たびながコラム

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島原藩2

 

島原城

1853年(嘉永6)、ペリーの来航以降、長崎港にも異国船が頻繁に訪れました。そのたび島原藩は、警備のために兵を長崎へ送ったり、藩主自らの長崎巡見などを行いました。しかし藩費はかさむばかりでした。また島原では流行病が発生し、領内で6百人を超える死者が出たといわれています。
1862年(文久2)、藩主・忠愛(ただちか)が嗣子無くして急死したため、急遽密かに水戸・徳川斉昭(なりあき)の十六男として生まれた松平忠和(ただかず)が養子となり、最後の島原藩主となりました。

島原藩幕末の志士たち

激動する政局のなか、島原藩にも尊王攘夷の思想を持った志士がいました。丸山作楽(さくら)、半田清直、梅村真守(まもり)、石田貞幹(さだもと)、尾崎靖(やすし)、保母建(ほぼたけし)、伊藤益荒などが攘夷運動を展開していました。
島原藩主の交代により、梅村真守らは攘夷を建言しますが、松平忠和は江戸幕府最後の将軍となる慶喜の実弟であったため、幕末は特に佐幕思想が強くなり、多くの尊王攘夷派が処罰を受けました。
志士らは、平田篤胤(あつたね)の後継者・平田 銕胤(かねたね)について国学を学び、文武修行の名義で上京し、他藩の攘夷派と交流を深めました。
その後保母建と石田貞幹、尾崎靖は、尊王攘夷派の武装集団・大和天誅組(てんちゅうぐみ)に加わり、幕府軍と戦いましたが、保母建は紀州兵に囲まれ自首、尾崎靖は津藩兵に捕まるなどして最終的に獄死しました。また梅村真守と伊藤益荒は水戸藩の天狗党(てんぐとう)に参加しましたが、内紛なども起こり、本隊から離れ各地を転戦しましたが、二人とも戦死しました。

神習処跡
神習処跡

かねて禁門警備にあたっていた丸山作楽は、八月十八日の政変により長州藩など京都の尊王攘夷派が一掃され、公武合体派の勢力が強まったため、島原藩に戻りました。そして1863年(文久3)に上新丁(武家屋敷跡近く)に私塾・神習処(かんならいどころ)を開き、藩士に国学と神道を説き、尊王思想を鼓舞しました。しかしあまりにも丸山作楽の思想と行動は激しかったため、島原藩の忌避するところとなり、謹慎を命ぜられています。三条実美ら5卿が大宰府に移されたと聞いては、脱藩して島原藩に迎え入れようとしましたが、実現しませんでした。

龍馬の島原上陸
龍馬長崎上陸の地
龍馬長崎上陸の地

この騒動のなか、1864年(元治元)には勝海舟とともに坂本龍馬らが島原湊に上陸しました。英仏米蘭4カ国連合艦隊の長州攻撃を阻止するために、海舟は外国勢との調停役としての幕命を受けていました。このとき龍馬は30歳で、海舟の信頼を受け、神戸海軍操練所の塾頭を務めてた頃です。
島原湊上陸後、島原街道、長崎街道を通り長崎に到着しています。
龍馬が初めて長崎に上陸した島原湊の石段には、現在「龍馬長崎上陸の地」の看板がたっています。

戊辰戦争

藩主・忠和の実兄で最後の徳川将軍慶喜は、1867年(慶応3)に政権返上を明治天皇に上奏し、大政奉還がなされました。
翌年には会津・桑名藩を主力とした旧幕府軍と、薩摩藩・長州藩によって構成された新政府軍とが鳥羽・伏見で激突しました。この戦いで旧幕府軍の不利が伝わると、長崎奉行河津祐邦(すけくに)は長崎を抜け出して京都へ向かったため、長崎の町は土佐藩や薩摩藩などの藩士が協議して守ることになりました。これを知った島原藩は藩士を集めて協議し、使者を長崎へ送り、各藩士と接触させ、長崎会議所にて力を合わせて王事に尽くすことを誓いました。その後九州鎮撫総督として沢宣嘉(のぶよし)が長崎に着任すると、島原藩は安芸藩とともに大波止の警備につきました。
藩主・忠和は朝廷に対して、慶喜は実兄であるが、王事よりほかに他意はない。兄弟の縁は問わないことを伝えています。
さらに沢総督から奥羽への出兵要請を受けて、出羽国船川に上陸し、秋田へ出陣しました。その後檜木山から湯の沢をへて転戦し、一時は敵に囲まれて苦戦しました。ここで磯野波蔵、小沢文十郎、木下鉄之助が戦死しました。角館(かくのだて)にひきあげた後、長崎の振遠隊(しんえんたい)と合流し、南部領へ進みました。盛岡藩の降伏後に東北の反乱も平定したため、解兵の令がおりました。
戊辰戦争により、島原藩は砲戦を主とした英国軍隊方式を取り入れるなど軍制を改めました。

丸山作楽のその後

明治維新後、政府に請われて外務大丞(だいじょう)に就任し、樺太の国境問題についてロシアと交渉しました。また後に征韓論に同調したため、一時投獄されていますが、出獄後に新聞『明治日報』を起こし、1882年(明治15)には東京日日新聞の福地源一郎(ふくちげんいちろう)とともに立憲帝政党(りっけんていせいとう)を結成、保守的政治家として活動しました。

猛島神社にある丸山作楽の歌碑
猛島神社にある丸山作楽の歌碑

1886年(明治19)には宮内省図書助(ずしょのすけ)に就任し、伊藤博文の命をうけて渡欧しスタイン博士に学び明治憲法や皇室典範の制定に尽力しました。また1890年(明治23)には元老院議官・貴族院議員に就任するなど政界で活躍しました。
丸山作楽は、万葉の歌人でもありました。島原市の霊丘(れいきゅう)公園や猛島(たけしま)神社などには丸山作楽の遺徳をたたえる大きな石碑や歌碑が建立されています。

参考資料
  • 『島原の歴史 藩政編』(発行/島原市)
  • 『長崎県の教育史』(外山幹夫 著/思文閣出版)

歴史散策



南島原市有家町(ありえちょう)は、古くから「庄屋の町」として栄えた町です。酒蔵、みそ醤油蔵や素麺蔵、神社やお寺、キリシタン遺跡、レンガ塀などの産業遺産等が多く残っています。これらの遺産を後世に伝えると共に、地域経済の活性化を目的に「ありえ蔵めぐり」イベントが開催されています。
約8メートルもある巨大な一本の木を天井からつるし、てこの原理によって微妙な圧力をかけて搾り上げる“撥ね木搾り”という古くから伝わる技法によって酒を作り続けている壱之蔵吉田屋。
雲仙山系の清純な伏流水を仕込み水として、厳選した良質の酒造好適米を高精白に磨き上げ、昔ながらの手造りの良さを守り続けている弐之蔵浦川酒造。1918年(大正7)、初代が味噌・醤油の製造を始めたことに始まる参之蔵喜代屋、古民家好きにはたまらない風情の建物の四之蔵ヤマコメ醸造、雲仙山麓の上質な水と、厳選された小麦を使い昔ながらの製法で丹念に熟成を重ねしっかりとした「コシ」の強いそうめんを作り続ける五之蔵島原一揆村ふるせの5つの蔵があります。 年に数回開催されている「ありえ蔵めぐり」イベント期間中には、「蔵さるき」ガイドツアーも開催されています。まち歩きを通して、長い歴史で培われた「蔵の文化と生活」に触れてみませんか。



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