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ながさき歴史散歩

  • 第27回 近代化のカギは「言語」習得 2008年07月16日
    第27回 近代化のカギは「言語」習得
    〜語学教育の源流を探して〜  「Excuseme…」と突然声をかけられたら、どうしますか? 聞こえないふりをしてその場を立ち去るか、愛想笑いを浮かべて尻込みしながら逃げていくという人も結構多いのでは…。  鎖国時代、海外との窓口だった長崎には、外国語に動じず、対応できる言語の達人たちがいました。ちょんまげに外国語。相容れない風景ですが、幕末の日本、特に長崎ではよく見られる光景だったと思われます。あるときは自然科学を探求する「科学者」、あるときは医学の知識を授ける「医学部教授」、そしてあるときは諸外国との交渉に携わる「外交官」。長崎では外国語を巧みに操るオランダ通詞や唐通事といった通訳たちが活躍していました。  外国から伝わってくる先進的な文化や文明の受け入れは、言葉を理解できなければ不可能です。一部の人たちの知識や情報を誰でも手軽に入手できるよう、外国語の「辞書」が生まれました。主に辞書の編纂にかかわったのもこの通訳たちでした。  今回は、外国語教育や辞書の歴史を探りながら、長崎の街を歩いてみましょう! 歴史のとびら  蘭学や洋学が注目された江戸後期は、語学辞書の編纂の時代でした。江戸では1796年(寛政8)、約6万語を収録した日本で最初のオランダ語辞書「波留麻和解(江戸ハルマ)」が稲村三伯によって製作されました。  1803年(享和3)に出島のオランダ商館長に就任したヘンドリック・ドゥーフは、日本人たちとうまく意思の疎通が図れないストレスを抱えていました。6年後、思い立ったのが日蘭辞書の編纂です。優秀なオランダ通詞11人を選んでスタートしました。これが「ドゥーフ・ハルマ」といわれ、日蘭合同の辞書編纂プロジェクトの始まりです。実はこの作業、オランダ語を直接日本語に訳したわけではありませんでした。オランダ人フランソア・ハルマが編纂した「蘭仏辞典」を訳したもので、約5万語を収録し、さらに2万の例文までも掲載。約24年の歳月を経て、豊富な例文が特徴の日蘭辞書が出来上がったのです。 この辞書は「波留麻和解」を「江戸ハルマ」と呼ぶのに対して、「長崎ハルマ」と言われました。  オランダ語だけではなく、ほかの外国語を習得しなければいけない出来事がありました。対外危機です。江戸時代、幕府はオランダと中国だけの貿易を長崎の地だけに許し、オランダ通詞や唐通事がその通訳を務めていました。幕末、日本に開国を求めて外国船がつぎつぎと押し寄せ、通商(貿易)を迫ってくるようになると、諸外国の言葉の理解が急務でした。言葉の壁は日本の姿勢を決める大きな障害になったのです。長崎港に来航する船はロシア船、イギリス船とさまざまでした。  1808年(文化5)のフェートン号事件をきっかけに、英語習得の必要性が高まり、さらに1853年(嘉永6)にロシアのプチャーチンの来航ではロシア語が必要とされました。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約3時間 img/sub/map_point2.gif' alt='2' />2長崎歴史文化博物館 ↓徒歩15分 img/sub/map_point4.gif' alt='4' />4致遠館跡 ↓徒歩15分
  • 第26回 オランダ商館医 シーボルト 2008年06月11日
    第26回 オランダ商館医 シーボルト
    〜長崎に名医あらわる!〜 歴史のとびら  シーボルトが日本へやってきたのは1823年(文政6)、 28歳のとき。オランダ商館の医師兼自然調査官という2つの使命を受けて長崎の出島に到着しました。出島のなかでオランダ通詞や日本人医師に対し、医学や植物学の指導をした彼の講義はとても評判になりました。当時の日本は禁教政策をとっており、オランダ人が出島から外出することは禁じられていましたが、シーボルトは長崎奉行所から特別な許可を得て、長崎の蘭方医が開く私塾で講義や診察をおこなっていました。こうして、彼の活動は出島だけにとどまらず、長崎のまちに出て、日本人の患者の治療、天然痘のワクチン接種、白内障の手術などをおこない、シーボルトの名声は日本じゅうに知れ渡るところとなりました。  さらにシーボルトは、長崎奉行の許可を得て、通詞たちの斡旋で長崎のまちから少し離れた鳴滝に屋敷を構え、「鳴滝塾」を開きました。西洋の最新医学を学ぶことができる研究所、さらには最新医療の施術ができる診療所として、全国から医学を志す多くの若者たちが鳴滝塾の門をたたいたのです。また、ここは、シーボルトが塾生たちの協力を得ながら、日本を調査研究する拠点ともなりました。  今回は、シーボルトの足跡をたどる歴史散歩です。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約3時間 img/sub/map_point2.gif' alt='2' />2シーボルト宅跡  ↓徒歩で約30秒
  • 第25回 蘭学者 吉雄耕牛 2008年05月21日
    第25回 蘭学者 吉雄耕牛
    〜日本の学問をリードした蘭学〜 歴史のとびら  鎖国時代、唯一西洋との交易が許された長崎は、世界の情報を知ることができる「知の都」でした。日本では、出島をとおしてもたらされた西洋の最新科学や文化を研究する学問「蘭学」が生まれました。長崎で学ぶために、全国から多くの若者が訪れ、蘭学者として名高いオランダ通詞(通訳)が開く私塾の門をたたきました。遊学者のなかから優秀な人材が輩出され、日本近代化の礎となりました。 長崎遊学のススメ  「蘭学」とは、オランダ語の書物から西洋の学問を研究することです。鎖国時代、西洋との交易が許された長崎出島のオランダ商館をとおしてオランダ語の書物が日本にもたらされました。オランダ語を習得した通訳は、出島で貿易などの業務に重要な役割を果たし、長崎奉行所の組織のひとつに「通詞」という役職で組み込まれ、世襲制で代々受け継がれました。長崎では、オランダ語の通詞を生業とする吉雄家・楢林家・本木家などが活躍していました。  1720年(享保5)、幕府が西洋の書物の輸入を解禁すると、最先端の知識を吸収するためにオランダ人から洋書を輸入しはじめました。しかし、いくら洋書を購入しても、オランダ語がわからなければ内容を理解することができません。こうして全国から蘭学を学ぼうと多くの人々が長崎をめざしました。遊学者たちは、通詞として名高い蘭学者の私塾に通いながらオランダ語を学び、医学・天文学・本草学・地理学などのあらゆる西洋の学問を習得して、故郷の藩の発展のため、そして日本近代化のために尽くしたのです。  今回は、オランダ大通詞として活躍し、吉雄流紅毛外科を創設した蘭学者 吉雄耕牛をご紹介します。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約3時間 img/sub/map_point2.gif' alt='2' />2吉雄耕牛宅跡の碑 ↓徒歩で約10分
  • 第24回 伊王島 ぐるり!しま一周 2008年03月19日
    第24回 伊王島 ぐるり!しま一周
    〜キリシタン文化と近代化〜 歴史のとびら  長崎港の沖合に、並んで浮かぶ伊王島と沖之島。2つのしまは橋で繋がり、美しい海に囲まれたロケーションからリゾートアイランドとして人気のスポットとなっていますが、キリシタン文化や近代化遺産の歴史散歩も楽しめます。青い空と海に映える教会の風景、外国船を長崎港へと導いた灯台など、今回は伊王島を歴史散歩します。 キリシタン文化  伊王島におけるキリシタンの歴史は、徳川幕府の禁教政策(1614)によって、先祖からの伝承と信仰を守りながら厳しいキリシタン弾圧という時代を生き抜いたキリシタンたちが、天草などの各地から海を渡ってこの島にたどりついたのがはじまりといわれています。禁教時代には、役人の取り締まりの危険が迫ると一時的に船で避難しながら事態がおさまるまで耐えていたといわれています。  幕末、ペリーの浦賀来航をきっかけに日本は世界5ヵ国と修好通商条約を締結(1858)しました。翌年には横浜・長崎・新潟・函館・神戸を開国。長崎では外国人専用の居留地が整備され、住宅、学校などの洋館と教会堂が建ち並びはじめました。245年もの時を経て、日本の地に再びキリスト教の宣教師が訪れるようになり、大浦天主堂で浦上村の信者が信徒であることを告白しました(信徒発見・1865年)。その後も浦上四番崩れなどの弾圧がおこなわれますが、1873年にようやくキリシタン禁制の高札が撤廃され、キリスト教は黙認されることになりました。各地に潜んでいた信徒たちは貧しいながらも喜びのうちに、信仰の証として自らの手で教会堂を建てていきます。伊王島にも大明寺教会、そして沖之島には馬込天主堂が完成しました。 近代化  1866年(慶応2)、アメリカ・イギリス・オランダ・フランスの4カ国と結ばれた改税条約(江戸条約)により、日本各地に設置された8つの灯台のうちのひとつが伊王島灯台です。伊王島灯台が完成したのは江戸から明治へと変わった年の1868年(慶応4)のことです。明治新政府からの要請を受けて日本へやってきたイギリス人の灯台技師リチャード・ヘンリー・ブラントンが設計監督し、三菱長崎造船所の前身となる長崎製鉄所が工事に携わった日本初の鉄造六角形の洋式灯台です。隣には伊王島灯台を管理する吏員のために1877(明治10)に建てられた退職所があり、日本初の無筋コンクリート造りの洋館として県の有形文化財に指定されています。伊王島は昭和のはじめに炭鉱のまちとして栄えたしまでもあります。  今回は、馬込教会、大明寺教会、伊王島灯台と記念館をめぐる伊王島の歴史散歩です。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約1日 img/sub/map_point2.gif' alt='2' />2大明寺教会 ↓徒歩で約25分 or車で約3分 + 徒歩で約3分 img/sub/map_point4.gif' alt='4' />4長崎市伊王島灯台記念館 1馬込教会(沖之島教会) キリシタン念願の祈りの天主堂  長崎港ターミナルから高速船に乗って出発です!  約20分の快適な船旅で到着した伊王島は、リゾートアイランドとして人気のスポットです。  長崎港の沖合に浮かぶ伊王島は、むかしもいまも長崎港を目指す船の目印。行き交う船の姿を眺めながら、南蛮船やオランダ船、唐船などが行き来した時代に思いを馳せました。  さあ、桟橋から歩いて馬込教会へと向かいます。教会下行きのコミュニティバスもありますので、タイミングがよければご利用ください。  馬込教会は、海に向かって建ち、丘の上にそびえるゴシック様式の教会堂です。  信徒の坂田シズヱさんにお会いして、お話を伺いました。  「教会堂を建設した頃の様子を、私の母からよく聞かされました。1家族から1人が工事の手伝いに行かされたそうです。教会堂の円柱は、海岸の砂を運んでつくったコンクリートの柱です。砂の粒子が粗くて、水をかけながらたわしで表面がツルツルになるまで磨いたのだそうです。ちょうど、入口の柱は磨く前の円柱です。砂粒が粗くでこぼこしていますでしょ。そして、内部の円柱は磨いた後です。みんなで力をあわせて教会堂を完成させたんです。」  「それから、祭壇の上のステンドグラスとエントランスの上にあるバラ窓の3つをご覧ください。馬込教会堂は昭和20年に長崎市松山町上空で炸裂した原子爆弾の影響を受けました。海を越えて伊王島にまで迫った爆風で、ほとんどの窓が破壊されてしまいました。これらのステンドグラスは奇跡的に残った貴重な窓なのですよ。」  坂田さん、貴重なお話をありがとうございました。  次は大明寺教会に向かいましょう。 2大明寺教会 モダンな教会の背景にキリシタン文化の歴史あり  <大明寺教会下>バス停から階段を登っていきます。大明寺の集落のほぼ中心に位置する坂の途中に、十字架の塔があるモダンな教会堂がみえてきました。  実は、伊王島で初めて建てられた木造の旧大明寺教会があったのですが、現在、「博物館 明治村(愛知県犬山市)」に移築され、大切に保存されています。外観はどこにでもありそうな普通の日本家屋ですが、一歩なかに入るとその印象は一変します。白い漆喰と木造リヴ・ヴォールトの均整がとれた美しいプロポーションは、凛とした祈りの空間をつくりだし、見る人の心をひきつけます。教会建築の初期の作品として国の登録文化財になっています。 ☆博物館明治村に移築された大明寺聖パウロ教会堂  今度は、伊王島の近代化遺産をみていきましょう。 3伊王島灯台 岬から長崎航路を行き交う船の安全を守る  大明寺教会から国道118号線を歩いて行きました。だんだんと傾斜がきつくなる坂をのぼり、灯台公園までの道のりを進みます。途中、伊王島海水浴場のコスタ・デル・ソルの浜辺が見えます。きれいに湾曲した砂浜と透き通る海の青さのコントラストがとても美しく、思わず写真におさめました。  夏は海水浴客で賑わうビーチです。もちろん、夏の伊王島もオススメですよ。  木の杭に書かれた<灯台入口>のバス停を目印に、さらに奥へと道を歩きました。  やっと見えてきました! 白く輝く灯台と広がる海。  この伊王島灯台は、慶応2年に幕府がアメリカなどの4ヶ国と結んだ改税条約(江戸条約)によって全国に設置された8つの灯台のうちのひとつです。日本の灯台の父と呼ばれるイギリスの技師リチャード・ヘンリー・ブラントンが設計監修し、三菱長崎造船所の前身となる長崎製鉄所が工事に携わって完成させた日本初の鉄造六角形の洋式灯台です。  原子爆弾の爆風を受け改築されましたが、ドームの部分は当時のままの姿を残しています。 4長崎市伊王島灯台記念館(旧伊王島灯台旧吏員退息所) 日本ではじめて造られたコンクリートの洋館  記念館となっている建物は、明治10年、灯台を管理する吏員のためにつくられた退息所(官舎)です。コンクリート一部木造の洋館建てで、日本初の無筋コンクリート造りとして、県の有形文化財に指定されています。  記念館には、灯台に使われたレンズや灯台の模型などが展示されていて、灯台の歴史を知ることができますから、ぜひ見学しましょう。  こちらの建物は便所棟となっていますが、水廻りをまとめた棟です。五右衛門風呂のある風呂場、そして灯台長専用とスタッフ用にわかれたトイレがありました。灯台長専用のトイレは個室で、便器はなんと陶器!! オドロキました!   右の写真はテラスからの眺めです。晴れた日は五島列島が見えるとか。この日は五島は見えなかったものの、小春日和の心地よい風が吹いていました。  「旅する長崎学」を片手に歩く<ながさき歴史散歩>、"キリシタン文化"シリーズは今回で終了です。  次回からは、日本近代化のさきがけとなった長崎県の姿を描く"近代化ものがたり"をテーマに、オススメの散策コースをご紹介してきます。お楽しみに! 参考文献 「旅する長崎学5 キリシタン文化5」特集3-第1章 外国人宣教師が教会建築の先生企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 「長崎游学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド」監修/カトリック長崎大司教区 編/長崎文献社 2005年 「カトリック馬込教会 パンフレット」 制作/馬込教会 スタート地点までのアクセス 馬込教会(沖之島教会) 所在 長崎県長崎市伊王島2-617 お問い合わせ 095-898-2054 休み 平日の月~金曜 ミサ 要問合せ 駐車場 なし アクセス 船… 長崎港ターミナルより長崎汽船の高速船[コバルトクイーン]に乗船し(所要時間は約20分)、伊王島港ターミナルで下船。国道118号線を左に曲がり栄橋を渡り徒歩で約13分。 車… 伊王島港ターミナルより約2分。 バス… <伊王島港ターミナル前>より長崎市コミュニティバス伊王島線[沖之島教会]行きに乗り(所要時間は約5分)、<沖之島教会下>で下車し徒歩で約3分。
  • 第23回 大村のキリシタン殉教の地を巡る 2008年03月05日
    第23回 大村のキリシタン殉教の地を巡る
    〜大村殉教の歴史をたどって〜 歴史のとびら  16世紀の大村は、日本で初めてキリシタン大名となった大村純忠(おおむらすみただ)が治めていました。純忠は1563年、横瀬浦(現在の長崎県西海市)でキリスト教の洗礼を受け、重臣たちもともにキリシタンとなりました。領主の改宗によって、領民たちもキリスト教を信仰するようになり、1582年頃にはその数6万人ともいわれ、西洋のキリシタン文化を積極的に受け入れていきます。  しかし、1587年に純忠が亡くなると、跡を継いだ息子の喜前(よしあき)はキリスト教を棄て日蓮宗に改宗。さらに徳川幕府の禁教令が発布(1614年)されて、仏教徒になる領民も多くいましたが、厳しいキリシタン弾圧のなかにあっても、信仰を支えにキリスト教を守り続けるキリシタンたちがいました。 大村で初めて殉教者をだした事件  禁教令の発布(1614年)から3年後の1617年(元和3)、大村領内で初めて殉教者が出ました。捕らえられたのは、禁教下にもかかわらず布教活動をおこなっていたイエズス会とフランシスコ会の外国人宣教師2人で、大村湾を見下ろす丘にある帯取(おびとり)で処刑されました。この殉教事件以降、大規模なキリシタン弾圧事件が次々と勃発しました。 鈴田牢から西坂の丘へ「元和の大殉教」  1617年(元和3)から1622年の約5年のあいだにキリシタンが次々と捕らえられ、外国人宣教師を含め日本の信者たち56人が長崎西坂の丘で処刑された「元和の大殉教」。大村の鈴田牢と長崎の桜町牢(通称:クルス牢)に捕らえられていたキリシタンたちで、25人は火あぶり、31人は斬首だったそうです。そのうち1名は、火刑の柱から離れたということで殉教とみなされず、55人が殉教者とされています。イタリア人のカルロス・スピノラ、女性やわずか4歳の幼子も犠牲となりました。 大規模なキリシタンの弾圧「郡崩れ」  1657年、大村領内で「郡崩れ(こおりくずれ)」という事件が起こりました。これは、長崎奉行の黒川与兵衛が、その20年前に起こった「島原の乱」のようなキリシタンを中心とした一揆が再び起こることを恐れ、大村藩に命じて領内のキリシタンを摘発し処刑した事件のことです。大村の郡村(こおりむら・現在の大村市)を中心にキリシタン608人が捕らえられ、棄教を誓った99人は釈放されましたが、厳しい取り調べ中に78人が死亡、20人が永牢(終身刑)、411人が斬首という厳しい処罰が下されました(人数については諸説あります)。  翌年には、斬首を言い渡された411名のうち131人が大村の放虎原(ほうこばる)斬罪所で処刑されました。見せしめとして旧長崎街道沿いの獄門所で、処刑されたキリシタン131人の首が約1ヶ月間さらされたといいます。その後、遺体が再びよみがえらないようにと、首と胴体を別々に、南北に約500メートル離れた位置に首塚・胴塚をつくって埋葬しました。  キリシタン弾圧が強化された大村では、遺品や墓石などが次々に破壊され、華やかだった時代のキリシタン文化は、あとかたもなく消えていきました。今回は、大村のキリシタン殉教地をめぐります。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約4時間 1鈴田牢の跡 ↓ 車で約15分 2妻子別れの石 ↓ 徒歩で約10分 3放虎原殉教地 ↓ 徒歩で約10分 4獄門所の跡 ↓ 徒歩で約10分 5胴塚の跡 ↓ 徒歩で約10分 6首塚の跡 ↓ 車で約10分 7今富のキリシタン墓碑 ↓ 徒歩で約7分 or車で約3分 8帯取殉教地 1鈴田牢の跡 キリシタンが捕らえられた牢屋  ドライブしながら県道37号線(大村貝津線)沿いの釜川内付近にさしかかると、小高い丘の上に白い十字架が見えてきました。丘の裏手へとまわって階段を登りましょう。  記念碑としてたつ白い十字架のむこうには大村の町の景色が広がっていました。  宣教師の記録によると、牢の大きさは約6畳ほど(奥行5.3メートル×間口3.5メートル)で、木枠に囲まれた鳥かごのようだったといいます。牢屋には二重の柵がめぐらされ、目の前に設けられた管理棟から監視されていたそうです。多いときには30人以上が牢屋に入れられ、横になることもできず、身動きすらできない状態で、入牢中に亡くなった人もいます。  この牢に捕らわれたキリシタンたちは、長崎の西坂の丘と大村の放虎原(ほうこばる)にわかれて処刑されました。外国人宣教師のフランコ神父たち8名は、大村の放虎原で処刑。また、1622年には、大村の鈴田牢と長崎の桜町牢(クルス牢)に捕らえられていたキリシタン56人が、西坂の丘(長崎市)で処刑されました。56人のうち、宣教師らを中心に25人は火あぶり、宣教師をかくまい宿主となったキリシタンら31人は斬首され、「元和(げんな)の大殉教」とよばれています。このなかにはイタリア人宣教師 カルロス・スピノラもいました。彼は大村の鈴田牢で3年9ヶ月を過ごし、厳しい牢獄生活のなかで当時の様子を記録して、ローマに手紙を送っていました。また、処刑されたなかには、わずか4歳のイグナシオ(洗礼名)と母イザベラのように幼子や女性もいて、犠牲となりました。 長崎の西坂の丘で、この「元和の大殉教」事件が起こったのは、日本二十六聖人の殉教事件(1597年)から25年後の1622年のことで、海外にもつたえられました。 2妻子別れの石 家族との別れを惜しんで流した涙  徳川幕府が発布した禁教令(1614)によって、1657年(永禄10)、大村藩がキリシタン603人を検挙した未曾有の事件「郡崩れ(こおりくずれ)」が起こりました。ここは、処刑される間際に、妻や子どもなど家族との別れを惜しんだという場所です。悲しみの涙を流しながら北へ約80メートル先にある放虎原(ほうこばる)の処刑場まで連行されました。  石碑の周りには丸く大きな石が残っています。とめどなく溢れる別れの涙で濡れた石として「涙石」と呼ばれ、不思議なことに苔が生えないといわれています。  すぐそばに、マリナ伊奈姫のお墓がありました。日本初のキリシタン大名 大村純忠の娘で、熱心なキリシタンでした。厳しいキリシタン弾圧の世に、宣教師たちをかくまうなど献身的に信仰に生きたお姫さまでした。  では、「郡崩れ」でキリシタン131名が処刑された放虎原斬罪所へ行ってみましょう。 3放虎原殉教地 「郡崩れ」でキリシタン131名が処刑された斬罪所の跡  「妻子別れの石」から、国道34号線の大通りを渡り、"ナフコ"の角を曲がって約5分ほど行くと、大きなレリーフが見えてきました。  徳川幕府の禁教令によって、キリシタンの取り締まりが強化され、弾圧が厳しさを増していくなかで、大村のキリシタンは潜伏しながら密かに信仰を守っていました。 放虎原の斬罪所では多くのキリシタンが処刑されました。1624年には、慶長遣欧使節をローマで案内したフランシスコ会のルイス・ソテロ神父ら5人が火刑に処せられました。 また、1658年には131人のキリシタンの命が奪われます。1657年、長崎奉行所は、キリシタンの捜索を大村藩に命じました。郡村(こおりむら)を中心にキリシタン608人もの逮捕者を出し、うち、大村では131人が斬首という厳しい処分が下されました。彼らは、翌年、この石碑の周辺にあった斬罪所で処刑されました。そして、長崎街道沿いにあった獄門所で1ヶ月間ほどさらし首となり、遺体は首と胴を別々に、約500メートル離れた場所に埋葬されました。これは、キリシタンが再びよみがえることを恐れたためといわれ、それぞれ首塚跡、胴塚跡となっていますので、あとで立ち寄ることにします。  再び、国道34号線を渡り、長崎街道を通って獄門所の跡へ行ってみましょう。 4獄門所の跡 「郡崩れ」 長崎街道で見せしめにされたキリシタン  むかし、大名行列など行き交う人々で賑わいをみせていた長崎街道沿いに、聖母マリアと子どもの像がありました。  ここは、1657年に起こった「郡崩れ」により、放虎原(ほうこばる)斬罪所で処刑されたキリシタン131人の首を塩漬けにして、見せしめのために20日ほどの間、さらし首にした場所といわれています。  キリシタン131人の遺体は、再びよみがえらないようにと、キリシタン封じのまじないをかけるようにして、首塚・胴塚と別々の場所へ葬られました。 5胴塚の跡 「郡崩れ」で処刑されたキリシタンの復活を恐れて埋葬(1)  「郡崩れ」で処刑されたキリシタン131名は、獄門所でさらし首にされた後、首と胴を別々の場所に葬られました。再びよみがえることのないよう、キリシタン復活を封じるため、首を北へ、胴体を南へと隔てて葬り、塚をたてて魂を鎮めたのです。  現在、胴塚の跡には、天空に向かって祈る姿の像がたっています。  次は、北へ約500メートル先にある首塚へと行ってみましょう。再び、国道34号線に戻ってまっすぐ進みます。 6首塚の跡 「郡崩れ」で処刑されたキリシタンの復活を恐れて埋葬(2)  国道34号線沿いの"かとりストア"の角を曲がると、塀で囲まれた首塚の跡がありました。白い十字架の門を開けて中に入ると、手をあわせた像の傍らに、ちょうど椿が咲いていました。 7今富のキリシタン墓碑 十字架が刻まれたお墓  帯取殉教地から歩いて約15分のところに今富キリシタン墓碑があります。江戸時代、厳しいキリシタン弾圧で大村領内のキリシタンに関する遺品や墓石は徹底的に破壊されましたが、この今富の墓碑は難をのがれて残ったお墓のひとつです。  墓碑は竹薮のなかに隠れるようにありました。正面からは四角いお墓で正面に戒名が刻まれていますので、一見キリシタン墓碑とはわかりません。では、上部か背面から見てみましょう。キリシタン墓碑の特徴ともいわれるカマボコ型(半円柱)で、上面には十字架が刻まれているのがわかります。これは禁教時代に墓碑を起こして立て、カムフラージュしたものと思われます。  さて、このお墓はいったい誰のお墓なのでしょうか? 最近まで、碑銘から1576年に没した大村純忠の家臣で一瀬栄正のお墓ではないかと思われていました。しかし、2007年7月に大村史談会の調査で、墓碑の上部に刻まれた「慶長19年」という年号と「庵■」(■は読み取れない文字)という名前らしき文字が刻まれていることが確認されたことから、一瀬栄正とは別人ではないかという説も浮上しているそうです。今後の調査に期待しましょう。 8帯取殉教地 大村で初めて殉教者をだした事件  帯取殉教地の石碑がたつ場所は、大村湾に沈む夕日が輝く美しい眺望に恵まれた丘にありました。  徳川幕府の禁教令発布(1614年)発布後、大村には宣教師38人が潜伏していたといいます。殉教事件が起こったのは1617年(元和3)の春のこと。大村藩は外国人宣教師2人を摘発して郡村(こおりむら)の牢へと連行しました。捕らえられたのはフランシスコ会のペトロ神父とイエズス会のマシャード神父。2人は同年5月22日にこの帯取の地で処刑され、大村で初めて殉教者がでました。  現在、毎年5月には帯取殉教祭がおこなわれています。字架が刻まれているのがわかります。これは禁教時代に墓碑を起こして立て、カムフラージュしたものと思われます。 大村の殉教地をめぐった今回の旅では、日本初のキリシタン大名 大村純忠の存在によって、いち早くキリシタン文化を受け入れながらも、幕府のキリスト教の禁教政策を背景に、棄教、潜伏、殉教の道を選ばざるを得なかった時代の悲しさを感じました。数多くの殉教事件で消え去っていったキリシタン文化の歴史をしのびつつ、大村の地に生きた人々の足跡をたどる歴史散策となりました。  4月の大村は、桜の名所として有名な大村公園に多くの人びとが訪れ、名物の大村ずしやゆでピーナッツなどで楽しませてくれますよ。  大村の歴史散策として、<ながさき歴史散歩>第9回 「キリシタン時代の面影をたどる大村の旅 〜日本初のキリシタン大名大村純忠〜」もあわせてお楽しみください! 参考文献 「旅する長崎学1 キリシタン文化1」 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 特集3-第1章 純忠、横瀬浦で受洗 日本初のキリシタン大名誕生 「旅する長崎学3 キリシタン文化3」 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 特集2-第3章 元和の大殉教 再び血に染まった祈りの丘 「旅する長崎学4 キリシタン文化4」 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 特集4-第1章 大村キリシタンの弾圧「郡崩れ」 「旅する長崎学6 キリシタン文化6」 第5章 領主棄教とキリシタン取り締まり 大村 (ガイド編)キリシタン時代の城下町と弾圧の歴史を巡る 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2007年 スタート地点までのアクセス 鈴田牢の跡 所在 長崎県大村市釜川内 県道37号線(大村貝津線)沿いで釜川内公民館の向かい 開館時間 常時開館可 料金 なし アクセス 車… JR大村駅より約10分。 バス… <大村バスターミナル>より県営バス[諫早駅前(医療センター・今村ニュータウン)]行きに乗り(所要時間は約14分)、<田久保>で下車し徒歩で約3分。[諫早駅前]に乗車し(所要時間は約12分)、<与崎>で下車し徒歩で約10分。 福岡から行く! 電車… JR博多駅より[かもめ]に乗車し<大村駅>で下車(所要時間は約1時間55分)。車で約10分、または、バスで約14分と徒歩で約3分。 高速バス… 博多駅交通センターより九州急行バス〔九州号〕に乗り≪大村IC≫で下車、県営バスに乗り換え≪JR大村駅≫で下車。車で約10分、または、バスで約14分と徒歩で約3分。 車… 福岡市内より九州自動車道を利用し、長崎自動車道<大村IC>で降りて(約1時間20分)、さらに国道444号線から国道34号線に左折、与崎橋の三叉路を左折しコンビニの角を右折して県道37号線(大村貝津線)を走って約1分。釜川内公民館の向かい。 佐世保から行く! 車… JR佐世保駅より約1時間25分。 電車… JR佐世保駅より[快速シーサイドライナー]に乗車し<大村駅>で下車(所要時間は約60分)。車で約10分、または、バスで約14分と徒歩で約3分。 長崎から行く! 電車… <JR長崎駅>より[快速シーサイドライナー]に乗車し<大村駅>で下車(所要時間は約55分)。車で約10分、または、バスで約14分と徒歩で約3分。 車… 長崎市内より出島道路経由の長崎自動車道を利用した場合「大村IC」で下り(所要時間は約25分)、さらに国道444号線から国道34号線に左折、与崎橋の三叉路を左折しコンビニの角を右折して県道37号線(大村海津線)を走って約1分。釜川内公民館の向かい。 長崎市内より国道34号線を諫早方面へ向かい、貝津町交差点を左折し県道37号線(大村貝津線)を北上、釜川内公民館の向かい。所要時間は約60分。 ●JR大村駅・大村ターミナル・長崎バスターミナル・佐世保バスターミナルまでは「ながさき旅ねっと アクセス」をご覧ください。
  • 第22回 平和を祈る長崎 2008年02月20日
    第22回 平和を祈る長崎
    〜永遠につなぐメッセージ〜 歴史のとびら  1945年(昭和20)8月9日午前11時2分、長崎市松山の上空約500メートルで爆発した原子爆弾は、プルトニウムによる核分裂エネルギーを放出しながら中性子が飛び出し元素の分裂が増幅するという巨大なパワーで、大量の放射線を撒き散らし熱線と爆風で都市を破壊。犠牲者は死者7万3,884人、負傷者7万4,909人(1950年長崎市原爆資料保存委員会調査)にのぼりました。一瞬にして廃墟となった焼け野原では、懸命に医療活動をしながら原爆病に関する報告書をまとめた永井隆博士たち医師の姿や、廃墟から復興しようとチカラを合わせる人々の姿がありました。みんなが願ったのは永久の平和でした。その想像を遥かに超える惨状を撮り続けたカメラマンや医師たちの膨大な記録から、現在の私たちは学ぶことができます。  今回は、松山町や浦上に残る原爆の遺構や資料館をめぐります。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約1時間 img/sub/map_point2.gif' alt='2' />2長崎原爆資料館 ↓ 徒歩で約18分 img/sub/map_point4.gif' alt='4' />4浦上教会 ↓ 徒歩で約10分 img/sub/map_point6.gif' alt='6' />6平和公園 1原爆落下中心地公園 グランド・ゼロ  1945年8月9日、アメリカ軍のB29ボックスカーは、原子爆弾を投下する第1目標とした小倉上空まで来たものの、焼夷弾による煙が障害となって投下を中止。第2目標の長崎上空へと旋回しました。  午前11時2分。長崎市松山町の上空約500メートルで原子爆弾が爆発しました。  長崎に投下された原子爆弾は、まちを破壊しました。爆風で一瞬のうちに廃墟となり、犠牲者の数は死者7万3,884人、負傷者7万4,909人(1950年長崎市原爆資料保存委員会調査)にのぼりました。  現在、原爆が落下された中心地は公園となっています。中心地の標柱がその位置を示し、横には原爆で破壊された浦上教会堂の赤レンガの一部が移設されています。  看板を目印に、下の川が流れる川面の方へと階段をおりると被災当時の地層を観察することができます。左の写真をクリックしてみてください。写真の地層をよくみてみると、原爆が投下された時の地層だけが熱線で黒く焦げています。そして、散乱している陶器の破片やガラス瓶、瓦などから積み重なっている様子から、一瞬に瓦礫となってしまったことがうかがえます。  松山町だけでも約300世帯が住んでいたそうです。原爆で人々が暮らしていた家、学校、そして家族までも奪ってしまったのです。 2長崎原爆資料館 原爆投下の惨状を知って、戦争の歴史を学ぶ  入口にあるスパイラル状のスロープは、まるでタイムスリップするかのように資料館へと誘導してくれます。ガラスドームから見える青空を見上げながら、原爆が投下された8月9日の雲ひとつない真夏の暑い日だったそうです。ミンミンと鳴く蝉たちも一瞬に音を無くした、そんな様子を頭にめぐらせながら資料館の入口へとスロープを降りていきました。  原爆が爆発した11時2分をさす柱時計、折れ曲がった中学校の給水タンク、浦上天主堂で信徒が持っていたロザリオ、溶けたビンなど、館内に展示されている原爆の遺構が当時の惨状を語っています。  この資料館では、核開発の歴史と人類が犠牲となった原子爆弾の投下までの歴史を学ぶことができます。  訪れた時に「アンネのバラ」が綺麗に咲いていました。このバラは、平成18年に”ふりそでの少女像を作る会”がこのバラの接木を寄贈したそうです。「アンネのバラ」とは、ベルギーに住む園芸家が開発した新種で、ナチスに捕らわれ強制収容所で命を落としたアンネの父に贈ったことから、平和の象徴として名付けられたそうです。接木したアンネのバラが資料館の花壇で毎年みごとな花を咲かせています。  実は花が咲いているのを初めて見たんです。この花壇の前を通る時、いつもつぼみだったので「どんな色の花が咲くんだろう?」と気になっていたのですが、オレンジとピンクが混じりあったステキなバラでした。展望台の花壇に咲いてましたよ。 3国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和を祈って、原爆犠牲者を追悼する空間  水盤の真下には、光が差し込む吹き抜けの追悼空間があります。ここには長崎に落とされた原子爆弾によって犠牲となった方々の名簿と遺影が永久に保存されています。訪れた人びとの誰もが平和の祈りをささげることができる空間です。  館内では、被爆者や関係者の人たちの体験をつづった手記や資料を閲覧することができます。  オススメしたいのが平和情報コーナーです。この一室に置かれたモニターでは、原爆被災地の長崎を体験した方々のインタビューをもとに関係資料をまじえながら詳しく学べるデータがまとめられています。原爆投下直後の長崎のまちを記録として残すために東京から派遣されたカメラマン、映画監督、画家、捕虜として長崎で働かされた時に被爆したイギリス人などの体験を学ぶことができます。さらに被爆医療の貴重な資料なども閲覧することができます。  白いカードやパソコンに平和の想いを言葉にして残しませんか? このメッセージはホームページで世界に発信されています。あなたの書いたメッセージが来館した人たちの目にとまって言葉でつながっていくかもしれませんね。 4浦上教会 長崎大司教区のカテドラル  浦上は、戦国時代からキリシタンの里でした。長く厳しい弾圧下でひそかに信仰を守りとおした人々は、居留地に建設された大浦天主堂で、1865年にプチジャン神父との出会いを果たします(信徒発見)。彼らは秘密教会をつくり信仰を続けますが、当時はまだ禁教下。浦上のキリシタンたちは捕らえられ、西日本を中心に全国へ総流罪となってしまいます(浦上四番崩れ)。1873年、キリシタン禁制の高札が撤去されて釈放となり、浦上に戻った人々の悲願は、教会堂を建てることでした。禁教時代に絵踏みや弾圧がおこなわれた庄屋の跡を買い、そこに仮聖堂を建てました。1895年になって本格的に教会堂建設がスタートし、着工から約30年の歳月を経て、当時東洋一と賞賛された美しい浦上教会を完成させます。  しかし、それからわずか20年度、第2次世界大戦の戦況が激化したある夏の日、浦上教会は、アメリカが長崎に投下した原子爆弾によって破壊されてしまうことになるのです。教会堂の周囲を散策すると、破壊した教会堂の壁や被爆したマリア像などの一部が原爆の遺構として保存されています。  原爆の爆風で、双塔の鐘楼が教会の横を流れる小川まで飛ばされました。爆心地から教会までの距離は約500メートル。地面に突き刺さるように残るその姿が爆風の威力を物語っています。この双塔は、教会建築の父と呼ばれる鉄川与助が造ったものです。  終戦を迎え、浦上の信徒たちは再び教会の復興を願って力を合わせました。左写真は手前が原爆投下で破壊された教会堂の一部で、奥が現在の浦上教会です。廃墟のなかから見つけだしたフランス製のアンジェラスの鐘は、今でも鳴り響いています。  永井博士は、アンジェラスの鐘を題材として平和を訴えた「長崎の鐘」を書きました。 では、長崎市永井隆記念館へと行ってみましょう。 5長崎市永井隆記念館 作家として父として、戦争のない平和な世界を発信した医学博士  永井博士は、長崎医科大学で放射技師として働いていました。戦争中、フィルム不足で直接肉眼で透視しせざるおえなかった医療の現場で大量の放射線を受け、白血病に冒されてしまいました。余命3ヶ月と宣告された、そのわずか2ヵ月後に被爆。重症を負いながらも、被爆した人たちの救護活動をおこないました。  永井隆博士は、浦上教会に再び鐘を鳴らそうと提案しました。神父や信徒たちは、爆風で飛ばされたフランス製のアンジェラスの鐘を廃墟から掘り起こし、3本足で組んだ丸太に吊り下げました。そして、原爆が落とされて初めて迎えるクリスマス・イブの夜のこと。浦上のまちに、被災者達の気持ちを奮い立たせるかのように鐘の音が響きわたったのです。翌年、永井博士はアンジェラスの鐘を題材として平和を訴えた「長崎の鐘」を書き、ベストセラーとなりました。  記念館には、永井博士の原稿や遺品が展示されています。2階の図書室には平和に関する本が自由に閲覧できますよ。  記念館の隣には、浦上の人たちが永井博士に贈った家が保存されています。わずか2畳一間の小さな家は、博士の座右の銘「己の如く人を愛せよ」から「如己堂」と名付けられました。病が進行して床に伏した永井博士は、如己堂を病室兼書斎とし、「花咲く丘」「この子を残して」などを書き残し、平和を訴えました。 6平和公園 平和を長崎から全世界に呼びかける  現在、平和公園となっている場所は、長崎刑務所浦上刑務支所があったところです。原爆が落下した中心地から道を挟んですぐ近くにあり、原子爆弾のさく裂で高さ4メートルの鉄筋コンクリートの壁は根元から倒壊し、その刑務所の壁の一部が原爆の遺構として残されています。  毎年8月9日、平和記念式典がおこなわれます。原爆で亡くなられた犠牲者の冥福を祈るとともに、長崎市長の平和宣言で、核兵器廃絶と平和のメッセージを長崎から世界へと発信しています。  今回の歴史散策で、平和のメッセージを発信し続ける遺構や手記・本などにふれ、“LOVE&PEACE 愛と平和”の灯りが世界中にともることを願わずにはいられませんでした。多くの人々が長崎を訪れ、そのメッセージがそれぞれの心に届きますように・・・。そして、次の世代へと永遠につなぐことができますように・・・。 参考文献 「旅する長崎学5 キリシタン文化編5」 特集5 巡礼地長崎で平和を考える企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 「旅する長崎学4 キリシタン文化編4」 特集2 浦上キリシタンはなぜ250念も信仰を守り通せたのか企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 「ながさき原爆の記録」 発行/長崎市 1996年 「浦上天主堂写真集」 発行/カトリック浦上教会 1999年 「長崎市永井隆記念館 展示物紹介パンフレット」 企画/長崎市 「長崎游学マップ1 原爆被災地跡に平和を学ぶ」 長崎文献社 2004年 スタート地点までのアクセス 原爆落下中心地公園 所在 長崎県長崎市松山町171 開館時間 常時可 駐車場 なし アクセス 路面電車… JR長崎駅より、[1番赤迫][3番赤迫]行きに乗車し<松山町>電停を下車し徒歩で約2分。国道206号線をわたった目の前にあります。 バス… 長崎バス…JR長崎駅よりご利用の場合。<長崎駅前>より[滑石][光風台・豊洋台][上横尾][虹が丘][西山台団地][恵の丘][女の都][桜の里ターミナル][上床][満永][時津][琴海][大串]行きに乗車し(所要時間は約8分)、<松山町>で下車し徒歩で約1分。国道206号線をわたった目の前にあります。 県営バス…JR長崎駅よりご利用の場合。<長崎駅前>より[女の都団地][西崎団地][サニータウン][6循環(三原団地・西山台団地)][西山台団地]に乗車し(所要時間は約8分)、<松山町>で下車し、徒歩で約1分。国道206号線をわたった目の前にあります。 車… JR長崎駅より約7分。 高速バス --昼行便-- 長崎空港から約35分(長崎バス・長崎県営バス) 佐世保から約1時間30分(長崎県営バス・西肥バス) ハウステンボスから約1時間5分(西肥バス) 福岡から約3時間(九州急行バス) 北九州から約3時間(長崎県営バス) 大分・別府から約3時間45分(長崎バス・長崎県営バス) 熊本から約3時間(長崎県営バス) 宮崎から約5時間20分(長崎県営バス) --夜行便-- 名古屋から約12時間(長崎バス) 大阪(梅田)から約10時間10分(長崎県営バス) 京都・大阪から約11時間30分(長崎バス) 姫路・神戸から約10時間(長崎バス) 電車… 博多駅方面から[特急かもめ]に乗る! <JR博多駅>より[特急かもめ]に乗車し、<JR長崎駅>で下車(所用時間は約2時間)。  鳥栖駅より約1時間。佐賀駅より約1時間25分。諫早駅より約20分。 *JR長崎駅からは路面電車、バスまたはタクシーをご利用下さい。 長崎方面から[快速シーサイドライナー]に乗る! <JR佐世保駅>より[快速シーサイドライナー]に乗車し<JR長崎駅>で下車(所要時間は約1時間45分)。ハウステンボス駅より約1時間20分。大村駅より約35分。 *JR長崎駅からは路面電車、バスまたはタクシーをご利用下さい。 飛行機で長崎へ行く! 東京(羽田空港)から約1時間40分 大坂(伊丹空港)から約1時間10分 名古屋(中部)から約1時間20分 沖縄(那覇空港)から約1時間30分 宮崎から約40分 鹿児島から約35分 *各空港から<長崎空港>に着陸。長崎バスもしくは県営バスの[長崎空港線エアポートライナー・出島道路経由]に乗車し<長崎新地バスターミナル>へ約35分。 ●JR長崎駅・空港へのアクセスは「ながさき旅ねっと アクセス」をご覧ください。
  • 第21回 「浦上村」の跡を訪ねて 2008年02月04日
    第21回 「浦上村」の跡を訪ねて
    〜祈りのまちを歩く〜 歴史のとびら 戦国時代から続くキリシタンの里  浦上地区は長崎市の市街地から北へ約3キロ。戦国時代には大村領として治められていましたが、1474年には島原半島を治める有馬氏の支配下となりました。そして1584年には、キリシタン大名の有馬晴信によって、浦上はイエズス会に寄進されます。それより前の1580年(天正8)、日本初のキリシタン大名 大村純忠も、長崎と茂木をイエズス会に寄進していました。 賑わう16世紀の浦上村−教会のある風景  1587年、豊臣秀吉が伴天連追放令を発布。翌年、イエズス会に寄進されていた大村領長崎と有馬領浦上を直轄地としました。しかし、秀吉はポルトガル船の来航を奨励したので、長崎には多くの教会が次々と建ち並び、異国の文化で賑わいをみせていました。浦上村にも、サンタ・クララ教会が建ち、外国人商人も訪れるキリシタンの里として栄えていきました。 密かに信仰を守る潜伏時代に突入  江戸時代になって、1605年のこと。長崎市街地の統治を円滑にするため、幕府は大村領長崎村をさらに幕府領に編入し、代わりに大村氏には幕府領となっていた浦上の木場村、北村、西村、家野村を代替地として与えました。こうして浦上は大村領と幕府領とに二分されてしまいました。  ついに幕府は、1614年に禁教令を発布。長崎に建ち並んだ多くの教会は破壊され、外国人宣教師たちは国外追放になるなど、キリシタンに対する厳しい弾圧がいよいよ始まりました。浦上村山里の、馬込を除く本原郷・中野郷・里郷・家野郷の4つの郷に暮らす人々のほとんどはキリスト教を信仰するキリシタンでした。信仰を守り伝えるため、ひそかに組織をつくり、約250年もの長く苦しい潜伏時代を過ごしました。 祈りの復活  幕末になって長崎港が開港されると、長崎には多くの外国人が住むようになりました。まだ日本人には信仰の自由は認められていませんでしたが、居留地には外国人のための教会堂や学校などが建ちはじめました。約250年間もの長いあいだ、信仰を守りとおしてきた浦上の人々は、1865年3月17日、意を決して大浦天主堂を訪れ、プチジャン神父と出会い、自分たちがキリスト教の信徒であることを告白したのです(信徒発見)。  浦上村では、再び信仰の自由を願う熱気が高まっていきました。村につくった4つの秘密礼拝堂「聖マリア堂」「聖ヨゼフ堂」「聖フランシスコ・ザベリオ堂」「サンタ・クララ教会」では、大浦天主堂から神父を迎えてミサや洗礼をおこない、信徒たちの心のよりどころとなりました。しかし、しだいに、寺請制度に従わず僧侶の立ち合いなしで自葬するなど、しだいに公然と信仰を表明するようになります。とうとう、長崎奉行所の知るところとなり、キリシタン取り締まりの手が秘密礼拝堂にのびて68人が捕らえられ、江戸幕府の政策を引き継いだ明治政府によって、さらに3千人を超える浦上キリシタンの総流配という厳しい信仰弾圧へとつながっていきました。キリシタンたちの潜伏組織をゆるがす一連の事件は「崩れ」といわれ、浦上でも度々起こりましたが、信徒発見以後に起こったこの大きな事件は「浦上四番崩れ」とよばれます。  今回は、どんな状況のもとでも信仰を貫き通したキリシタンたちの里「浦上村」を散策します。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約3時間 img/sub/map_point2.gif' alt='2' />2一本木山(聖マリアの山) ↓ 徒歩で約18分 img/sub/map_point4.gif' alt='4' />4聖マリア堂(秘密教会)の跡 ↓ 徒歩で約5分 img/sub/map_point6.gif' alt='6' />6聖フランシスコ・ザベリオ堂(秘密教会)の跡 ↓ 徒歩で約3分 img/sub/map_point8.gif' alt='8' />8ベアトス様の墓 ↓ 徒歩で約5分 img/sub/map_point1.gif' alt='1' />10赤城キリシタン墓地 ↓ 徒歩で約10分
  • 第20回 聖人コルベ神父の面影を訪ねて 2008年01月23日
    第20回 聖人コルベ神父の面影を訪ねて
    〜愛を伝えた20世紀の殉教者〜 歴史のとびら  コルベ神父の本名はライモンド・コルベといい、ポーランドの出身です。修道名に聖母マリアの名を合わせてマキシミリアノ・マリア・コルベと名のり、学業を順調に修めていきました。  1917年(大正6)、ローマの大神学院聖堂にある聖母マリアの祭壇の前に、司祭と若き神学生6人が結集しました。それは、混沌としたこの時代に、けがれなき聖母の心で、武器を持たず愛を持って戦う"聖母の騎士信心会"が創立した瞬間でした。そのメンバーのなかに、後に20世紀の聖人となる若き日のコルベ青年の姿がありました。彼は、わずか24歳で司祭となりました。  アジアでの布教活動の重要性を唱えたコルベ神父は、1930年(昭和5)、上海航路の船に乗り長崎に降り立ちました。コルベ神父は大浦の大神学校(旧羅典神学校)で哲学の教鞭をとりながら、南山手の洋館を借りて日本支部を設置し、一角に印刷所を構えました。そして、日本語の活字で印刷したキリスト教を優しく読み解く雑誌「聖母の騎士」の記念すべき第1号を発行したのです。翌年、本河内に拠点を移して無原罪の園修道院(コンベンツアル聖フランシスコ修道会)を開設。持病の肺結核との闘病生活に、清貧の生活を送りながら、学校教育と出版作業に尽力する日々が続きました。日本語で書かれたわかりやすさに加えて、世界の情勢が載っている雑誌は次第に人気となって、日本全国からの購読者が増え、発行部数は初版1万部だったものが毎月6万2千部にまでに伸びていきました。  しかし、約6年間の滞在にピリオドが打たれる日がやってきます。コルベ神父は、母国ポーランドへと帰郷、第2次世界大戦の戦禍に巻き込まれナチス・ドイツ軍に捕らえられてしまいました。そして、1941年(昭和16)コルベ神父47歳のとき、アウシュビッツで、死刑を宣告されてふるえる若い父親の身代わりとなって殉教しました。帰天してわずか41年後の1982年(昭和57)に当時の教皇ヨハネ・パウロ2世によって聖人となりました。  今回は、長崎を拠点にアジアの布教を展望した20世紀の聖人・コルベ神父をご紹介します。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約2時間 img/sub/map_point2.gif' alt='2' />2旧羅典神学校 ↓ 徒歩で約2分 img/sub/map_point4.gif' alt='4' />4聖マキシミリアノ・コルベ記念館(本河内教会) ↓ 徒歩で約2分 img/sub/map_point6.gif' alt='6' />6本河内ルルド(本河内教会) 1大浦天主堂 最初に訪れた教会  聖母の騎士修道会のコルベ神父は、アジアでの布教活動が重要だと考え、ゼノ修道士と、ほか3人と一緒に母国ポーランドを出発しました。1930年(昭和5)の春、聖母の騎士たちは上海航路を通って長崎に降り立ち、港に着いて最初に向かったのは、南山手に建つ大浦天主堂でした。石畳を歩いた先で、彼らを出迎えたのは純白のマリア像。知らない国で、自分たちが信じる聖母マリアの像に出会った瞬間は、彼らにとって安堵に満ちたときではなかったでしょうか。大浦天主堂で、コルベ神父は、日本人で初めて教区長となった早坂司教に会い、長崎支部の設置と雑誌『聖母の騎士』の出版の許可を受けると、すぐに執筆にとりかかり、ラテン語とイタリア語の翻訳の手配をするなど出版の準備にはいりました。  そして、雑誌『聖母の騎士』の記念すべき第1号は、『カトリック教報』の付録として、5月24日に出版されました。ちょうど長崎上陸の1ヶ月後のことでした。  『聖母の騎士』は、現在でも聖母の騎士社から出版され続けています。約80年もの歴史を持つ雑誌なんですね。 2旧羅典神学校 ラテン語で授業がおこなわれた大神学校  大浦天主堂の敷地内には、日本人の司祭を育成するための小神学校(セミナリヨ)がありました。コルベ神父は、早坂司教の依頼を受け、この学校で哲学を教えました。授業は全てラテン語でおこなわれていたので、羅典神学校と呼ばれていました。  天主堂の階段を下りて、もと来た坂道を戻ります。石畳をくだる途中の脇道を左折して、聖コルベ記念室へと行ってみましょう。 3聖コルベ記念室 コルベ神父たちを見守った赤レンガ造りの暖炉が残る  「聖コルベ館」という看板のある建物に入りましょう。お土産が陳列してある場所から奥に「聖コルベ記念室」があります。コルベ神父の生涯をまとめたパネルで、その足跡をたどることができます。  この一角は、コルベ神父たちが日本に上陸して1ヵ月後の1930年(昭和5)5月26日、田中雨森病院跡の木造洋館を借り、聖母の騎士信心会の日本支部を設置した場所です。仮の修道院と印刷所を備えて約1年間、ここで出版作業が続けられました。当時建っていた洋館は残念ながら火事にあって焼失してしまいましたが、跡地にはこの大きな赤レンガの暖炉が残ったのです。  長崎を舞台にキリスト教文学の作品を多く残した作家 故・遠藤周作氏は、焼失して荒れ果てたこの場所を訪れ、「このコルベ神父ゆかりの赤レンガの暖炉を残し、見学コースのひとつにしてほしい」と訴えたそうです。そして、その後、何度も長崎を取材して、原爆が投下される戦時下の悲しい恋を描いた小説『女の一生 第ニ部』(1982年)に、コルベ神父を登場させています。 4聖マキシミリアノ・コルベ記念館 本河内に移転し"無原罪の園修道院"を開設  コルベ神父は、彦山の急斜面の約7千坪の土地を1坪1円で購入し、南山手から移転。ルルドをつくり、神学校も兼ね備えた"無原罪の園修道院"を開設しました。  聖マキシミリアノ・コルベ記念館は、国道34号線沿いにある<番所>のバス停を降りて徒歩で約5分、敷地内の急な坂道の途中にある赤レンガの建物です。  館内には、日記、原稿、遺品、当時の印刷機と製本の機械など、コルベ神父にまつわるたくさんの資料が展示されています。また、アウシュビッツで殉教するまでの生涯をまとめたビデオを視聴することもできます。  中央には、当時使っていた机や椅子、本棚を再現した「コルベ神父の部屋」があります。中に入って近くでよく見てください。カンナがかかっていない質素な机で執筆をしていたことがわかります。肺結核に苦しみながらの闘病生活と、清貧を守って印刷の作業に明け暮れる日々が続いたのでしょう。  展示品の中に十字架があります。これは、整地するとき、お地蔵さんの建っていた場所を掘っていたら発見されたそうです。およそ300〜400年前に埋葬されたキリシタンの遺品ではないかといわれています。その昔、長崎は徳川幕府の禁教令によってキリシタンへの厳しい弾圧がおこなわれていた時代でした。  館長の小崎登明修道士は、作家 故・遠藤周作氏が長崎を取材したときに各地を案内したという方でした。コルベ神父の生涯を綴った『ながさきのコルベ神父』(1988年聖母の騎士社)などの著書もあります。 5聖者コルベ小聖堂 教皇ヨハネ・パウロ2世が祈った場所  次に、聖マキシミリアノ・コルベ記念館から本河内教会へと向かいましょう。  静かな見学を心がけながら、教会堂の内部におじゃましました。左側にあるのが「聖者コルベ小聖堂」。ここには、1981年(昭和56)、教皇として日本を初めて訪問したヨハネ・パウロ2世が、同じポーランド出身の福者コルベ神父のために祈りを捧げたときの台と椅子が置かれています。翌年、コルベ神父は、教皇ヨハネ・パウロ2世によって、聖人に列せられました。  教会堂を見学する際は、「教会見学のQ&A」「教会見学のマナー」を参考にしてください。  教会堂の裏手には、「聖母の騎士」を発行している聖母の騎士社がありました。今も変わらず続けられている雑誌づくり。聖人コルベ神父の遺志を継いだ歴史のある出版社なんですね。この出版社のある前庭が、"無原罪の園修道院"が建っていた最初の場所だそうです。 6聖母の騎士のルルド コルベ神父が開いた、聖母マリアの泉  看板を目印に、本河内教会堂から階段をのぼって約5分。彦山の中腹にルルドがありました。  ルルドとは、フランスの地名で、少女ベルナデッタの前に現れたマリアのお告げどおりに、足元の土を掘ると泉が湧き出し、病を治す奇跡の水となったことから、信仰を集める泉のことをいいます。  コルベ神父は、日本へ向かう途中に、フランスのルルドに訪れました。アジアでもこのようなルルドをつくろうと構想し、眺めもよく自然の豊かな彦山につくりました。  この日は、岩の間から湧き出る水を汲む人々が訪れて、祈りを捧げていました。  コルベ神父を診察した旧制長崎医科大学(現在の長崎大学医学部)教授の永井隆博士も、原爆で受けた傷を癒すために、ルルドの泉の水を患部につけたそうです。  今回の旅では、コルベ神父の生涯をとおして、人間の過ちを露呈した戦争と日々の幸福について考えさせられました。神父は、世界の平和を願うなかで、愛と祈りこそがそれを実現できると考えたのではないでしょうか。アウシュビッツで、コルベ神父によって命を助けられた男性は、93歳まで長生きし、生命を後世につなぎ残しました。  また、コルベ神父とともに日本にやってきたゼノ修道士は、日本を選んだ理由を「第一次世界大戦でポーランドの孤児を救ったのは日本の赤十字。」と語ったそうです。第二次世界大戦で原爆が投下された長崎で、貧困にあえぐ子どもたちを救うために奔走したゼノ修道士たち、その献身的な姿があったということも印象に残った、今回の歴史散歩でした。 参考文献 「旅する長崎学5 キリシタン文化5」企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 特集5-第2章 かぎりない愛と救済に注いだコルベとゼノ 「ながさきのコルベ神父」 著/小崎登明 発行/聖母の騎士社 1988年 「長崎游学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド」 監修/カトリック長崎大司教区 編/長崎文献社 2005年 スタート地点までのアクセス 大浦天主堂 所在 長崎県長崎市南山手町5-3 お問い合わせ 095-823-2628 開館時間 8:00〜18:00(入館17:45迄) 休館日 なし 料金 大人300円 中・高校生250円 小学生200円 *旧羅典神学校(キリシタン資料館)の見学料を含む。 アクセス 車… JR長崎駅より車で約7分。長崎自動車道をご利用の場合[ながさき出島道路]出口より左折し約3分。 電車… 蛍茶屋・公会堂方面から乗車の場合は、[5番 石橋行(蛍茶屋発)]に乗車し、<大浦天主堂下>電停を下車し徒歩で約3分。 長崎駅方面より乗車の場合は、<長崎駅前>より、[1番 正覚寺行(赤迫発)]に乗車し約5分、<築町>で降りる際に乗換券を貰って、向かいのホームへ移動し[5番 石橋行(蛍茶屋発)]に乗り換え(所要時間は約6分、<大浦天主堂下>電停で下車し徒歩で約3分。 バス… <長崎駅前>より[ダイヤランド][深堀(団地)][香焼・恵里][毛井首団地]に乗車し<グラバー園入口>で下車し(所要時間は約12分)、徒歩で約3分。 高速バス --昼行便-- 長崎空港から約35分(長崎バス・長崎県営バス) 佐世保から約1時間30分(長崎県営バス・西肥バス) ハウステンボスから約1時間5分(西肥バス) 福岡から約3時間(九州急行バス) 北九州から約3時間(長崎県営バス) 大分・別府から約3時間45分(長崎バス・長崎県営バス) 熊本から約3時間(長崎県営バス) 宮崎から約5時間20分(長崎県営バス) --夜行便-- 名古屋から約12時間(長崎バス) 大阪(梅田)から約10時間10分(長崎県営バス) 京都・大阪から約11時間30分(長崎バス) 姫路・神戸から約10時間(長崎バス) 電車… 博多駅方面から[特急かもめ]に乗る! <JR博多駅>より[特急かもめ]に乗車し、<JR長崎駅>で下車(所用時間は約2時間)。  鳥栖駅より約1時間。佐賀駅より約1時間25分。諫早駅より約20分。 *JR長崎駅からは路面電車、バスまたはタクシーをご利用下さい。 長崎方面から[快速シーサイドライナー]に乗る! <JR佐世保駅>より[快速シーサイドライナー]に乗車し<JR長崎駅>で下車(所要時間は約1時間45分)。ハウステンボス駅より約1時間20分。大村駅より約35分。 *JR長崎駅からは路面電車、バスまたはタクシーをご利用下さい。 飛行機で長崎へ行く! 東京(羽田空港)から約1時間40分 大坂(伊丹空港)から約1時間10分 名古屋(中部)から約1時間20分 沖縄(那覇空港)から約1時間30分 宮崎から約40分 鹿児島から約35分 *各空港から<長崎空港>に着陸。長崎バスもしくは県営バスの[長崎空港線エアポートライナー・出島道路経由]に乗車し<長崎新地バスターミナル>へ約35分。 ●●JR長崎駅・長崎新地バスターミナル・JR佐世保駅・空港へのアクセスは「ながさき旅ねっと アクセス」をご覧ください。
  • 第19回 深堀の城下町と善長谷教会 2008年01月09日
    第19回 深堀の城下町と善長谷教会
    〜禁教令に従う佐賀藩とキリシタンの里「善長谷」〜 歴史のとびら  長崎市の南西部に位置する深堀地区は、城下町の佇まいを残す風情ある港町です。海に恵まれた地の利を活かし、その昔から、往来する貿易商人との交流がおこなわれていました。  深堀の歴史は古く、縄文時代から生活が営まれていたことが、貝塚など遺跡の発掘調査によって確認されています。  "深堀"という地名の誕生は鎌倉時代にさかのぼります。上総国の (現・千葉)の三浦仲光は、承久の乱(1221年)で鎌倉幕府方として活躍した褒美に、この肥前国彼杵庄戸町浦(現・深堀)を拝領しました。地頭職として赴任し、姓・町名ともに深堀と改名。その後、有馬氏から西郷氏、鍋島氏の支配下へと移行したものの、初代仲光から32代にわたります。  江戸時代、深堀は佐賀藩に取り込まれ、鍋島の姓に改名。6千石の家老職として勤める佐賀藩鍋島氏となり、居城を中心に武家屋敷などを整備した新しい城下町としての深堀を形成していきました。  佐賀藩鍋島は、諫早、神代(国見)、深堀を領地とし、外海の出津・黒崎・三重にも飛び地が存在していました。徳川幕府の禁教令によって、キリシタン弾圧がさらに厳しさを増していくなか、大村藩が支配する「内海」と呼ばれる大村湾周辺の厳しい監視から逃れるために、1823年、外海の三重東樫山に暮らしていたキリシタン6家族が新天地を求めて海を渡り脱出しました。彼らは、マリア観音やメダイを隠し持ち、旅芸人を装って善長谷へ移住したそうです。菩提寺の檀家となりながらも、ひそかにキリスト教の信仰を守り続けました。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約4時間 img/sub/map_point2.gif' alt='2' />2深堀義士の墓 ↓ 徒歩で約30秒 img/sub/map_point4.gif' alt='4' />4五官の墓 ↓ 徒歩で約60分 or 車で約10分
  • 第18回 生月を旅する!(2) 2007年12月19日
    第18回 生月を旅する!(2)
    〜しまに息づく かくれキリシタンの歴史〜 歴史のとびら  生月は、美しい海に囲まれた小さな島。長崎県の北西部に位置し、平戸島の北の沖合いに浮かびます。かくれキリシタンたちが大切に守ってきた信仰を今でも伝承する"祈りの島"でもあります。その歴史は、長崎でもいち早くキリスト教が伝えられ、一時はキリシタン文化の繁栄をみながら、その後は弾圧と迫害、脱出と潜伏……、時代に翻弄された厳しい棘(いばら)の道でした。 キリシタン時代  1550年、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが平戸に上陸しました。松浦隆信(道可)を領主とする平戸は、これまでの大陸との交流に加え、ポルトガル船の到来によって西洋との貿易を獲得し、「西の都」と呼ばれるまでに繁栄していました。さらに、平戸・生月地方でキリスト教が浸透し、キリシタン文化が誕生したのでした。  籠手田(こてだ)と一部(いちぶ)の両氏は、松浦隆信(道可)の家臣で、松浦氏の勢力圏のなかで生月島、度島、平戸島の西海岸を支配していました。1558年、籠手田氏の領地である生月島南部、度島、平戸島内で領民の一斉改宗がおこなわれ、改宗を指導したガスパル・ヴィレラ神父の手によって、教会や十字架が建立されました。このように多くの村を含む広い地域で一斉改宗がおこなわれたのは、籠手田領の改宗が最古の事例だそうです。しかしその際に、仏像を焼いたりしたことから、仏僧や仏教徒の反感が強まり、隆信はヴィレラ神父を追放する事態となりました。  1561年、平戸では、日本人商人とポルトガル船員の取引上のトラブルから殺傷事件「宮の前事件」が起こり、翌年、貿易の港は、いったん大村領内の横瀬浦に移ります。しかし南蛮貿易を継続させたい松浦隆信(道可)は、平戸領内に教会の建立を許可するなど手を尽くし、1564年にはポルトガル貿易船の再入港を成功させます。しかし、宣教師の隆信に対する不信感は拭えず、結局大村の領主で、のちに日本初のキリシタン大名となる大村純忠と手を組み、翌1565年の貿易船は、大村領内の福田港に入港することとなります。平戸への貿易船の入港を期待していた隆信は、その事態に激怒し、福田に停泊していたポルトガル船に攻撃をしかけますが、敗れてしまいます。  くしくも同年、一部氏が支配する生月島北部などで一斉改宗がおこなわれ、これによって生月の全島がキリシタンの島となりました。しかし平戸の松浦氏やその家臣と、キリシタン領主である籠手田・一部氏との間に生じた亀裂は、その後修復されることはなく、次第に深まっていったのでした。  1587年、豊臣秀吉が伴天連追放令を発布。その時生月は、日本各地で布教活動をしていた多くの宣教師たちをかくまいました。同時にセミナリヨやコレジオも一時的に移ってきたといわれています。1596年には、秀吉の命によってキリシタン26人が西坂の丘で殉教を遂げたことを機に、キリスト教に対する処遇は厳しくなっていきます。 禁教・殉教時代  1599年、平戸の前藩主・松浦隆信が死去。家督を継いだ息子の鎮信(法印)は、意に反して思うようにならない宣教師やキリシタンたちを嫌い、父の法要に参列するよう家臣たちに強要します。キリシタンであるため仏事に参列できないとした籠手田安一と一部正治は、信者800人を引き連れ、故郷である生月島を離れ、当時イエズス会の勢力が強かった長崎へと亡命したのでした。  しかし、島には信仰の篤いキリシタンたちが大勢残っていました。1609年、藩から派遣された奉行の家に嫁いだキリシタンである娘が棄教しないことを理由に、生月キリシタンの指導者であったガスパル西玄可が、松浦鎮信の命令によって処刑されたのは、徳川幕府の禁教令が発布(1614年)される5年前のことでした。  禁教令発布後にも悲劇は続きます。1622年、生月などで秘かに布教をおこなっていたカミロ神父が捕らえられ、田平の焼罪(やいざ)で処刑されました。そしてカミロ神父を助けたとして生月の人々も捕らえられ、中江ノ島で処刑(元和の殉教)。1624年にはその信者達の家族も捕らえられ、やはり中江ノ島で処刑されてしまいます(寛永の殉教)。彼らが中江ノ島に連行され処刑される光景を目のあたりにして、生月のキリシタンたちは、彼らの遺志を継ぎ、信仰を守り抜く決意をしたのではないでしょうか。殉教した人たちにオラショ(祈り)を捧げながら、子から孫へと信仰を継承していったのです。 復活時代  1873年、明治政府はキリシタン禁教令の高札を撤廃しました。各地に潜伏して信仰を守り続けていた人々は、再布教を開始したカトリックと合流した「復活キリシタン」と、先祖が大切に守ってきた信仰形態をそのまま受け継いだ「かくれキリシタン」にわかれました。かくれキリシタンの組織は、昭和初期ごろには外海地方や五島列島にも多く存在していたそうですが、平成になって平戸の組織も解散したように、現在ではきちんとした組織が存続している地域は殆どなくなり、伝統的な信仰形態を最もよく残しているのが、生月のかくれキリシタンだといわれます。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約2時間 img/sub/map_point2.gif' alt='2' />2山田教会 ↓車で約10分 img/sub/map_point4.gif' alt='4' />4幸四郎の森 1生月大魚籃観音 生月の町並みを眺めよう!  生月大橋を渡って国道42号線を走ると、民家の屋根を越えて頭を突き出した巨大な観音さまが見えてきました。  生月の丘の頂に、ポルトガル人宣教師のガスパル・ヴィレラ神父によって、記念すべき十字架が建てられました。"クルス(十字架)の丘"は、時世の流れに伴い、漢字であてはめ、いつしか"黒瀬の辻"と呼ばれるようになったといいます。生月のキリシタンにとって黒瀬の辻は、キリスト教信仰の出発点なのです。  鎮座する観音さまの広場からは、舘浦港と町並みが一望できますが、よく見ると、京都の町家とちょっと様子が違います。隣どうしピッタリと壁をくっつけて、狭い道に沿って密集しています。これには、幾つか理由があるそうです。ひとつは台風などの暴風対策。ひとつは島の木材が少なかったからだといわれています。  生月大魚籃観音は、航海の安全を願って建てられました。観音さまの高さは台座を合わせると、なんと21メートルもあり、ブロンズ像としては世界一。活きのいい鯛を手で押さえているかのようなポーズには理由がありました。魚の霊も追悼しているのだとか。豊かな漁場の生月ならではですね。観音さまの台座の中は御堂になっていて、自由に参拝することができます。 2山田教会 明治時代に復活した信仰の光  ザビエルによって平戸に撒かれたキリスト教の種は、キリシタンとなった生月の領主たちによって一斉改宗がおこなわれるなどして広まりました。厳しい禁教令が布かれた江戸時代でも信仰は受け継がれ、独自の信仰形態を保ち250年以上も殉教者と先祖を祀り伝承してきました。  1850年代になって長い鎖国の時代を経て開国した日本に、海外から多くの宣教師が再布教のためにやってきました。長崎の居留地に建てられた大浦天主堂では、1865年、プチジャン神父の前で浦上村の人々が信徒であることを告白しました(信徒発見)。このことをきっかけに、潜伏しながら信仰を守ってきた人々がキリスト教に復活するようになりました。いち早くキリスト教に戻った黒島の信徒たちは、生月の人々に合流復活するよう説得にあたりました。生月ではごく一部の人々が、1878年(明治11)に平戸を訪れたペルー神父から洗礼を受けました。  しかし、生月の大多数の人々は復活しませんでした。それは殉教者や先祖を祀る仏壇を捨てることができなかったからです。かくれキリシタンとして独自の信仰形態のまま、今でも組織ごと年中行事をおこなっています。  この教会堂は教会建築の父 鉄川与助によって大正元年に完成しました。アーチ窓の脇を見てみると剥がれた漆喰から当時の赤レンガが顔を覗かせていました。日本古来の技法と、煉瓦造りの洋の文化が融合し、モダンにみえます。  教会に入ると、木造のリブ・ヴォールト天井と細部のデザイン、世界中の蝶の羽を集めてつくられた7つの秘蹟、キリストを失った親としての悲しみを表した心臓に7つの刃が刺さった「7つの悲しみのマリア像」など目に映るものすべてが印象的です。ステンドグラスからやさしい光が射し込んでいました。 3焼山 教会があった山  ここからは、「島の館」の中園成生さんに案内してもらいながら見学しました。  生月小学校の近くの植栽のアーチの門をくぐっていきましょう。ここは、民家の建つ脇道を通りますので、地元の方のご迷惑にならないよう、静かに見学させてもらいましょう。  見たところ、焼山は、どこにでもある木々に覆われた丘に見えますが…。  中園さん「焼山は、キリシタン時代に教会が建っていた場所だと言われています。豊臣秀吉の伴天連追放令が発布されると、外国人の宣教師たちが生月に避難してきて、その時セミナリヨ(神学校)も移転してきました。江戸時代になって、平戸藩が本格的な禁教政策に転じた時、切り捨てたキリシタンたちを穴に放り込んで火をかけたことから"焼山"と呼ばれています。」  隣には、御堂がありました。ここでは境目(さかいめ)のかくれキリシタンが集まって年中行事をおこなっています。 4幸四郎の森 裸足で歩く神聖な森  焼山からさらに山手へ歩くこと約5分。先ほどの焼山と同じように、木々が生い茂る小さな丘が現れました。  中園さん「この石段からは靴を脱ぎましょう。この幸四郎の山は聖地なんです。」との説明を受けました。靴を脱いで、いざ森の中へと入りました。中には落ち葉が敷き詰められ、中央には石の祠がありました。 しばし、祈りを捧げます。  ところで、幸四郎さまとは、一体誰なんです?  中園さん「地元の言い伝えによると、幸四郎さまという人物は、徳川幕府の禁教令によって、平戸藩から派遣されたキリシタン取締りの役人です。ある時、彼は、踏絵を「踏めない」と逃げたキリシタンに向かって矢を放ちます。しかし、その矢が旋回して自分に当たってしまいました。この不思議な現象から幸四郎はキリシタンに改宗して、後に殉教し、サンパブローさまと呼ばれたそうです。  この森は、昭和初期まで松の大木が茂っていました。昔から履物をしたままの入場を禁じ、薪を拾うこともゆるされなかった聖地でした。堺目には幸四郎様を描いた掛け軸を御神体としてまつる、かくれキリシタン信者の講(組)もありますが、その絵の男性武人像には弓矢が描かれています。サンパブローは聖書に出てくる聖パウロの名前と同じですが、彼は聖画に描かれる場合は本を持った姿などで描かれていて、弓矢と一緒に描かれるのは聖セバスチャンの像です。外海や生月ではバスチャン様という殉教者も信仰されていますが、キリシタン時代に聖セバスチャンの説話が伝えられ、信仰がおこなわれていた名残かも知れず、弓矢のお掛け絵も、実は聖セバスチャンを祀ったものだったのかも知れません。」  生月は、キリスト教の種が日本ではじめて撒かれた平戸の領内にある島で、キリシタン時代、禁教時代、復活時代、そして現代と450年にわたってキリシタンの信仰を守り続けています。時代の流れによって独自のカタチに変化していく信仰は、大切に子から孫へと伝承され、つつましくささやかな祈りが、日々捧げられています。 参考文献 「旅する長崎学1 キリシタン文化1」 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 巻頭特集 ザビエルが平戸にまいた キリスト教の種子 「旅する長崎学4 キリシタン文化4」 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 特集4 平戸・生月のかくれキリシタン 「旅する長崎学6 キリシタン文化6」 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 キリシタン文化の旅 長崎へのいざない 第1章 布教はここから始まった 平戸ガイド編 生月探訪 土地に息づく かくれキリシタンの歴史 「生月島のかくれキリシタン(改訂版)」 制作/平戸市生月町博物館・島の館 発行/平戸市生月振興公社 2000年 協力 平戸市生月町博物館・島の館 学芸員 中園成生 スタート地点までのアクセス 生月大魚籃観音 所在 長崎県平戸市生月町山田免570-1 開館時間 台座内部の入場8:30〜17:00 *11〜2月の期間は〜16:30迄。 料金 無料 駐車場 あり 休み なし アクセス 車… 生月大橋より県道42号線を北上し約5分。舘浦の信号(比売神社の角)を左折、一つ目の信号(農協ストアの角)を左折。 高速道路をご利用の場合… 長崎自動車道<武雄北方IC>を下車、国道498号線を通り伊万里で国道204号線へ、平戸大橋を渡り国道383号線から県道19号線へ、生月大橋を渡り県道42号線を北上して約5分。生月大橋より県道42号線を北上し約5分。比売神社(舘浦)の角の信号を左折、一つ目の信号を左折(角に農協ストアあり)。 *所要時間のめやす…長崎より長崎自動車道を利用して約2時間30分。 バス… 生月バス<舘浦漁協前>を下車し徒歩で約5分。 生月までのアクセス 車…*所要時間のめやす 福岡より唐津経由で約2時間30分 (国道202号線→国道204号線→平戸大橋→国道383号線→県道19号線→生月大橋) 佐世保より約1時間 (国道204号線→平戸大橋→国道383号線→県道19号線→生月大橋) 平戸より約25分(国道383号線→県道19号線→生月大橋) 長崎より高速道路を利用して約2時間30分 高速道路をご利用の場合… 長崎自動車道<武雄北方IC>を下車、国道498号線を通り伊万里で国道204号線へ、平戸大橋を渡り国道383号線から県道19号線へ、生月大橋を渡り県道42号線を北上して約7分。生月バス<正田>バス停より右折して約30メートル。*所要時間のめやす…長崎より長崎自動車道を利用して約2時間30分。 生月大橋の通行料・片道(2007年12月現在) 普通車200円 中型250円 大型(1)350円 大型(2)550円 軽自動車・バイク(125cc以上)150円 軽車両等20円 平戸大橋の通行料・片道(2007年12月現在) 普通車100円 大型車150円 特大車300円 軽車両等10円 バス… <佐世保駅前>より西肥バス[(特急バス)平戸]行きに乗車し<平戸新町>で乗り換え(所要時間は約1時間)。生月バス[一部桟橋・御崎]行きに乗車しバスで約30分。 高速バス --昼行便-- 長崎空港から約35分(長崎バス・長崎県営バス) 佐世保から約1時間30分(長崎県営バス・西肥バス) ハウステンボスから約1時間5分(西肥バス) 福岡から約3時間(九州急行バス) 北九州から約3時間(長崎県営バス) 大分・別府から約3時間45分(長崎バス・長崎県営バス) 熊本から約3時間(長崎県営バス) 宮崎から約5時間20分(長崎県営バス) --夜行便-- 名古屋から約12時間(長崎バス) 大阪(梅田)から約10時間10分(長崎県営バス) 京都・大阪から約11時間30分(長崎バス) 姫路・神戸から約10時間(長崎バス) 電車… 博多駅方面から[特急かもめ]に乗る! <JR博多駅>より[特急かもめ]に乗車し、<JR長崎駅>で下車(所用時間は約45分)。鳥栖駅より約25分。佐賀駅より約10分。諫早駅より約8分。 *JR佐世保駅からは、バスまたはタクシーをご利用下さい。 長崎方面から[快速シーサイドライナー]に乗る! <JR長崎駅>より[快速シーサイドライナー]に乗車し<JR佐世保駅>で下車(所要時間は約1時間45分)。ハウステンボス駅より約20分。大村駅より約1時間。 JR佐世保駅からは、バスまたはタクシー・レンタカーをご利用下さい。 飛行機で長崎へ行く! 東京(羽田空港)から約1時間40分 大坂(伊丹空港)から約1時間10分 名古屋(中部)から約1時間20分 沖縄(那覇空港)から約1時間30分 宮崎から約40分 鹿児島から約35分 *長崎空港からは、バスまたは電車・タクシー・レンタカーをご利用ください。 ●JR佐世保駅・生月へのアクセスは「ながさき旅ねっと アクセス」をご覧ください。