ながさき歴史の旅

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テーマで歩く歴史散策

  • 第2回 朝鮮半島が見える場所にて・・・ 2009年07月08日
    第2回 朝鮮半島が見える場所にて・・・
    〜お墓に見る物語〜  ドライブルートのなかから、歩いて学べるエリアをクローズアップしてご紹介するコーナーです。今回の散策コースのテーマは、「朝鮮半島が見える場所にて・・・」です。  韓国までわずか49.5キロという距離、天気が良く条件がいいと肉眼で釜山市を臨むことができます。“国境の島”といわれる対馬らしい特別な場所。さあ、最も韓国に近い、対馬最北端エリアをウォーキング! 散策エリアの位置をチェック 散策エリアの紹介  このエリアは、鰐浦(わにうら)とよばれる対馬最北端の地で、朝鮮半島を最も近く近く感じることができる場所です。江戸時代には通行のための番所も置かれていました。  なんといっても、そこに外国が見えるのですから! それでも、昔の航海は命がけでした。目の前に広がる国境の海と49.5キロ先にある韓国を眺めながら、この海を渡った人々に思いを馳せてみると、その長い歴史にも興味がわいてきます。まだ国境意識がないはるか昔の海人たちの往来・・・、白村江の戦いや元寇といった戦いの歴史・・・、倭寇対策を背景とした朝鮮と対馬藩の関係・・・、日朝貿易を糧とした対馬藩の奮闘ぶり・・・などなど。ここに立つと、これら独特の対馬の歩みは、やはり地理的に国境に位置するがゆえの宿命であったのだろうかと、あらためて実感できます。 散策コース&マップ 朝鮮国訳官使殉難之碑(ちょうせんこくやっかんしじゅんなんのひ) ↓朝鮮国訳官使殉難之碑から歩いて1分 韓国展望所 ↓韓国展望所から歩いて5分 ヒトツバタゴ自生地・展望所 ↓ヒトツバタゴ自生地・展望所から歩いて15分 豊砲台跡(とよほうだいあと) スポットの紹介 朝鮮国訳官使殉難之碑(ちょうせんこくやっかんしじゅんなんのひ)  豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)によって悪化した朝鮮との関係でしたが、徳川家康から修復を命じられた対馬藩初代藩主・宗義智の懸命な努力が実り、両国の国交は回復します。朝鮮からの正式な使節団の派遣も、慶長12年(1607)に再開しました。朝鮮通信使は、朝鮮から江戸(もしくは大坂留)を往復する総勢300〜500人の大行列で、この後文化8年(1811)までの約200年のあいだに12回送られました。  この朝鮮通信使とは別に、対馬の府中(現在の厳原町)まで往復した100名ほどの使節が「朝鮮国訳官使」です。日本語通訳官を正使とする“訳官使”は対馬藩主の慶弔や外交の実務交渉のために派遣され、江戸時代における対馬への来島は50回以上を数えます。善隣外交を支えるうえで、大きな役割を果たしてきたといえます。  この場所に建つ「朝鮮国訳官使殉難之碑」は、遭難した朝鮮国訳官使を追悼するために建立されました。元禄16年(1703)、対馬に向け出港した108名の朝鮮訳官使一行が、嵐に襲われて遭難。入港の直前に天候が急変したのでした。対馬藩をあげての救難作業も虚しく、この鰐浦で対馬藩士4名を含む乗船者全員が痛ましい死を遂げたそうです。 朝鮮通信使の再現『対馬アリラン祭り』  毎年8月第1土・日曜日に、厳原(いづはら)の繁華街周辺で開催されるのが、「対馬アリラン祭り」です。この祭りの見どころは、いうまでもなく、江戸時代に朝鮮国から12回に渡って来日した朝鮮通信使の行列の再現です。当時、この行列を見物した日本人たちは、そのあまりの絢爛さに驚き、目をうばわれたといいます。現代によみがえる色鮮やかな衣装を身にまっとった一行は必見です。韓国の人々も参加し、島民と一緒になって祭りを盛り上げています。  祭りの前後には、ぜひ長崎県立対馬歴史民俗資料館(無料)に立ち寄って、「朝鮮国信使絵巻」を見てみよう。再現された行列とくらべてみると面白いですよ! 韓国展望所  朝鮮国訳官使殉難之碑のすぐそばに、韓国の古代建築様式を取り入れて建造された韓国展望所があります。  この展望所からは、天気が良く気象条件が良い日には韓国釜山市の町並みを望むことができます。クッキリとよくは見えなくても、なんだかモヤァーッっと見えたような気がしてくるから不思議です。  また、日が暮れると、釜山の夜景も見ることができます。ぜひとも自分の目で見てみたい光景ですが、1回目で見ることができなくてもがっかりしないでくださいね。  展望所の内部には、朝鮮との外交の歴史や文化がわかる史料が展示されています。 ヒトツバタゴ自生地・展望所  ヒトツバタゴはモクセイ科の落葉高木で、日本では木曽川流域や対馬北部の鰐浦(わにうら)など限られた地域にしか自生していないそうです。  鰐浦のヒトツバタゴ自生地は国の天然記念物に指定されています。このヒトツバタゴは、たくさんの別名を持っている木です。名前がわからず見なれない不思議な木であることから「ナンジャモンジャの木」。鉈(なた)が折れるように木質が非常にかたいことから「ナタオラシ」。 展望所から見下ろす港の風景  また5月には雪のように白く小さな花が咲き誇り、夜に入り江を白く照らすことから「ウミテラシ」。花が咲く5月上旬になると、鰐浦ではヒトツバタゴ祭りが開催され、対馬内外からの見物客で賑わいます。 豊砲台跡(とよほうだいあと)  国境の島・対馬は、古代より国防の最前線にあり、その歴史に戦いの跡も刻んできました。白村江(はくそんこう)の戦い、刀伊(とい)の入寇、元寇(文永・弘安の役)、応永(おうえい)の外寇、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)・・・。  江戸時代になると、日本が鎖国政策をとっているあいだに、世界の勢力図は大きく塗り替えられていました。ヨーロッパ列強国は極東の植民地化に力を入れていました。南下していたロシアと、それを封じ込めようとしたイギリスが、対馬への侵略を計画していたのです。安政6年(1859)、イギリスの「アクチオン号」が対馬の浅茅湾(あそうわん)の入口である尾崎浦に停泊し、測量を開始するという事件が起こりました。また文久元年(1861)には、ロシアの「ポサドニック号」が浅茅湾の芋崎を占拠し、島民2名が犠牲になるという事件が発生し、イギリスを巻き込む国際問題にまで発展しました。  イギリスとロシアの事件を背景に、外敵から対馬海峡を防衛するためにも対馬と壱岐を要塞化する必要性が高まりました。1887年(明治20年)より砲台工事が開始されます。当初は、対馬海峡の中央に位置し艦船の停泊地として最適だった浅茅湾を防護するために大平砲台など4箇所が完成。東京湾に次いで国内で2番目に建設されたもので、防衛最前線としての対馬に対する意識が高いことをうかがわせます。  明治31年(1898)以降は、ロシアを意識した防衛を目的として13箇所に砲台を設置。中国東北部(満州)と韓国の支配をめぐり日本とロシアが戦った日露戦争では、明治38年(1905)、日本の連合艦隊とロシアのバルチック艦隊が対馬沖で戦いました。日露戦争後は、国防の第一線が対馬から大陸へ移ったため、大陸と日本本土との交通を擁護することを目的として、この豊砲台などが建設されました。豊砲台は昭和9年(1934)3月に完成し、戦艦の主砲をこの砲台にすえつけられたとされています。しかし、実戦に使用されることはなく、「まぼろしの砲台」ともいわれています。兵舎・地下室が今も残っています。 参考文献 『旅する長崎学12 海の道2【対馬】』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 『旅する長崎学8 近代化ものがたり2』(企画/長崎県 制作/長崎文献社)
  • 第1回 古墳時代を歩く 2009年06月10日
    第1回 古墳時代を歩く
     ドライブルートのなかから、歩いて学べるエリアをクローズアップしてご紹介します。今回の散策コースのテーマは、古墳めぐり! 古墳の中にある巨石の部屋を見た昔の人たちは、 人間ワザとは思えないその様子に、“鬼の住処(すみか)”と言ったそうな。さあ、壱岐の歴史の世界をウォーキング! 散策エリアの位置をチェック 散策エリアの紹介  「壱岐風土記の丘」をスタート地点として、壱岐の島の古墳時代を体感しながら歴史散策しましょう。このコースでは、6世紀末頃から7世紀初め頃に造られたと考えられる古墳群を見ることができます。  長崎県内では、現在450基を超える古墳が確認されていますが、なんとその60%にあたる260基の古墳が、この壱岐に存在します。壱岐の面積は、長崎県土の3%にしかすぎませんから、ちょっとオドロキの数字ですよね! 「壱岐を歩けば古墳にあたる」というくらいの密集度です。現代の私たちにとってもビックリの数字ですが、江戸時代にもこの古墳の多さが注目されたようです。 平戸藩主・松浦誠信(さねのぶ)の代に編集された『壱岐国続風土記(いきのくにしょくふどき)』には、壱岐の島には338基の古墳があると記載されています。 散策コース&マップ 掛木古墳(かけぎこふん)「壱岐風土記の丘」駐車場の奥 ↓壱岐風土記の丘から徒歩10分 百合畑古墳園(ゆりはたこふんえん) ↓百合畑古墳園から徒歩5分 生池(なまいけ) ↓生池から徒歩12分 生池城跡 ↓生池から徒歩20分 笹塚古墳(ささづかこふん) ↓生池城跡から徒歩20分 双六古墳(そうろくこふん) ↓笹塚古墳から徒歩15分 鬼の窟(いわや)古墳 スポットの紹介 掛木古墳(かけぎこふん)  「壱岐風土記の丘」の駐車場奥にあります。掛木古墳は、6世紀後半に造られた円墳で、墳丘の直径は約30m。県内で唯一の「くり抜き式家形石棺」を持つ古墳として有名で、 大きな石をくり抜いて造ってあります。屋根の形をした蓋も特徴としてあげられます。 百合畑古墳園(ゆりはたこふんえん)  23基の古墳が集中しています。ここでは、6基の古墳を見ることができます。5〜6世紀にかけて築造され、このあたりにおける初期の古墳群として貴重です。 横穴式石室が特徴。 生池(なまいけ)  以前ここには約30平方メートルほどの広さの池があったといわれています。 昔は川河童(かわがっぱ)がここで人を生け捕りにしていたので、生池と呼ばれるようになったという言い伝えがあります。大きな松があり、 水神様の祭り場になっています。生池城の用水の汲み場であったとも考えられています。  ここからは、次第に車の音が遠くなります。鳥のさえずりや虫の鳴き声、風にそよぐ木々の葉の音が心地よく聞こえてきます。 道端にひっそりと咲く季節の花々や自然の香りに癒されながら、のんびり歩く・・・。ふと立ち止まって上を見上げると、木漏れ日がまぶしく空から射し込んでいました。 聞こえてくる音、見えるもの、漂う香り・・・。静けさのなかにあるすべてのものに神聖さを感じます。 こんな空間にひたっていると、壱岐が“神々の島”とよばれるのも確かにうなずけます。特別なエリアに入り込んだようなひとときです。 生池城跡  古墳時代ではありませんが、16世紀中頃に松浦党の源壱(みなもとのいち)が生池城(別名:牛ケ城 うしがじょう)に移城しました。 二重の空堀(からほり)がとりまき、築城当時の厳重な城がまえをうかがわせます。この城は戦闘施設として造られたため、城主や家族たちは、 ふつうは別の屋敷に住んでいたといわれています。  源壱は、朝鮮や中国沿岸で私貿易をおこなった倭寇(わこう)のひとり。のちに朝鮮から貿易許可書である図書(ずしょ)を受け、正式に貿易をおこないました。 笹塚古墳(ささづかこふん)  6世紀末頃から7世紀初め頃に造られた古墳で、特別な地位にあった人の墓と考えられています。直径66m、高さ約13mは県内最大級の大きさです。 ヒノキ林に覆われているので、全体を見ることはできません。  奥の玄室にある巨大な石を利用した組合式石棺からは、世界でも珍しい亀の形をした飾り金具や金銅製の馬具一式、太刀、ガラス玉など、 考古学上非常に貴重な資料が出土しました。古墳の大きさからだけでなく副葬品からも、被葬者の権力の強大さがみてとれます。 双六古墳(そうろくこふん)  6世紀中頃に造られた前方後円墳で、これが長崎県内で最も大きな古墳です。全長は91m、高さは前方部が5mで後円部が10.6mあります。 雑木は切り払われ、全体を見渡すことができます。前室右側壁には船の線刻画があります。また、副葬品として出土したものは、 鳳凰をかたどった金銅製の太刀柄頭や透かしのある鉄刀の鍔(つば)、トンボ玉や琥珀玉といった装飾品などなど、バラエティに富む高価そうなものばかり。 この古墳もやはり相当な有力者のものだと想像できます。 鬼の窟(いわや)古墳  横穴式石室を持つ古墳のことを、壱岐では“鬼の窟”とよんでいます。鬼でもなければこんな大きく重たい石は運べないだろうということでしょう。 石室は壱岐最大(全国で12位)だそうで、全長16.5m、最大の天井石は4mもあります。当時の壱岐の豪族・壱岐直(あたい)の墳墓ではないかといわれています。  江戸時代の『壱岐名勝図誌』に「島外からの見物客が多い」という記録が残っており、昔から有名な古墳だったことがわかります。 参考文献 ・『旅する長崎学11 海の道Ⅰ【壱岐】』(企画/長崎県 制作/長崎文献社) 参考資料 ・「まるごと壱岐事典」(壱岐市産業経済部観光商工課)