たびながコラム

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大村藩2

大村藩の幕末

大村藩は、西九州の他藩と同様、近接する長崎の警備を要請されていたため、軍備増強、沿岸防備体制の強化を余儀なくされました。
大村藩藩主・純熈(すみひろ)は、外海地区へ砲台築造を行い、藩士を高島秋帆(しゅうはん)や幕府の長崎海軍伝習所へ派遣して洋式軍備の導入を図りました。

斉藤歓之助の碑(玖島城跡)
斉藤歓之助の碑(玖島城跡)

また幕末の三剣士と称された斉藤弥九郎(やくろう)の三男・歓之助(かんのすけ)は、同じく三剣士のひとりである千葉周作(ちばしゅうさく)の二男「千葉の小天狗」とならび称され、「鬼歓(おにかん)」とよばれていました。この歓之助は、1851年(嘉永4)に大村藩へ仕官し、最初は大村藩江戸藩邸詰として剣術の指導にあたりました。当時の大村藩は、従来の組太刀中心の一刀流・新陰(しんかげ)流を採用していましたが、大村純熈には、激動する世情のなかでより実戦的な神道無念流を大村藩へ導入しようという考えがありました。

五教館御成門 五教館御成門
歓之助は、城下の上小路(うわこうじ)登り口の左手に屋敷を構え、敷地内には微神(びしん)堂道場を設け、藩校五教館(ごこうかん)のなかにあった治振(じしん)軒でも藩士への剣術指導にあたりました。歓之助のはげしい指導により、渡辺昇(わたなべ のぼり・のぼる)や柴江運八郎(しばえうんはちろう)などの剣士を輩出しました。

 


 

大村純熈公(大村純熈公)
大村純熈公(大村純熈公)
1863年(文久3)、大村純熈は長崎奉行に任命されました。当時、藩論は倒幕に傾きつつあったため、純熈は幕府の重職に就くことに躊躇し、何度となく辞退を申し出ましたが、幕府からあらぬ嫌疑をかけられないようにと配慮し、同年長崎奉行に就きました。
しかし藩主の長崎奉行就任により、大村藩では家老浅田弥次右衛門(あさだやじえもん)を中心とした佐幕派が倒幕派を弾圧するようになりました。
1864年(元治元)、大村純熈は病気を理由に長崎奉行を辞任します。そして大村藩の重職を佐幕派から尊皇攘夷論の改革派に代え、藩内佐幕派を一掃しました。佐幕か倒幕かと揺れ動く時代に、大村藩では他藩に先駆けて藩論を尊皇攘夷と決定し、藩主である大村純熈による藩主先導型の倒幕運動が展開されることとなりました。

 

勤王三十七士

勤王三十七士
ペリーが来航し安政の五カ国条約が締結されて以来、日本では佐幕派と倒幕派との対立が激化していました。そんななか大村藩では、尊皇攘夷論を掲げ三十七名から構成された勤王派ができました。
大村純熈が長崎奉行に就任した当時、大村藩では佐幕派が力を持ち、倒幕派を弾圧していましたが、そのことがかえって倒幕派の結束を強めることとなりました。1863年(文久3)、針尾九左衛門(はりおくざえもん)や長岡治三郎(じさぶろう)らを中心として三十七名による勤王派の盟約が生まれました。
この勤王三十七士には、長崎や江戸、大坂に遊学して新しい知識や技術を身につけ、政情の大きな転換期を肌で感じた人々がいました。
幕末の三剣士といわれた斉藤弥九郎道場で新道無念流を修め桂小五郎のあとに塾長をつとめた渡辺昇は、坂本龍馬とも親交が深かったことでも知られています。また大村藩きっての秀才とよばれた松林飯山(はんざん)などがいました。
1864年(元治元)に藩の重職が佐幕派から倒幕派へ一新すると、渡辺昇の兄・清が中心となり藩政改革が行われました。1865年(慶応元)には英国式教練法を導入しました。この教練には藩主自らも度々参加していたといわれています。
また藩士の二・三男を中心に小銃兵五大隊を組織し、そのなかでも志気が高い30名を選出し、渡辺昇を隊長とする新精組を作りました。
 

小路騒動

松林飯山遭難の碑
松林飯山遭難の碑
藩論が尊皇攘夷に固まったとはいえ、佐幕派の勢力がなくなったわけではありませんでした。慶応年間に入ると両派の対立はさらに激しくなりました。
1867年(慶応3)には明治維新を目前にして倒幕派の中心人物であった針尾九左衛門と松林飯山の2名が暗殺されるという事件が発生しました。
この知らせを聞いて五教館には200名の藩士が集まり、藩主からは犯人探索の命令が下りました。犯人探しは難航しましたが、首謀格の長井兵庫(ながいひょうご)ら6名を逮捕、さらに証言から逮捕者は26名に及びました。(実行犯等については諸説あります)。

長井兵庫の墓(本教寺にて) 長井兵庫の墓(本教寺にて)
長井兵庫は、一刀流宮村佐久馬の高弟でした。嘉永年間の藩命によって斉藤歓之助の神道無念流に切り替えるまで、大村藩では一刀流・新陰流を採用しており、この流儀替えによってそれまで治振軒剣術取立役であった長井兵庫は、渡辺昇にその立場を奪われたという遺恨もあったといわれています。渡辺昇や松林飯山らが藩政に登用され、藩政人事に不満をもった人々が結集したことや、大村家一門で永く家老を務める家柄の大村邦三郎(くにさぶろう)と大村泰次郎(たいじろう)までが荷担していたことも判明しました。逮捕者は全員処刑され、両派の抗争は終結しました。

 

戊辰戦争

藩論を早くから尊皇攘夷に統一し、渡辺昇が中心となって薩摩藩や長州藩と共に行動していた大村藩は、鳥羽伏見の戦い以降の戊申の役に即応し、一番隊、二番隊、三番隊を編成し、557名に及ぶ藩兵を各所に送っています。
鳥羽伏見の戦いでは、新精隊が中心となり東からの佐幕派の攻撃に備えて大津守備にあたっています。戦闘が江戸へ移ると、大村藩は東海道征討軍の先鋒隊をつとめ、一路東海道を進撃しました。また幕府方の勝海舟と倒幕方の西郷隆盛の会談により江戸城は無血にして倒幕派へ引き渡されましたが、この会談の際には渡辺清も立ち会い、隣部屋で会談の成り行きを見守っていたといいます。
鳥羽伏見の戦いから江戸無血開城、彰義隊(しょうぎたい)との上野戦争、会津戦争に勝利しましたが、その頃東北地方では、唯一尊皇倒幕の立場をとっていた秋田藩が周辺諸藩から攻撃を受け窮地に陥っていました。大村藩は、平戸藩や島原藩、振遠(しんえん)隊(長崎裁判所に所属した官軍の部隊)とともに計1,000名の援兵を編成し、秋田へ向かいました。

少年鼓手・浜田謹吾(玖島城跡)
少年鼓手・浜田謹吾(玖島城跡)
当時大村藩は、前述の通り英国式の教練を採用していたことから一番隊から四番隊の各隊に鼓手を1名つけ、戦場での指揮を洋太鼓で行っていました。この戦闘では大村藩兵の被害は大きかったといわれています。二番隊の鼓手をつとめていた15歳の浜田謹吾は、この戦闘中に重傷を負い、伍長の背中に負われて退却している最中に、第2弾が頭部に命中し即死したといわれています。

戊辰戦争が終結すると、1869年(明治2)に明治新政府は、戊辰戦争から明治維新実現に功績のあった功労者に対して論功行賞を行い、封禄を与えました。
大村藩は薩摩藩、長州藩、土佐藩に次いで4番目で、朱印高2万7,000石という小藩でありながら、3万石の賞典禄を受けました。明治維新達成への貢献度が評価されました。



歴史散策

肥前大村藩2万7千石の城下町。大村氏は中世から江戸時代を経て明治維新にいたるまで絶えることなく大村地方を治めてきた大名です。大村喜前の時代に5つの武家屋敷街が形成されました。一部の石垣は今でも残り、当時の風格を漂わせています。
草場(くさば)小路武家屋敷街と五色塀(ごしきべい)
●草場(くさば)小路武家屋敷街と五色塀(ごしきべい)
5つの小路のうち最も北に位置した通りです。地名から草場小路と名付けられました。この通りには五色塀と呼ばれる大村藩独特の塀が残されています。

旧円融寺庭園・三十七士の碑
旧円融寺庭園・三十七士の碑
●旧円融寺庭園・三十七士の碑
1652年(承久元)に創建された円融寺の庭園です。江戸時代初期洋式の石組庭園で、東西50メートルに及ぶ斜面を利用し400個以上の石を組み合わせて造られました。今も当時の雄大な姿を残す名園です。
また幕末に活躍した三十七士の石碑や戊辰戦争の戦死者の墓碑も建てられています。

春日神社
春日神社
●春日神社
大村純信が大村家を相続するとき、幕府の許可がなかなか下りず、大村藩は存続の危機に陥りました。このときに奈良の春日神社に祈願をし、相続の許可がおりたため、お礼として奈良の春日神社の分霊を祀って建てられました。ここからの風景は格段です。階段下の鳥居の手前まで長崎街道が続き、そこから街道は山手へ曲がっています。

上小路武家屋敷街
●上小路(うわこうじ)武家屋敷街
5つの小路の中で最も長い通りでした。家老浅田大学の屋敷や幕末三十七士の中心人物・松林飯山の屋敷など重臣が多く住んでいました。

旧楠本正隆屋敷跡
●旧楠本正隆屋敷跡
幕末から明治にかけて活躍した政治家楠本正隆の旧家です。三十七士の一人としても活躍しました。明治新政府では行政官として新潟県令・東京府知事などを歴任しました。屋敷・庭園とも良く保存されており、小村の武家屋敷の貴重な遺構として公開されています。

 


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