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歴史発見ドライブルート
■ 壱岐の風景と元寇ゆかりの地を訪ねる(2010.3.10.更新)
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 このコーナーでは、長崎県内の歴史を探っていく旅のドライブルートを紹介しています。

 今月の注目エリアは、6月にご紹介した『壱岐』の続編です。いよいよ2010年(平成22年)3月14日、歴史の島・壱岐に「壱岐市立一支国博物館・長崎県埋蔵文化財センター」がオープン!「魏志倭人伝」の世界の再現や復元された古代船、遺跡発掘の体験など子どもから大人まで楽しく学べる博物館です。新しい博物館をめあてに、6月に続いてまたまた、壱岐の旅へ出かけることにしました。旅の必携アイテムは『旅する長崎学11』です。
 壱岐がはじめてという人は、先にどんなところかチェックしておこう。

壱岐の位置 壱岐をドライブする

今回のドライブルート

壱岐の地図

スポットの紹介

1日目

01壱岐空港

壱岐空港  今回も、「海都くん」が案内してくれるよ!


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02長崎県埋蔵文化財センター・壱岐市立一支国博物館(ながさきけんまいぞうぶんかざいせんたー・いきしりついきこくはくぶつかん)

長崎県埋蔵文化財センター・壱岐市立一支国博物館  今から約2100年前、「一支国(いきこく)」は、大陸と日本の架け橋として大きな役割を担っていました。大陸の最先端の技術や文化は、対馬、壱岐をとおって、北部九州の国々へ、そして邪馬台国(やまたいこく)へと運ばれました。一支国は“海上の貿易センター”として、弥生時代に繁栄した王国です。
 壱岐島の歴史や数々の遺物を紹介する「壱岐市立一支国博物館・長崎県埋蔵文化財センター」が、2010年(平成22)3月14日にグランドオープン。この博物館は新感覚のミュージアムで、単なる展示にとどまらず、グラフィック映像やタッチパネル検察、模擬発掘体験、見える収蔵庫、出土品の整理作業を見学できる通路など、楽しくわかりやすく歴史を学びながら身近に体感できる施設です。もちろん、壱岐島のお宝である指定文化財や、壱岐ならではの“日本初”や“日本最古”“日本唯一”の遺物なども展示され、見どころもいっぱいです。


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03原の辻遺跡復元施設(はるのつじふくげんしせつ)

原の辻遺跡復元施設 中国の歴史書『三国志』の一節に、倭の国について2008文字で記された『魏志倭人伝』の中に一支国が登場します。うち一支国に関する情報は57文字で、「水田を耕しても食料が足らず、南や北と交易して暮らしている」と記されています。1995年(平成7)には、一支国の中心であった海の王都が「原の辻」であるということが特定されました。現在、国の特別史跡に指定されています。
 ここでは、王以外は入室できない神聖な主祭殿(しゅさいでん)や、王が儀式の前に身を清めたといわれる「平屋脇殿(ひらやわきでん)」など数々の建物が復元されています。

タビーナ「壱岐市立一支国博物館、長崎県埋蔵文化財センターと原の辻遺跡復元施設については次週の「テーマで歩く歴史散策」で詳しく説明します!」海都「楽しみにしててね!」
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04はらほげ地蔵

はらほげ地蔵  6人のお地蔵さまが並んで海に浸かっています。よく見ると、胸に直径4センチほどの穴があいたお地蔵さまがいます。そのため地元の人々のあいだで、「はらほげ地蔵」と呼ばれています。
 干潮時には、人工の埋め立て地面に降りて拝むことができますが、満潮時には、お地蔵さまが胸まで海中に浸かってしまうので、現在では祀り場が設置されています。
 いつ、誰が、何のために、このお地蔵さまたちを祀ったのか定かではありません。この辺りは以前から海女の集落があることから、海難逃れや海難者の冥福祈願のために地蔵の胸の部分に穴をあけ、供物をそこに上げたのではないかと伝えられています。また以前、鯨の納屋があって鯨が捕獲されていたため、鯨鯢供養(げいじくよう)として建立したのではないかともいわれています。

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05左京鼻(さきょうばな)

左京鼻  八幡半島の突端にある「左京鼻」は景勝地として知られています。
 この岬周辺は昔から海産物が多く獲れるところで、海女たちがウニやアワビなどの漁を盛んにおこなっています。
 この左京鼻の名前の由来については、江戸時代の初期に大旱魃(だいかんばつ)に襲われ、人々が苦しんでいたときに、陰陽師の後藤左京と龍造寺五世日峰和尚(にっぽうおしょう)の二人が身命を賭けて雨乞いをしてくれたことからついたといわれています。
しかし、もっと遡ると、「石橋の端(しゃきょうのはし)」「石橋の鼻」と呼ばれていたという記録もあります。「石橋の端(鼻)」とは“突端の断崖”という意味があるそうです。「しゃきょう」という読み方は、「神変佛力にあらずばたれかこの橋を渡るべき」という昔の中国の故事にある石橋(しゃきょう)を、この断崖に見たてて名付けられたと思われます。
神様が生んだ「生き島(壱岐島)」を繋いだ8本の柱岩の1本とも伝えられています。


左京鼻 1973年(昭和48)にNHK主催の「ふるさとの歌まつり」でこの左京鼻が全国放送され、観光地として島外に知られるようになりました。


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06少弐(しょうに)公園・弘安の役(こうあんのえき)跡

少弐公園・弘安の役跡  壱岐は対馬と同様に、文永の役・弘安の役では蒙古軍の襲来を受けました。蒙古軍の侵攻によって島内は戦場と化し、今でも多くの伝承地が残っています。


少弐公園・弘安の役跡 現在少弐公園として整備されたこの地は、1282年(弘安4)に対馬、壱岐と侵攻した蒙古軍(東路軍)が一時撤退し体制を整えていた場所でした。博多湾に押し寄せた際に日本軍の反撃に遭って損害を受けたので、遅れてやって来る江南軍と合流するための本拠地として壱岐の瀬戸浦を利用したのです。
 江南軍と合流し一気に博多に侵攻する作戦を知った日本軍は、壱岐に撤退した蒙古軍を追撃します。壱岐を防衛するための守護代に任命された少弐資時(しょうにすけとき、少弐経資(つねすけ)の子)は、瀬戸浦の船匿(ふなかくし)城を本拠地とし、部下を率いて蒙古軍と激戦を展開しました。しかし、少弐資時は19歳の若さで討ち死にし、船匿城で全滅したといわれています。

少弐公園・弘安の役跡 丘の上には少弐資時の墓が建てられ、現在はキャンプができるよう炊事棟や遊歩道が整備されています。展望台の近くには、663年(天智2)の白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦いで日本軍が新羅・唐の連合軍に敗戦した後に、国防のために設置された狼煙台(のろしだい)も残っています。


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07男岳神社(おんだけじんじゃ)の石猿群

男岳神社  男岳は、五百鳩(いおつり)山とも磯山ともよばれる標高156メートルの山。それでも壱岐の中では岳の辻(たけのつじ)に次いで二番目に高い山です。男岳には昔から山一面に高木が繁茂し、霧が深くかかり荘厳な雰囲気を醸し出しています。


男岳神社 うっそうと繁った社叢には、まずユーモラスな石猿たちが顔を出して迎えています。この神社の祭神が猿田彦命(さるたひこのみこと)であることから、境内には願成就のために石猿が奉納されています。ここに奉納されている230余体の石猿の表情はそれぞれ異なり、とっくりを提げたものや、“見ざる、言わざる、聞かざる”の表現をしたもの、笑い、とぼけ、すましたものなど実にさまざまな石猿たちに出会うことができます。


男岳神社の石猿群 山頂からは壱岐全島が見渡せ、ユーモラスな石猿たちとともに、多くの参拝者の目を楽しませています。

動画を見る


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08新城千人塚・文永の役跡(しんじょうせんにんづか・ぶんえいのえきあと)

新城千人塚・文永の役跡 1274年(文永11)、対馬を攻撃した蒙古軍は、次に壱岐を目指し、勝本町の浦海(うろーみ)や馬場崎(ばばさき)、天ヶ原(あまがはら)に上陸すると、樋詰城(ひのつめじょう・現在の新城神社)へ向かって侵攻しました。
 当時の壱岐守護代・平景隆(たいらのかげたか)はわずか100騎余りで蒙古軍を迎え討ちました。各地で激戦を繰り広げましたが、樋詰城に退き、一族すべて自刃して果てました。多くの遺体を集めて埋めたという千人塚は、この新城千人塚のほかにも浦海や天ヶ原、射場原(いやんはる)など各地に点在します。
 数多くの元寇に関する伝承地のひとつとして、この新城千人塚の地を文永の役新城古戦場として顕彰しています。

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09河合曽良(かわいそら)の墓

河合曽良の墓  河合曽良は、信州諏訪出身で、芭蕉十哲の1人です。松尾芭蕉の信頼も厚く、奥の細道紀行にも随行し、曽良随行日記とよばれる旅日記を残しています。
 芭蕉の没後、1710年(宝永7)に幕府巡見使の1人として壱岐を訪れましたが、病にかかり、対馬へ向かう一行と勝本で別れ、中藤家にて62歳で客死しました。
 中藤家の墓地に曽良の墓があります。すぐそばの城山公園には、曾良の句碑があります。

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10城山公園(じょうやまこうえん)
河合曽良の句碑 勝本城跡(石垣)
河合曽良の句碑 勝本城跡(石垣)

 公園内には、河合曾良の「春にわれ 乞食やめても 筑紫かな」の有名な句碑があります。

 朝鮮そしてその後は中国へと大陸侵攻を考えていた豊臣秀吉は、1591年(天正19)、出兵の本陣を佐賀の肥前名護屋城に定めて築城しました。そして松浦鎮信(まつらしげのぶ)に命じて風本(勝本町)に城を築かせました。風本は壱岐島の北西部で、朝鮮をにらむ位置にあります。築城に関しては、松浦鎮信が担当し、有馬晴信(ありまはるのぶ)、大村喜前(おおむらよしあき)、五島純玄(ごとうすみはる)がその補佐役をつとめ、短期間で風本の山頂に築きあげました。

城山公園からの景色 秀吉は自ら朝鮮へ渡って指揮をとることを考慮し、風本に自分の御座所を造営させるよう細川忠興(ほそかわただおき)に注進状を出していましたが、建造されたかどうかは書物等での記録としては確認できていません。
 現在は一の門と二の門の間にあった枡形(ますがた)とその左右の石垣が残っており、「勝本城跡」として国の史跡に指定されています。勝本城跡周辺は城山公園として整備され、城郭があったとされる場所からは勝本の港が一望できます。

 この朝鮮出兵の際、風本は補給基地としての役割を担いました。漁師や商人の船も軍船として使用され、壱岐島内で弓の材料となる竹を集めて朝鮮に送ったり、島内の老人、幼児を除いた全ての男性が労働力としてかりだされたといわれています。

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●勝本浦・朝市

勝本浦・朝市 城山公園から勝本港におりたところに、勝本浦の商店街があります。壱岐では、港町を「浦」、農家が散在する地域を「在」と呼んでいます。
 毎朝8時を過ぎた頃から商店街の店先には、自家製の農産物、小魚や干物などの海産物が並び立ちます。「浦」と「在」の人々のあいだでの物々交換が始まりだとされる、江戸時代から現在に続く勝本の朝市です。地元の人たちや道行く観光客と挨拶や言葉を交わしながらの買い物は、旅の醍醐味かもしれませんね。

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11湯ノ本温泉(ゆのもとおんせん)

勝本湾 湯ノ本温泉

 勝本湾に浮かぶ島々に夕日が映える、湯ノ本温泉。湯ノ本温泉の歴史は古く、神功皇后(じんぐうこうごう)が三韓出兵で帰路した際に立ち寄り、自噴している温泉を見つけ入湯したと伝えられています。また、神功皇后は壱岐で応神天皇を産み、この温泉で産湯をつかわせたともいわれています。今では、子宝の湯としても親しまれ、多くの人が湯ノ本温泉を訪れています。
 江戸時代、徳川家康の頃に守護神として薬師如来を勧請、家光の時に医王院という治療院「温泉山医王院」と呼ばれ栄えたといいます。1662年(寛文2)、武生水(むしょうず)城代の山本甚左衛門清方により、温泉場として開発されたそうです。
 泉質はナトリウム塩化物温泉。独特の赤い色は、元々透明なお湯が湧き出て空気に触れることによって赤く変化したものです。神経痛、リューマチ、婦人病をはじめ、皮膚病や火傷、切り傷にも効果があるといわれています。
 子宝に恵まれない方々だけでなく、癒しを求めるリピーターの方々も多く訪れます。

海の幸がたくさん!

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2日目
12黒崎砲台跡(くろさきほうだいあと)

黒崎砲台跡 黒崎砲台跡

 第一次世界大戦(1914〜18)後の1922年(大正12)、ワシントン軍縮条約により日本は完成したばかりの戦艦4戦艦を廃艦としました。廃艦となった戦艦の中の「土佐」の主砲2門がこの黒崎に据え付けられました。1928年(昭和3)から5年の歳月をかけて砲台2門が造られ、口径41センチ、全長18.8メートルの主砲は、当時最大で東洋一といわれました。射程距離は約35キロメートルで、対馬海峡の半分以上が射程範囲といわれていましたが、実戦では一度も使用されませんでした。1950年(昭和25)に黒崎砲台は解体され、現在は当時をしのぶ遺構が残っています。

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13猿岩(さるいわ)

猿岩 「猿が海を見ている!」
いえいえ、黒崎砲台跡のすぐ近くにある大きな岩でした。はるか彼方の海を見つめているその姿は、どう見ても猿。初めて訪れた人は思わず驚くほどの“そっくり岩”です。海食崖で、海抜約45メートルもある奇岩なのですが、くぼんだ目、愛嬌のあるまつげ、突き出た鼻など、猿の横顔そっくりに見えることから「猿岩」と呼ばれるようになりました。
 この岩は、神様が生んだ「生き島(壱岐島)」を繋いだ8本の柱岩の名残りとも伝えられています。


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14春一番の塔(はるいちばんのとう)

春一番の塔 気象用語として知られる「春一番」ですが、壱岐の事件が発祥といわれています。

 冬から春にかけて季節の移り変わりに吹く強い雨風のことを、壱岐の漁師たちは昔から「春一」または「春一番」と呼んで恐れていました。


 1859年(安政6)旧暦2月13日、快晴。この日元居浦(もというら)から七艘の漁船が、五島沖へ出漁しました。目的地へ着くと、針先にえさを取り付けて次々に海へ投げ込んでいきました。この日の大漁を喜んでいる時に、南風とともに水平線に黒雲が湧き、遠くから「春一だ!」と叫ぶ声が聞こえました。帰りを急ぐ船を小山のような波が襲い、あっという間に漁師たちは船から投げ出され、海に消えました。
 こうして元居浦では、毎年旧暦2月13日はどんなに天候が良くても漁船は沖止めにして出漁を禁止にしています。そして漁民一同が集い、海難者の冥福を祈ります。


春一番の塔 1987年(昭和62)、元居公園には当時の船体の長さ(9尺)の船型をした「春一番の塔」が建立され、翌年から「春一番フェスタ」が開催されています。


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15岳の辻展望台(たけのつじてんぼうだい)

岳の辻展望台 岳の辻展望台

 壱岐島の中で最高峰の「岳の辻」。頂上は視界が広がり、全島を見渡すことができます。北方の海上には対馬の島影、南方には呼子や東松浦半島の山並みが見えます。晴れた日には、平戸や九州の連山まで見えることもあります。
 白村江の敗戦の翌年664年(天智3)に、唐・新羅の来襲に備えて壱岐にも防人(さきもり)と烽(とぶひ)が設置されました。烽は狼煙(のろし)のことで、信号用の火煙です。岳の辻の山頂には、この狼煙台が設置され、対馬と壱岐と九州本土を結ぶ緊急連絡用として利用されました。また幕末には、外国船の侵入に備えて平戸藩の遠見番所が置かれました。
 現在、西側・中央・東側の3ヶ所に展望台や展望デッキが設置され、遊歩道やピクニック広場も整備されて、憩いの場として親しまれています。

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16松永記念館(まつながきねんかん)

松永記念館  日本の電力界の草分けであり、「電力王」や「電力の鬼」などと呼ばれた松永安左ヱ門(まつなが やすざえもん)の生誕の地である壱岐に、全国の電力関係者の浄財によって、1971年(昭和46)に松永記念館が建てられました。
 館内には、生前に彼が愛用した所持品や文書などが展示されており、松永安左ヱ門の偉業を知ることができます。1998年(平成10)には石田町ふるさと資料館が併設されました。

松永安左ヱ門とは?

  ■松永記念館・石田町ふるさと資料館

◎入館料 大人:100円
中学生以下:50円
団体(15人以上):2割引き

◎開館時間 午前9時〜午後5時

◎休館日 火曜日午後及び水曜日・年末年始

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タビーナ「海都くんガイドをありがとう」海都「一支国博物館はあとでじっくり案内するね!」

参考資料

・『旅する長崎学11 海の道I壱岐 邪馬台国への道』(企画/長崎県 制作/長崎文献社)

・『芦辺町史』(芦辺町史編集委員会/芦部町発行)

・『勝本浦郷土史』(川谷幸太郎著)

・『長崎県文化百選 壱岐・対馬編』(長崎県)

・『まるごと壱岐事典』(壱岐市産業経済部観光商工課)

取材協力

壱岐市観光協会

旅館 千石荘

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