たびながコラム

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五島藩2

■ 富江領の成立

五島列島 前回の「五島藩・第1回」の中でも少し触れた富江領の成立について、もう少し詳しくご紹介しておきましょう。
五島藩では、1654年(承応3)に五島盛次(もりつぎ)が3代藩主として盛利の跡を継ぎますが、翌年(明暦元)江戸で急死してしまいます。盛次の嫡子・万吉はまだ11歳と幼かったため、幕府は後継者の収拾策として、叔父である盛清を後見役とし、五島家を存続させる方針をとりました。
盛清は、万吉の後見役として入部し、このとき五島領内において3,000石分知の許しがあったのではないかという説もあります。
万吉は1660年(万治3)に元服して盛勝を名乗ります。後見役を解かれた盛清は、旗本になる運動を展開し、1662年(寛文2)には富江分知が完了。盛清は、富江を城下として青方(あおかた)、魚目(うおのめ)、北魚目、宇久島の一部、神浦(こうのうら)、飯良(いいら)、椛島、福江島の黒島を領有することとなりました。
盛清以降、2代目の盛朗(もりよし)は成章館を創設し、6代の運竜(ゆきたつ)は11代将軍・徳川家斉(いえなり)の大番頭をつとめました。盛運の時代には、海産物の運上金も上がり、領民の生活はとても豊かだったといわれています。また、7代盛貫(もりつら)は徳川家の一門・津山家出身で、14代将軍・徳川家茂(いえもち)の侍役をつとめています。

有川と魚目の海境論争

鯨見山から見た風景
鯨見山から見た風景

五島列島の地図を見るとよくわかりますが、有川(五島藩)と魚目(富江領)は、有川湾をへだてて南北に相対する漁村です。有川湾は、鯨を追い込むのに適しており、有川村名主・江口甚左衛門正明(じんざえもんまさあき)は、紀州古座浦の三郎太郎と鯨組を組織し、鯨漁をおこなっていました。

江口甚右衛門正利之像
江口甚右衛門正利之像
しかし富江領が分立したことから、魚目村は富江領に属することになり、有川湾のほとんどが富江領のものとなりました。さらに富江領は大村藩の深沢義太夫に15年間の捕鯨権を与えてしまいます。有川湾の漁業権を失うということは、有川村にとって死活問題でした。論争は絶えず、江口甚左衛門正明の跡を継いだ甚右衛門正利は、ついに江戸公訴を決意します。甚右衛門正利は、江戸へ何度も上京しました。
幕府は、有川・魚目双方の話をきき、1689年(元禄2)、1690年(元禄3)と2度にわたり、魚目側の主張を退け、有川側に海の権利を公認しました。
その後1771年(明和8)から1817(年文化14)の約40年にわたった第2回海境論争では、有川側、魚目側の海岸はそれぞれの権利で、沖はどちらでも勝手にとってよいという内容に決まりました。しかし、海境争いを繰り返している間に、鯨漁はしだいに衰退の一途を辿ります。

鯨見山にある山見小屋 鯨供養碑
鯨見山にある山見小屋 鯨供養碑
 

成章館

五島藩では、8代藩主・五島盛運(もりゆき)が江戸藩邸にて、永富独嘯庵(どくしょうあん)に儒学を学んだことをきっかけとして、1781年(天明元)、石田陣屋内に藩校・至善堂を創設しました。
富江領では、2代・盛朗(もりよし)が五島藩よりも早く、1688年(元禄元)に成章館(せいしょうかん)を設立しました。1803年(享和3)に6代・運竜は成章館を移転拡張し、1845年(弘化2)には7代・盛貫がさらに規模を拡張しながら自ら講義をおこなったといいます。
成章館では、主に、読み、書、算、武術を教えていました。家老や文学に長けたものが総裁となり、武士の中でも学力あるものは教師となっていたそうです。
また7代の盛貫は、異国船方在役を命じられていたこともあり、武術の鍛錬も厳しかったといわれ、砲術の研究家として当時は名を知られていたそうです。

 

潮合崎(しおやざき)騒動

龍馬ゆかりの地
龍馬ゆかりの地
1866年(慶応2)5月2日未明、江ノ浜潮合崎(しおやざき)でワイルウェフ号が遭難し、船将である高泉十兵衛ら12人が溺死するという事故が起こりました。
1865年(慶応元)、坂本龍馬が薩摩藩や長崎商人の援助を受け、神戸海軍操練所の塾生たちとともに、日本初の商社を長崎・亀山の地に設立しました。ワイルウェフ号は、亀山社中が海運業で商売をするため、龍馬たちが薩摩藩の支援によってやっと手に入れた洋式帆船でした。

1866年(慶応2)4月28 日、ワイルウェフ号は長崎を出港し、薩摩を目指しましたが、途中大暴風雨に遭って漂流し、5月2日暁、潮合崎で暗礁に乗り上げ転覆したのです。乗組員4人を除いて他は死亡しました。この事故はただちに福江藩庁、薩摩長崎屋敷に報告されました。

墓碑
 
両藩の役人は現地入りして遺体の収容などにあたり、遭難者埋葬し供養しました。龍馬は、同志の霊を弔うため、資金を添えて建碑を依頼したといいます。この騒動で龍馬は、同郷の仲間でもあった池内蔵太(いけくらた)を失いました。墓碑は、ワイルウェフ号が遭難した潮合崎を望む広場から歩いて5、6分の江ノ浜集落の中にあります。
広場は公園になっており、「龍馬ゆかりの地」と記された石碑とともに、同型帆船の写真やかじとり棒と推定される原寸大の模型が設置されています。実物は、近くの民宿で展示されています。

 

富江騒動

幕末は、勤王と佐幕に分かれて争っていた時代でした。
そんななか、五島藩は、藩主・五島盛徳(もりのり)が1863年(文久3)に京都御所にて忠誠を誓い、勤王派として積極的に活動しました。1868年(明治元)には進んで版籍奉還を上願し、京都御所の守備にあたりました。また1870年(明治3)の東京遷都の際には一小隊を送って警固にあたっています。
富江領では、8代目領主に奥州植田藩主溝口直景の弟・銑之丞を養子として迎えます。銑之丞は名を盛明と改め、将軍家茂に謁見し、富江領主となりました。7代・盛貫は将軍家茂と血のつながりがあり、8代・盛明は奥州植田の出身であったので、富江領は当然外部からは佐幕派とみられていました。盛明は、1868年(慶応4)に京都へ赴き、本領安堵の御朱印を貰いましたが、その後朝廷での審議により、富江領3000石を五島藩に合藩するということが決定しました。

この合藩に反対したのは、富江領主や重臣たちだけでなく、領民たちも同じでした。宇久や魚目、椛島の領民たちは次々と富江に集まり、15歳以上の男子は竹槍を持って警備にあたるなど、合藩反対運動は予想以上に大きなものとなりました。五島藩関係者を襲撃したり、家などを焼き討ちしたりと暴徒化した領民もいたといわれています。
慌てた五島藩は、藩役人を富江領近くへ出張させ、30名ほどに武装させ、海上には監視船を出させました。さらに町人たちも武器として棒などを持ち、富江領からの攻撃に備えたといいます。五島藩、富江領、双方ともに戦う体制が整い、緊迫した状況となっていました。
しかし、双方とも攻めかける企図はなく、戦うことはありませんでした。富江領今利家老は、五島藩の要請もあって単身で福江城へと登城し、五島藩の重臣たちと事態収拾の話し合いをおこないます。富江に戻った今利家老は、領主・盛明へ報告し、翌日、盛明が重臣たちを陣屋に集めて下る訓諭をしたため、富江側の一揆は鎮静化しました。

この騒動の件は長崎役所にも届き、富江家老2名が出頭することとなりました。当時の長崎府には、長州藩からの出仕役・参謀であった井上聞多(馨)がおり、この騒動を引見しました。井上は富江領に同情的で、辛抱するよう諭したといいます。この富江騒動は、単に富江の一揆という問題ではなく、長崎府ひいては全国的な地方治安に関する大きな問題だと認識されました。
井上は、実情を把握するため、薬師寺久左衛門と高松清一とともに五島へ渡っています。井上は盛明と対談し、宣撫訓諭するところが見受けられ、今後謹慎を誓ったので安心して福江に引き上げました。井上に随行していた薬師寺と高松の2名は、善後策のため富江領地を視察し、領内宣撫に努めました。しかし、有川と長い期間をかけて海境論争を展開してきた魚目の領民をなかなか説得できず、手を焼いたといいます。

旧領回復をあきらめきれない富江領は、新政府に復領嘆願を行います。しかし、1869年(明治2)、検分に訪れた明治政府監察使・渡辺昇(のぼり)が、今利家老をはじめ藩士一同を集め、朝命遵守を訓諭したため、復領嘆願も功を奏しませんでした。

現在の富江小学校付近に富江陣屋が築かれたといいます
現在の富江小学校付近に富江陣屋が築かれたといいます
盛明は家臣を率いて上京し、復領嘆願に尽力しました。朝廷は実情やむなしと判断し、富江に代替地として北海道後志国磯谷郡に1000石の復領地を用意しました。しかしその後盛明は中太夫の称号を廃され、士族となり禄制も改められました。これでは富江領家臣200余名を養っていくことは出来ません。ここで五島盛清以来、領主8代続いた富江領は、解散することとなりました。
この一連の騒動を「富江騒動」とよんでいます。

五島のキリシタンと信徒発見〜信徒発見と五島のキリシタン

大浦天主堂
大浦天主堂
1863年(文久3)、パリ外国宣教会のフューレ神父は、長崎の大浦居留地で教会の建築に着手しました。翌年、プチジャン神父によって完成した大浦天主堂は、「日本二十六殉教者教会」と命名されました。当時の日本人は、この美しくめずらしい教会を「フランス寺」とよび、大勢の市民が建築中から見物に押し寄せたといいます。しかし、当時の幕府が信仰の自由を認めていたのは居留地の外国人だけで、日本人はまだキリシタン禁制の時代でした。

教会の正面には、プチジャン神父らの意向によって、漢字で「天主堂」の三文字が記されました。この文字には、潜伏中の日本人キリシタンを探し出したいという強い思いが込められていたそうです。大浦天主堂のことは、これまでひそかにキリスト教の教えを守り貫いてきた浦上村の潜伏キリシタンたちに伝わりました。意を決した男女十数名が命がけでフランス寺へ向かい、プチジャン神父に自分たちはキリシタンであることを打ち明けました。この出来事は「信徒発見」とよばれ、キリスト教史上の奇跡ともいわれています。
上五島の若松島・桐古(きりふる)に住んでいたガスパル与作は、フランス寺が教会であることを知り、父親の許しを得て、大浦天主堂で教理を学び、伝道師となりました。この話は下五島の久賀島にも伝わり、島のかくれキリシタンたちのまとめ役であった帳方(ちょうかた)の栄八と水方(みずかた)の善太も長崎へ赴き、カトリックの洗礼を受けました。1869年(明治2)には伊勢松、善五郎の二人も長崎へ行きましたが、長崎港福田で役人に捕らえられます。メダイを所持していたために嫌疑がかかり、五島住民であることを自白したので、五島藩に送り返されてしまいました。

頭ケ島教会
頭ケ島教会
また上五島の頭ケ島には、上五島随一のキリシタン頭目・ドミンゴ松次郎がいました。父の代に黒崎村出津から鯛之浦に移住し、紺屋として成功しました。のちに頭ケ島に移って、自分の家を仮聖堂とし、青年たちに教理を教えていたといいます。この仮聖堂が「花の御堂」といわれる頭ケ島教会のはじまりといわれています。

久賀島(ひさかじま)での迫害から全島へ

1866年(慶応2)、久賀島。神仏を棄て、キリシタンとして生活したいと代官に申し出た信者23人が捕らえられ、福江の牢へ送られました。しかしこのとき、五島藩では富江騒動が起きたため、23人は久賀島に戻され、キリシタン200人とともに、わずか6坪の牢屋に押し込められました。入牢者の中には乳児もいました。
牢では立ったまま身動きができず、多くはせり上げられた状態で、地に足がついていなかったといわれています。朝夕にサツマイモ1切れずつを与えられるだけだったといいます。衛生状態も悪く、老人や子どもたちをはじめ、次々と命を落としていきました。約8ヶ月の入牢生活で死者は39人、牢から解放された後にも3人が息をひきとったそうです。
プチジャン神父はこの惨状をフランス公使ウートレーに訴えました。外交問題にまで発展したため、外務卿の伊達宗城(むねき)は五島盛徳に対し、領民の中にキリシタンがいてもその処置は長崎府に任せるよう警告したといわれています。
久賀島の牢跡は、「牢屋の窄(さこ)」として、現在も久賀島に記念碑と聖堂が建っています。

また、信徒発見後に信仰を公にした福江島・楠原でも迫害がおこなわれます。1868年(明治元)のクリスマスの晩に水ノ浦、まもなく楠原にも迫害が及びました。33名が楠原の仮牢屋に押し込められ、その後水ノ浦牢に移され、1871年(明治4)に釈放されるまで拷問を受けたといいます。
キリシタンの迫害は五島全島に及びました。

楠原教会 楠原の仮牢屋跡
楠原教会 楠原の仮牢屋跡

捕らえられたキリシタンのほとんどは、そろばんのように凹凸のある板を正座した足の上に乗せられ、重さを増やしていく算木(さんぎ)責めという拷問などで棄教を迫られました。また「郷責め」といって、地元住民たちによる迫害が激しかった地域もありました。キリシタンたちを大きな柱に縛りつけ、割れ木や青竹で殴ったり、家財や食料などを奪うこともあったといいます。
1870年(明治3)、上五島の鷹巣(たかのす)では、4人の郷士が新刀の試し斬りと称して、キリシタンの家に押しかけ、妊婦を含む6人を殺害するという事件が発生しました。加害者の郷士4人は長い入牢生活の後、切腹を命ぜられました。この4人の切腹によって、五島でのキリシタン迫害は終息したといわれています。

頭ケ島教会内部 青砂ケ浦教会内部
頭ケ島教会内部 青砂ケ浦教会内部

キリスト教の五島列島への伝来は16世紀です。厳しい弾圧によっていったんキリスト教は途絶えましたが、新たに外海地方から信徒が海を渡り、五島で密かに信仰を守り続けました。
禁教が解かれた後、五島の地においても、信徒たちの手によって教会堂が建設されました。現在、長崎県内には全国のおよそ1割を占める130を超える教会堂がありますが、そのうちの40%が五島列島に集中しています。なかには明治から昭和初期にかけて建築された教会堂もあり、50数棟が現存しています。

五島の教会堂にスポットをあててみると、上五島にある頭ケ島教会や青砂ケ浦教会、下五島・久賀島にある旧五輪教会は、国の重要文化財に指定されています。また、世界遺産登録をめざす「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」※の資産候補となっています。
※文化庁が国連教育科学文化機関ユネスコへ提出する世界文化遺産の国内候補暫定リストに、2007年(平成19)に掲載されています。

近年、癒しと安らぎを求めて“教会巡礼”に訪れる人も増えているようです。
建材や構造も教会によって異なるので、教会ひとつひとつに見応えがあり、かつその空間の中に安らぎを感じることができるのですが、想像を絶するキリスト教信徒への弾圧・迫害の歴史と、それでも受け継がれて現在も生きるその信仰心や祈る姿にも目を向けると、より一層感慨深いものがあります。


参考資料


歴史散策「富江陣屋跡」

富江小学校運動場前
1662年(寛文2)、五島盛清は、現在の富江小学校から富江中学校にかけて富江陣屋を築いたといわれています。
写真は、富江小学校運動場前です。

富江陣屋石蔵跡
富江陣屋石蔵跡
富江領の石蔵跡。350年ほど経っても頑丈に残っているこの石蔵は、貴重な遺構の1つです。穀物を保存するために使われていました。
新地中華街富江から見る鬼岳
富江町にある温泉センター近くから鬼岳がきれいに見えます。透明な海、澄んだ空・・・。島らしい自然を満喫できます。
 

富江の珊瑚
●富江の珊瑚
富江の特産品のひとつに「富江珊瑚」があります。1886年(明治19)、大分県の網漁師により、男女群島沖合で赤色の珊瑚が採取されたのが始まりといわれています。大正中期には、採取・加工はますます盛んになり、緻密な平面掘りに工夫を加えた「五島掘り」の技術が確立されました。
富江陣屋跡から福江港へ向かって徒歩10〜15分程度のところにある出口珊瑚では、彫刻法の技術を引き継いできた職人さんの仕事ぶりを見学できます。詳しくはこちらをごらんください。

 

周辺散策地図


富江小学校 富江中学校 鬼岳 出口珊瑚


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