの名声は高まり、1824年(文政7)には長崎郊外に診療所も兼ねた鳴滝塾(なるたきじゅく)を設立しました。庭には日本各地でシーボルトが採取した薬草類が栽培されたといわれています。鳴滝塾では、高野長英(たかのちょうえい)や二宮敬作(にのみやけいさく)、伊東玄朴(いとうげんぼく)、戸塚静海(とつかせいかい)、海援隊の二代目隊長を勤めた長岡謙吉(ながおかけんきち)などが学びました。
しかし1828年(文政11)、オランダへ帰国する準備をしていたシーボルトの荷物の中から国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかるという事件(シーボルト事件)が起こりました。その地図を贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保(たかはしかげやす)ほか十数名が処分され、翌年シーボルトは国外追放のうえ再渡航禁止の処分を受けました。

1853年(嘉永6)、ペリー提督が黒船艦隊を率いてやってくると、日本は攘夷論と開国論とで揺れ動きます。イギリス・フランスなどの列強国の侵略を防ぐため、江戸幕府はオランダの助力を得て、1855年(安政2)に長崎海軍伝習所を設立しました。1857年(安政4)には、幕府がオランダに注文していた「咸臨丸(かんりんまる)」が第二次教官団とともに入港しました。この第二次教官団の中に、医師ポンペ・ファン・メーデルフォールトがいました。
シーボルトが日本を離れてからも商館医が来日し、有志の者はこれらの商館医に就いて学び、医学教育の成果はあがっていましたが、この状況をみた幕府は、オランダ政府に優れた医師の派遣を要請し、長崎に医学伝習所を設立し、広く伝習することとなりました。
この医学伝習所では、物理学・科学をはじめ、包帯学、解剖学、組織学、生理学、病理学、治療学、調剤学、内科学、外科学、眼科学、法医学、産科学と幅広く講義していたといいます。伝習生でもあり、ポンペの良き相談相手でもあった幕医・松本良順は、諸藩の藩医にも伝習させようと呼びかけ、続々と伝習生が集まりました。越前福井藩の半井仲庵(なからいちゅうあん)や仙台藩の大槻俊斎(おおつきしゅんさい)、福岡藩の前田玄造(まえだげんぞう)、大村藩の長与専斎(ながよせんさい)、佐倉藩の佐藤尚中(さとうたかなか(しょうちゅう))、大坂の緒方洪庵の子・緒方惟準(これよし)などがポンペに就いて学んでいます。また上野彦馬もポンペに化学を学び、これをきっかけに写真術を発展させていきました。
しかし講義が始まった当初は、ポンペは日本語がまったくわからず、オランダ通詞が通訳するのに時間がかかったり、通詞たちが医学用語を理解できなかったこともあり、誤訳も少なくなかったといいます。そのためポンペも日本語を学び、通詞の誤訳もわかるようになり、また伝習生たちも独自にオランダ語を学び、講義の理解を深めていきました。

今も残るオランダ塀 荷の積み上げを行っていたオランダ埠頭
現在の長崎県庁がある場所は、長崎奉行西役所跡です。ここで講義が行われていました。 当時の長崎奉行西役所の様子です(県庁正門前のレリーフ図より)

1858年(安政5)に長崎で発生したコレラはたちまち九州・中国地方、そして江戸へと飛火しましたが、この時ポンペはその予防と治療に全力を尽くしています。また幕府に要請し、1861年(文久元)長崎に小島養生所を設立させ、本格的な医学教育と近代的な医療活動を開始したほか、梅毒検査と公娼制度廃止を唱えるなど医学教育とともに衛生行政上においても功績を残しています。
1858年(安政5)、日蘭修好通商条約が締結されると、翌年には再渡航禁止の処分を受けたシーボルトが再び長崎を訪れました。シーボルトは、お滝と娘・イネとも再会し、昔の門人たちと交流しながらも研究を続け、1861年(文久元)には幕府に招かれ外交顧問に就いて江戸でヨーロッパの学問などを講義したといわれています。

長崎英語伝習所〜フルベッキと済美館〜

1808年(文化5)のフェートン号事件や、安政の開国以降、諸外国人との間の通訳のため、通詞の活動する場はますます増えました。しかし、開国によってこれまでのオランダ通詞は、単にオランダ語の通訳だけでなく、英語やフランス語、ロシア語などの習得が必要となりました。
そこで1858年(安政5)に長崎奉行は、オランダ商館員デ・フォーゲル及び海軍伝習所の第二次教官団のウィヘルスに、そしてイギリス人フレッチャーが長崎に来たのを機に、この3名に英語の教育を依頼し、英語伝習所を設置しました。この3名の教師のほか、オランダ通詞の楢林栄左衛門(ならばやしえいざえもん)と西吉十郎(にしきちじゅうろう)の両人を学頭とし、通詞や地役人の子弟に英語を教えました。
英語伝習所は1862年(文久2)には現在の片淵町に移されましたが、翌年には長崎奉行所(現立山町)に移り、語学所と改称しました。さらに江戸町の元五ヶ所宿老会所に移り、洋学所と改められ、英語とオランダ語を教えていました。また外国人教授としてフルベッキを迎えました。
フルベッキは、オランダで生まれ育ち、アメリカに移住したのちにアメリカ改革派教会の宣教師となり、1859年(安政6)に長崎を訪れました。宣教師ではありましたが、英語教師として長崎に迎えられました。
洋学所はその後、1865年(慶応元)に新町(現興善町)に校舎を新築移転し、済美館(さいびかん)と改称されました。そして英語・オランダ語のほかにフランス語、ドイツ語、ロシア語、中国語の諸語学と洋算、歴史、地理、物理、経済などの学問も教えました。教師は19名、生徒は100余名に達し、発展しました。しかし明治に入ると長崎府の管轄となり、広運館(こううんかん)と改称されます。
フルベッキは、1865年(慶応元)、佐賀藩が長崎の五島町にあった諌早藩士山本家屋敷を改造して作った佐賀藩校英学塾「致遠館(ちえんかん)」の校長に就任しています。教頭として、大隈重信(おおくましげのぶ)・副島種臣(そえじまたねおみ)が指導に当たったそうです。彼らは、フルベッキから英語を習っており、フルベッキの書簡からは、岩倉具視(いわくら ともみ)の子や横井小楠(よこいしょうなん)の甥なども、この致遠館に在籍していたことがわかりました。
のちにフルベッキは東京へ出て、政府顧問となり、日本の近代化につくしました。また、オランダで工学を学んでいたこともあり、本木昌造の活字印刷術にも貢献しているといわれています。

 

鉛印刷の祖・本木昌造

長崎公園(長崎歴史文化博物館裏手)の本木昌造翁像
長崎公園(長崎歴史文化博物館裏手)の本木昌造翁像
本木昌造(しょうぞう)は、代々のオランダ通詞であった本木昌左衛門の養子となります。1853年(嘉永7)にロシア使節プチャーチンが来航したときや1854 年(安政元)にペリーが来航した際、日米和親条約締結の際にも通詞として活躍したといわれています。
1855年(安政2)に設立された長崎海軍伝習所では、通詞として関わりながらもいろいろな技術を学びます。1860年(万延元)には飽浦(あくのうら)製鉄所へも赴き御用掛、主任を経て頭取を勤め、技術者養成、海運、鉄橋架設などに貢献しました。

オランダ人インデマウルから活字印刷の技術を習得すると、1869年(明治2)に長崎製鉄所付属の活版伝習所を設立しました。またフルベッキの紹介で、小形活字鋳造が堪能なガンブルに活字鋳造の伝習をうけ、鉛活字の製法に成功しました。1870年(明治3)には、新しく新町活版所を設け、経営・指導にあたりました。また廃藩置県によって、職を失った武士への授産施設としての役割を果たしていたといいます。その後大阪・東京へと印刷業を発展させていきます。門人には、日本初の日刊新聞である横浜毎日新聞社を創刊した一人である陽其二(ようそのじ)や、築地活版・石川島造船所の創設者でもある平野富二(ひらのとみじ)などがいます。

活版伝習所跡 新町活版所跡
活版伝習所跡 新町活版所跡

洋式砲術・高島秋帆(しゅうはん)

高島秋帆の家は江戸初期以来、長崎の町年寄をつとめており、父の四郎兵衛は、荻野流砲術に詳しかったといいます。またシーボルトの診療許可に協力した人物でもあります。四郎兵衛が亡くなると、秋帆は長崎会所調役頭取となり仕事のかたわら、砲術を研究し、長崎奉行の許可を得て、自費で大砲や銃を購入したり、出島のオランダ人からオランダ語や砲術を学び、オランダの兵書をとりよせて研究し、高島流砲術を完成させたといいます。
1840年(天保11)には、清国とイギリスとの間で起こったアヘン戦争やフェートン号事件を例に出し、ヨーロッパ式砲術の採用を求める「天保上書」を幕府に提出しました。翌年には門下生100余名と大砲をひきいて、江戸での洋式砲術演習を公開しています。
この演習により、秋帆は幕府から砲術の専門家として重用され、江川英龍(えがわひでたつ)や下曽根信敦(しもそねのぶあつ)、山本晴海(はるみ)、大木藤十郎(おおきとうじゅうろう)、山本物次郎(ものじろう)らに砲術を伝習しています。しかし、幕臣のひとり鳥居耀蔵(ようぞう)から謀反の罪をなすりつけられ、武州岡部に投獄され、高島家の財産まで没収されてしまいます。
1853年(嘉永6)以降、ペリーやプチャーチンが来航すると、赦免されて出獄。その後幕府の砲術訓練の指導に尽力しました。
秋帆から高島流砲術を学んだ江川英龍は、さらに改良した西洋砲術を全国の藩士に教育しました。佐久間象山(さくましょうざん)や大鳥圭介(おおとりけいすけ)・橋本左内(はしもと さない)・桂小五郎(かつらこごろう)なども江川英龍に砲術を学んだといわれています。


日本で最初のプロカメラマン・上野彦馬

長崎公園(長崎歴史文化博物館裏手)の上野彦馬之像
長崎公園(長崎歴史文化博物館裏手)の上野彦馬之像
上野彦馬は、俊之丞(しゅんのじょう)の子として長崎で生まれました。彦馬は、写真技術の習得と普及に多大な功績をあげた人物です。日本で最初のプロカメラマンとしても広く知られています。彦馬が開業した上野撮影局には、龍馬や高杉晋作(たかすぎしんさく)、桂小五郎など幕末に活躍した多くの志士たちが訪れました。
彦馬は、オランダ人医師のポンペに舎密学(せいみがく・化学)を学び、それをきっかけに写真に興味をもつようになりました。堀江鍬次郎(ほりえくわじろう)とともに写真術を研究し、1858年(安政5)、二人の共同による手製写真機で撮影に成功しました。このときのモデルは幕府医官の松本良順で、白粉をあつくぬり、5分ほど直立不動の姿勢をとったといいます。

上野彦馬宅跡
上野彦馬宅跡
当時、写真術に使う薬液も自分で作らなければならず、もともと化学者であった彦馬にして可能なことだったといえます。今に残る写真は、当時の人々や町の様子などを伝えてくれます。彦馬の墓は、風頭公園(かざがしらこうえん)の坂本龍馬像のすぐ側にあります。

日本茶輸出貿易の先駆者・大浦慶

大浦慶居宅跡
大浦慶居宅跡
大浦慶は、油屋の老舗に生まれました。女性の起業家として注目すべき人物で、当時は誰もおこなっていなかった日本茶の輸出事業を興します。九州各地の茶の産地の生産拡大をはかり、1856年(安政3)、イギリス商人・オルトとの間で1万斤(6トン)の貿易に成功すると、以後日本茶を海外に輸出して莫大な利益を得ました。外国人商人からも、「信用できる日本人」という評判だったといわれています。また大浦慶は、海援隊など勤王志士のスポンサーであったともいわれています。
後に、元熊本藩士・遠山一也とオルト商会との間でおこなわれた煙草の取引の連帯保証人となりますが、詐欺に遭い没落します。
しかし、晩年に日本茶輸出貿易の先駆者として、明治政府から茶業振興功労褒賞を贈られました。

 

日本の近代化に貢献したトーマス・グラバー

トーマス・ブレーク・グラバー
トーマス・ブレーク・グラバー
幕末の混乱期を舞台に活躍した人々の中で、忘れてはならない人物の一人にトーマス・ブレーク・グラバーがいます。スコットランド出身のグラバーは、22歳の時に上海から長崎にきて、グラバー商会を設立しました。大浦などの外国人居留地で、生糸や絹織物、木綿織物、蝋、金属製品・陶器・漆器などを取り扱っていましたが、2010年大河ドラマ「龍馬伝」でもおわかりのように、実際には大量の武器や蒸気船などを薩長などに売って巨大な利益を得ていたといわれています。坂本龍馬ら亀山社中が薩摩藩名義で購入した艦船や武器などの多くはグラバー商会から購入しています。また勤王志士らのスポンサーとして、長州藩の伊藤博文(いとうひろふみ)や井上聞多(いのうえもんた)、薩摩藩の五代友厚(ごだいともあつ)らをひそかにヨーロッパに留学させるなど支援していたといいます。

1865年(慶応元)には大浦海岸通りに汽車を走らせるなどして長崎の人々を驚かせ、1868年(明治元)には五代友厚と小松帯刀(たてわき)らと共同で小菅(こすげ)にソロバン・ドックを建設しました。これは日本最古の洋式ドックとして現存するものです。
明治以降は高島炭鉱の経営に当たり、炭鉱開発など日本の近代化に大きな役割を果たしました。
商人トーマス・グラバーの邸宅も現存し、観光地のひとつとなっています。また、グラバーと並んで有名なやり手商人のオルトの邸宅もグラバー園に残っています。オルトは、先に紹介した大浦慶と組んで製茶貿易で巨大な冨を得ました。岩崎弥太郎との関係も深かったといいます。

グラバー園 グラバー園

亀山社中(海援隊)、土佐商会

長崎亀山社中記念館
長崎亀山社中記念館
坂本龍馬をはじめ、亀山社中(海援隊)、そして土佐商会の岩崎弥太郎(いわさきやたろう)も、幕末の長崎において忘れてはならない人々です。
1865年(慶応元)、幕府機関である神戸海軍操練所が解散すると、龍馬が中心となって薩摩藩の資金援助を受け、この地に社中を結成しました。これが日本初の商社といわれ、拠点とした地名“亀山”と、仲間・結社を意味する“社中”をあわせて、「亀山社中」と呼ばれました。

亀山社中には、神戸海軍操練所の出身者が多く、航海技術を生かして武器などを含む物資の運搬や貿易の仲介をおこないました。1866年(慶応2)には、対幕府軍との下関海戦に参加し、長州藩の勝利に貢献しました。当時、反幕府の立場にあった長州藩に対し、薩摩藩名義で武器や艦船の購入を斡旋するなど、薩長同盟へとつながる大きな役割を果たしたといわれています。この亀山社中には、土佐藩出身で龍馬をサポートしてきた沢村惣之丞(さわむらそうのじょう)やシーボルトの医学を習い維新後は三河県知事にもなった長岡謙吉(ながおかけんきち)、後に条約改正・日清戦争講和・三国干渉などで手腕を発揮し「カミソリ大臣」と呼ばれた陸奥宗光(むつむねみつ)などがいました。また、亀山社中の活動を支援してきた商人・小曽根英四郎(こぞねえいしろう)も亀山社中が活動するうえで、とても重要な人物です。
現在の「長崎市亀山社中記念館」は、亀山社中の遺構として現在に伝わる建物を所有されている方のご厚意により、長崎市が当時の姿により近いかたちで復元・整備を行い、2009年(平成21)8月1日に開館したものです。隠れ部屋などもあり、館内には龍馬にまつわる資料などが展示されています。

土佐商会跡
土佐商会跡
また土佐藩は、1866年(慶応2)に藩の経済活動を盛んにするため、長崎に土佐商会を設置しました。土佐商会は、藩の産物を売り、西洋の武器を購入していたといわれています。岩崎弥太郎(いわさきやたろう)が主任として駐在し、龍馬の海援隊もここを拠点として活動した時期があったといいます。明治に入ると、弥太郎は海援隊と藩の海運事業を引き継いで、経営者として一本立ちし、のちの三菱財閥を築いています。

 


参考資料


→ 歴史散策「人工島・出島」

1636年(寛永13)幕府は、南蛮貿易拠点を長崎に移す際に、ポルトガル人などの西洋人を住まわせるために扇形の人工島・出島を作りました。

出島
●出島
1641年(寛永18)には平戸のオランダ商館が出島へ移り、安政の開国までの218年間は、日本で唯一西洋に向けて開かれた窓口となり、西洋から新しい技術や文化が日本に伝えられました。幕末になって鎖国政策がとかれたあとは、居留地に編入され、一般の外国人も居住することができるようになりました。現在は、国指定史跡「出島和蘭商館跡」に指定されており、オランダ商館員の住まいや倉庫などが忠実に復元されています。
この歴史の上でも重要な出島の周辺をご紹介します。

出島橋
出島橋
中島川の変流工事の際、1890年(明治23)に中島川河口に新川口橋として架けられました。老朽化のため1910年(明治43)に現在の場所に移設工事され出島橋と名付けられました。現在も併用している道路橋としては日本最古のものです。
長崎電話交換局之碑
長崎電話交換局之碑
1899年(明治32)、九州で最初に電話交換業務が開始されました。当初、昼間は女性、夜間は男性が従事していたといわれています。4年後には女性交換手だけとなりました
新地中華街
新地中華街
1698年(元禄11)の大火で五島町や大黒町にあった中国船の荷蔵が焼失したため、唐人屋敷前面の海を埋め立てて倉庫区域を造成した。この地域が新地と呼ばれたといいます。
楢林鎮山宅跡
楢林鎮山宅跡
オランダ通詞として1669年(寛文9)小通詞に、1685年(貞享2)に大通詞に進みました。オランダ商館医ホフマン等について医学を修め、楢林流外科を創始しました。
南蛮船来航の波止場
南蛮船来航の波止場
ここは、1570年(元亀元)に長崎港が開港されたときの長い岬の先端部分で、波止場があった場所です。天正少年遣欧使節がローマに向けて出航したのも長崎の港からでした。大村純忠がこの岬に6つの町をつくったことでも知られています。
 

周辺散策地図


新地中華街 長崎電話交換局之碑 出島橋
楢林鎮山宅跡南蛮船来航の波止場


アンケート

コメント