たびながコラム

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平戸藩2

明治維新に向けた平戸藩

中山愛子像(平戸城亀岡公園) 前回ご紹介しましたが、1775年(安永4)に平戸藩主となった清[静山]の第11女・愛子は、中山忠能と結婚し、慶子(よしこ)をもうけました。この慶子は、典侍として孝明天皇に仕え、明治天皇を生みましたので、愛子姫は明治天皇の外祖母にあたります。
また幕末には黒船が日本近海に出没し、国内では尊王攘夷の論争が起こり、佐幕・勤王の対立が激しくなっていきますが、時の平戸藩主・松浦詮(まつらあきら[心月])は、姻戚である中山忠能の指導を得て、平戸藩を勤王へと進めていきました。
1868年(明治元)には、鳥羽・伏見の戦に在京の平戸藩士が出陣するなど活躍しています。 また同年、平戸藩は奥羽出兵の勅命を受けました。二隊約400名が田助港を出帆し、出羽船川に上陸。角館(かくのだて)や苅和野(かりわの)の地などで会津庄内藩と戦っています。
中山愛子像(平戸城亀岡公園)中山愛子像(平戸城亀岡公園)
平戸城では、幕末に関する詳しい展示がみられます
 

「西海の二程(にてい)」と呼ばれた楠本端山・碩水

1867年(慶応3)、松浦詮(あきら)[心月]が明治天皇に儒教の四書のひとつ「大学」をご進講することとなりました。このときの詮の講義は、堂々として見事な内容で、列席していた公卿や諸大名も驚くほどだったといいます。
この講義で、詮の侍講(じこう)であった楠本端山(くすもとたんざん)の名が全国に知られるようになりました。
幕末の平戸藩には、楠本端山と楠本碩水(せきすい)という平戸藩領針尾(はりお)島(現佐世保市)出身の兄弟がいました。三島中洲(みしま ちゅうしゅう)は、宋の儒者であった程朸協ていこΙと程頤(ていい)の兄弟になぞらえ、端山と碩水のことを「西海の二程(てい)」と讃えました。
今回は、この二人にスポットを当てて紹介していきます。

楠本端山は、平戸藩校・維新館に学び、葉山左内から才能を認められ、24歳の時に江戸留学を命じられました。佐藤一齋(さとういっさい)や大橋訥庵(とつあん)について儒学を深め、平戸藩に戻ると松浦詮に学問を講じながら、維新館の教員となりました。
端山は、当時の維新館の教育が単に解釈や暗記に偏ってきていることを指摘し、人間の徳性を養いものの道理を知るという朱子学本来の姿に近づけようと改革を唱えました。しかしこの改革は取り入れられなかったため、端山は教員を辞めて針尾へ帰郷します。
数年後、藩主である詮からの懇請もあり、端山は再び平戸に出仕し、詮の侍講を勤めました。端山の学識と人格に、藩主の信頼は厚かったといいます。
この当時、佐幕か尊王かで激しく国内が揺れ動いていましたが、端山は過激な行動を慎み、君主に仕える尊王の大義を藩主に説いたともいわれています。
明治維新後、端山は平戸藩権大参事という職につくと藩政に関わり、猶興(ゆうこう)書院をひらき、税を軽減して民生の安定をはかるなど学制の改革を行いました。

弟の碩水も維新館に学びます。九州各地を遊学した際には広瀬淡窓(たんそう)の門に入り、その後上京して佐藤一斎の門にも入り学びました。平戸に戻ると、維新館の教員となります。解釈や暗記に偏った保守的な藩校の改革をめざしましたが端山と同様に果たせず、城下に「櫻谿(おうけい)書院」という私塾を開き、自分の信じる教育を進め、子弟を教えました。この櫻谿書院では、当時侍講であった端山も招かれて、講義に出ていたといわれています。
明治維新後、碩水は貢士(こうし:各藩の意見を代表する役目)として上京し、その後新政府の役職がめまぐるしく変わり、新しく京都に設置された大学で漢学を教えました。しかしこの大学はわずか一年で廃止となりました。
若い頃、生涯仕官をさけて門人の教育に尽くした浅見絅斎(あさみけいさい)の影響を受けていた碩水は、その後藩に仕えることはなかったといいます。

楠本端山旧宅
楠本端山旧宅
平戸から針尾島に戻った端山と碩水は、1882年(明治15)に自らの学問、教育の理想をめざし、「鳳鳴(ほうめい)書院」を設立しました。
この鳳鳴書院では、知行合一を重んじ、国家につくす知徳豊かな人材を育てることを目的とし、きびしい規則や試験を課さずに、自由に学ばせる方針をとりました。

 


端山と碩水を慕って、九州各県のほか山口・島根・広島・香川・徳島・三重・新潟、さらに青森県など東北地方にまで及び、鳳鳴書院の門人は約400名にのぼったといいます。このほか維新館や櫻谿書院、猶行書院など私塾時代をあわせると、二人の門人は千数百名ほどといわれています。
この門人の中には、元老院議官や貴族院議員となった籠手田安定(こてだやすさだ)や熊本県出身で自由民権運動家の宮崎八郎など、明治期に国内外で活躍した先駆者が多くみられます。精神形成に実行を重んじる二人の教育が及ぼした影響も大いにあったと思われます。
二人の門人たちの活躍は、2010年(平成22)1月27日に公開された「歴史発見コラム」の“平戸を訪れた人々と平戸を旅立ち活躍した人々”をご覧ください。
 

参考資料

  • 「史都平戸-年表と史談-」/松浦史料博物館
  • 「郷土史事典」(長崎県/石田 保著 昌平社出版)
  • 「江戸時代 人づくり風土記42 長崎」/企画・発行 社団法人農山漁村協会

歴史散策「楠本端山旧宅」

楠本端山旧宅の周辺には、有料道路・西海パールラインが整備され、大村湾やハウステンボス、針尾の無線塔などを遠望できます。近くをドライブするなら歴史スポットを訪れてみませんか?

楠本端山旧宅
楠本端山旧宅
旧宅は武家屋敷に儒教の祀堂を備えた珍しい造りです。近くに儒教様式の土墳墓7基があり、大変貴重なものとして県の史跡に指定されています。この建物は端山の父が1832年(天保3)に建築したもので,門は平戸の楠本屋敷より明治初年移築したものだそうです。
針尾の無線塔
針尾の無線塔
国道202号から針尾農道へ入り、西海パールラインの下を走っていくと、巨大な3本のコンクリート製の電波塔を間近で見ることができます。元は日本海軍佐世保鎮守府下の無線送信所です。1918年(大正7)に着工し、1922年(大正11)に完成しました。1本の高さは130メートルを超えています。

浦頭引揚記念平和公園
浦頭(うらがしら)引揚記念平和公園
太平洋戦争の終結に伴い、海外に居住していた邦人や軍関係者約629万人が日本に引き揚げました。このうち主に中国大陸や南方諸島からの引揚船 1,216隻、一般邦人・軍人・軍属合わせて1,396,468人もの方々がこの浦頭に上陸しました。1986年(昭和61)、近くに浦頭引揚記念平和公園が整備され、当時の資料を展示した引揚記念資料館があります。
開館時間:9:00〜18:00(11月から3月は17時閉館)
入館料:無料
休 館:12月30日〜1月3日
「かえり橋」歌碑
浦頭引揚記念平和公園
内にある「かえり橋」
歌碑
引揚記念資料館
引揚記念資料館
元検疫所消毒室の軒先復元
元検疫所消毒室の
軒先復元
(引揚記念資料館の裏)
引揚第一歩の地
引揚第一歩の地
平和公園から約500メートル
ほど離れた波止場にある
記念碑です。


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