ながさき歴史の旅

ホーム   >  ながさき歴史の旅  >  ながさき歴史散歩

ながさき歴史散歩

  • 第17回 生月を旅する!(1) 2007年12月05日
    第17回 生月を旅する!(1)
    〜キリシタン殉教の物語をめぐる〜 歴史のとびら  生月は、美しい海に囲まれた小さな島。長崎県の北西部に位置し、平戸島の北の沖合いに浮かびます。かくれキリシタンたちが大切に守ってきた信仰を今でも伝承する"祈りの島"でもあります。その歴史は、長崎でもいち早くキリスト教が伝えられ、一時はキリシタン文化の繁栄をみながら、その後は弾圧と迫害、脱出と潜伏……、時代に翻弄された厳しい棘(いばら)の道でした。 キリシタン時代  1550年、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが平戸に上陸しました。松浦隆信(道可)を領主とする平戸は、これまでの大陸との交流に加え、ポルトガル船の到来によって西洋との貿易を獲得し、「西の都」と呼ばれるまでに繁栄していました。さらに、平戸・生月地方でキリスト教が浸透し、キリシタン文化が誕生したのでした。  籠手田(こてだ)と一部(いちぶ)の両氏は、松浦隆信(道可)の家臣で、松浦氏の勢力圏のなかで生月島、度島、平戸島の西海岸を支配していました。1558年、籠手田氏の領地である生月島南部、度島、平戸島内で領民の一斉改宗がおこなわれ、改宗を指導したガスパル・ヴィレラ神父の手によって、教会や十字架が建立されました。このように多くの村を含む広い地域で一斉改宗がおこなわれたのは、籠手田領の改宗が最古の事例だそうです。しかしその際に、仏像を焼いたりしたことから、仏僧や仏教徒の反感が強まり、隆信はヴィレラ神父を追放する事態となりました。  1561年、平戸では、日本人商人とポルトガル船員の取引上のトラブルから殺傷事件「宮の前事件」が起こり、翌年、貿易の港は、いったん大村領内の横瀬浦に移ります。しかし南蛮貿易を継続させたい松浦隆信(道可)は、平戸領内に教会の建立を許可するなど手を尽くし、1564年にはポルトガル貿易船の再入港を成功させます。しかし、宣教師の隆信に対する不信感は拭えず、結局大村の領主で、のちに日本初のキリシタン大名となる大村純忠と手を組み、翌1565年の貿易船は、大村領内の福田港に入港することとなります。平戸への貿易船の入港を期待していた隆信は、その事態に激怒し、福田に停泊していたポルトガル船に攻撃をしかけますが、敗れてしまいます。  くしくも同年、一部氏が支配する生月島北部などで一斉改宗がおこなわれ、これによって生月の全島がキリシタンの島となりました。しかし平戸の松浦氏やその家臣と、キリシタン領主である籠手田・一部氏との間に生じた亀裂は、その後修復されることはなく、次第に深まっていったのでした。  1587年、豊臣秀吉が伴天連追放令を発布。その時生月は、日本各地で布教活動をしていた多くの宣教師たちをかくまいました。同時にセミナリヨやコレジオも一時的に移ってきたといわれています。1596年には、秀吉の命によってキリシタン26人が西坂の丘で殉教を遂げたことを機に、キリスト教に対する処遇は厳しくなっていきます。 禁教・殉教時代  1599年、平戸の前藩主・松浦隆信が死去。家督を継いだ息子の鎮信(法印)は、意に反して思うようにならない宣教師やキリシタンたちを嫌い、父の法要に参列するよう家臣たちに強要します。キリシタンであるため仏事に参列できないとした籠手田安一と一部正治は、信者800人を引き連れ、故郷である生月島を離れ、当時イエズス会の勢力が強かった長崎へと亡命したのでした。  しかし、島には信仰の篤いキリシタンたちが大勢残っていました。1609年、藩から派遣された奉行の家に嫁いだキリシタンである娘が棄教しないことを理由に、生月キリシタンの指導者であったガスパル西玄可が、松浦鎮信の命令によって処刑されたのは、徳川幕府の禁教令が発布(1614年)される5年前のことでした。  禁教令発布後にも悲劇は続きます。1622年、生月などで秘かに布教をおこなっていたカミロ神父が捕らえられ、田平の焼罪(やいざ)で処刑されました。そしてカミロ神父を助けたとして生月の人々も捕らえられ、中江ノ島で処刑(元和の殉教)。1624年にはその信者達の家族も捕らえられ、やはり中江ノ島で処刑されてしまいます(寛永の殉教)。彼らが中江ノ島に連行され処刑される光景を目のあたりにして、生月のキリシタンたちは、彼らの遺志を継ぎ、信仰を守り抜く決意をしたのではないでしょうか。殉教した人たちにオラショ(祈り)を捧げながら、子から孫へと信仰を継承していったのです。 復活時代  1873年、明治政府はキリシタン禁教令の高札を撤廃しました。各地に潜伏して信仰を守り続けていた人々は、再布教を開始したカトリックと合流した「復活キリシタン」と、先祖が大切に守ってきた信仰形態をそのまま受け継いだ「かくれキリシタン」にわかれました。かくれキリシタンの組織は、昭和初期ごろには外海地方や五島列島にも多く存在していたそうですが、平成になって平戸の組織も解散したように、現在ではきちんとした組織が存続している地域は殆どなくなり、伝統的な信仰形態を最もよく残しているのが、生月のかくれキリシタンだといわれます。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約3時間 1黒瀬の辻 殉教碑 ↓ 徒歩で約30秒 2ガスパル西玄可のお墓 ↓ 黒瀬の辻 殉教碑から眺めましょう 3中江ノ島 ↓ 車で約15分 4ダンジクさま ↓ 車で約5分 5平戸市生月町博物館 島の館 1黒瀬の辻 殉教碑 生月キリシタンの出発点  1550年、フランシスコ・ザビエルの平戸来航によって、長崎に初めて伝えられたキリスト教。日本伝来の翌年のことです。平戸領主の家臣だった籠手田安経(こてだやすつね)と一部勘解由(いちぶかげゆ)は、キリスト教の洗礼を受け、自分たちの治める生月で、キリスト教への一斉改宗をおこないました。町には教会が建ち、ポルトガル人宣教師が往来し、西洋の音楽も流れ、キリシタン文化が開花。生月は"キリシタンの島"となったのです。  生月の丘の頂に、ポルトガル人宣教師のガスパル・ヴィレラ神父によって、記念すべき十字架が建てられました。"クルス(十字架)の丘"は、時世の流れに伴い、漢字であてはめ、いつしか"黒瀬の辻"と呼ばれるようになったといいます。生月のキリシタンにとって黒瀬の辻は、キリスト教信仰の出発点なのです。  現在、殉教碑が建立されたクルスの丘公園では、毎年11月に殉教ミサがおこなわれています。 2ガスパル西玄可のお墓 福者に列せられることが決定した殉教者  次は、この丘で殉教を遂げたガスパル西玄可のお墓へ行ってみましょう。黒瀬の辻 殉教碑の裏手へと回って約20メートルのところにあります。  1558年と1565年の一斉改宗で全島民がキリシタンとなった島"生月"。しかし平戸の領主・松浦隆信の息子の鎮信(法印)は、キリスト教の禁教政策を強化していきました。その政策を受け入れられない籠手田氏と一部氏は、1599年に一族や家臣などキリシタン約800人とともに生月を脱出、新天地を求め長崎へと亡命しました。  生月に残ったキリシタンたちを指導したのが、リーダー的存在であったガスパル西玄可です。娘のマリアも信仰が篤く、嫁ぎ先の義父(舘浦の奉行)から信仰を棄てることを強要されますが、かたくなに応じず実家に戻ったそうです。このことを知った松浦鎮信は、自分の命令に反している者たちを処刑するよう命じました。役人に捕らえられた玄可は「十字架が建っていた場所で処刑、埋葬してほしい。」と願い、1609年11月14日に斬首され、その妻ウルスラと長男ジョアン又市も、その後すぐ、連行中に斬り殺されました。  ガスパル西玄可のお墓は、四角の石積みで作られていましたが、いつしかそこから松が生え、「ガスパル様の松」と呼ばれ、かくれキリシタンから聖木として崇められていました。昔は大きく立派だった松の木も枯れてしまい、現在は根本が残るだけになっていますが、カトリック信者が、枯れた丸太の芯から十字架を作って、再び信仰の標としたそうです。そのうちのひとつは山田教会の正面に安置されていますが、かくれキリシタン信者に託されたもののひとつは、現在、島の館で展示されています。  ガスパル西玄可、妻のウルスラ、長男ジョアン又市の3人は、2007年6月、教皇ベネディクト16世によって「ペトロ岐部と187殉教者」として福者に列せられることが決まり、そのことを宣言する列福式が2008年11月24日に長崎でおこなわれるというニュースが流れました。生月の西家は、信仰が篤い家族として知られます。西玄可の次男トマス兵次(のちに六左衛門)は、ドミニコ会の日本人最初の司祭となり1634年に長崎西坂で殉教、1987年に当時の教皇ヨハネ・パウロ2世によって聖人の位にあげられ、「聖トマス西」として讃えられています。 3中江ノ島 生月"カクレキリシタン"の聖地  殉教碑のレリーフから青い海の方向をみると、生月と平戸の中間に浮かぶ中江ノ島。  1614年に徳川幕府が禁教令を発布した直後も、外国人宣教師たちは、日本に潜入して布教を試み、生月にもやってきました。そのひとりカミロ神父は、納島への渡航を企て実行しますが、宇久島であえなく役人に見つかり、1622年、田平の焼罪(やいざ)で火あぶりにされました。このカミロ神父を援助した生月のキリシタンたちも、異教徒に加担したという罪で捕まり、次々と中江ノ島で処刑されるという事件がおこりました。  この悲しい殉教の物語は、キリシタンたちのあいだで子から孫へと伝承されました。この島そのものが生月キリシタンの信仰の対象となっています。  もうひとつの殉教事件を学ぶために、生月島の西海岸へと移動しましょう。 4ダンジクさま キリシタン一家が殉教した海岸  「平戸市生月町博物館 島の館」から約3分ほど車を走らせると、左手に現れる道案内の看板を目印に向かいましょう。さらに看板(写真右)があります。ここからは海岸まで約300メートルの険しい道を降りていきますので、足元に注意してください。  小さな浜辺へとたどり着くと、竹薮に覆われたダンジクさまの祠がありました。  江戸時代、幕府の禁教令によって役人に追われていたキリシタンの一家がいました。弥市兵衛と妻マリア・息子ジュリアンは断崖の下の暖竹(ダンジク)の茂みに身を寄せて隠れていましたが、ある日、ジュリアンが浜で遊んでいるところを、船で捜索していた役人に見つかってしまい、一家は捕らえられ処刑されてしまいました。1645年のお話です。この悲しい発見劇の物語から、海上からの参拝はタブーとなっています。  命日の1月16日には、信者の方々によってオラショ(祈り)が捧げられています。  生月キリシタンの歴史をもっと学ぶために、来た道を少し戻って「島の館」の博物館へ行ってみましょう! 5平戸市生月町博物館 島の館 キリシタン文化を学ぼう!  「島の館」は、約450年間も厳しい弾圧に耐えながら受け継がれてきた生月キリシタンの歴史と、江戸時代に日本最大規模とまでいわれた生月の捕鯨の歴史を紹介する博物館です。  かくれキリシタンにまつわる資料を一部だけご紹介しましょう。  左写真の掛け軸は、幼子キリストと聖母マリアを描いた聖母子像に起源を持ちます。マリアの頭上にはくっきりと赤い十字架があります。このような掛軸の図像は「納戸神」「御前様」と呼ばれる御神体のなかでも「お掛け絵」と呼ばれる種類で、かくれキリシタンの信仰対象とされたものです。  禁教時代、かくれキリシタンの人々は聖母子像や聖人、聖家族を描いたこうした掛け軸を納戸に設けた祭壇に飾り、オラショ(祈り)を捧げていました。  右の写真は「オブマリ」。和紙で作られた十字架は、いろいろな行事で魔除けとして使われるそうです。  かくれキリシタンの組織は、外海、五島、平戸、生月など各地に存在していましたが、減少の一途をたどり、現在では生月以外では、組織的な信仰は殆どなくなったといわれています。  学芸員の中園成生さんに、生月にまつわるキリシタンの歴史を教えていただきました。歴史発見コラム 第32回をご覧ください!  生月の殉教地は、キリスト教を信仰する人々にとって大切な聖地となっています。過去の悲しい事件を繰り返さないようにその歴史を伝え残していく、そんな思いが込められているのではないでしょうか。人々の思いと願いをのせたオラショ(祈り)が、こだましながら倍音となって、どこからか聞こえてくるような気がする生月の旅でした。  次回の歴史散歩も、生月をめぐる旅をお送りします。 参考文献 「旅する長崎学1 キリシタン文化1」 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 巻頭特集 ザビエルが平戸にまいた キリスト教の種子 「旅する長崎学4 キリシタン文化4」 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 特集5 平戸・生月のかくれキリシタン 「旅する長崎学6 キリシタン文化6」 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 キリシタン文化の旅 長崎へのいざない 第1章 布教はここから始まった 平戸ガイド編 生月探訪 土地に息づく かくれキリシタンの歴史 「生月島のかくれキリシタン(改訂版)」 制作/平戸市生月町博物館・島の館 発行/平戸市生月振興公社 2000年 協力 平戸市生月町博物館・島の館 学芸員 中園成生 スタート地点までのアクセス 黒瀬の辻 所在 長崎県平戸市生月町山田免 クルスの丘公園 駐車場 あり アクセス 車… 生月大橋より県道42号線を北上し約7分。生月バス<正田>バス停より右折して約30メートル。 高速道路をご利用の場合… 長崎自動車道<武雄北方IC>を下車、国道498号線を通り伊万里で国道204号線へ、平戸大橋を渡り国道383号線から県道19号線へ、生月大橋を渡り県道42号線を北上して約7分。生月バス<正田>バス停より右折して約30メートル。*所要時間のめやす…長崎より長崎自動車道を利用して約2時間30分。 バス… 生月バス<正田>を下車し徒歩で約5分。 生月までのアクセス 車…*所要時間のめやす 福岡より唐津経由で約2時間30分 (国道202号線→国道204号線→平戸大橋→国道383号線→県道19号線→生月大橋) 佐世保より約1時間 (国道204号線→平戸大橋→国道383号線→県道19号線→生月大橋) 平戸より約25分(国道383号線→県道19号線→生月大橋) 長崎より高速道路を利用して約2時間30分 高速道路をご利用の場合… 長崎自動車道<武雄北方IC>を下車、国道498号線を通り伊万里で国道204号線へ、平戸大橋を渡り国道383号線から県道19号線へ、生月大橋を渡り県道42号線を北上して約7分。生月バス<正田>バス停より右折して約30メートル。*所要時間のめやす…長崎より長崎自動車道を利用して約2時間30分。 生月大橋の通行料・片道(2007年12月現在) 普通車200円 中型250円 大型(1)350円 大型(2)550円 軽自動車・バイク(125cc以上)150円 軽車両等20円 平戸大橋の通行料・片道(2007年12月現在) 普通車100円 大型車150円 特大車300円 軽車両等10円 バス… <佐世保駅前>より西肥バス[(特急バス)平戸]行きに乗車し<平戸新町>で乗り換え(所要時間は約1時間)。生月バス[一部桟橋・御崎]行きに乗車しバスで約30分。 高速バス --昼行便-- 長崎空港から約35分(長崎バス・長崎県営バス) 佐世保から約1時間30分(長崎県営バス・西肥バス) ハウステンボスから約1時間5分(西肥バス) 福岡から約3時間(九州急行バス) 北九州から約3時間(長崎県営バス) 大分・別府から約3時間45分(長崎バス・長崎県営バス) 熊本から約3時間(長崎県営バス) 宮崎から約5時間20分(長崎県営バス) --夜行便-- 名古屋から約12時間(長崎バス) 大阪(梅田)から約10時間10分(長崎県営バス) 京都・大阪から約11時間30分(長崎バス) 姫路・神戸から約10時間(長崎バス) 電車… 博多駅方面から[特急かもめ]に乗る! <JR博多駅>より[特急かもめ]に乗車し、<JR長崎駅>で下車(所用時間は約45分)。鳥栖駅より約25分。佐賀駅より約10分。諫早駅より約8分。 *JJR佐世保駅からは、バスまたはタクシーをご利用下さい。 長崎方面から[快速シーサイドライナー]に乗る! <JR長崎駅>より[快速シーサイドライナー]に乗車し<JR佐世保駅>で下車(所要時間は約1時間45分)。ハウステンボス駅より約20分。大村駅より約1時間。 JR佐世保駅からは、バスまたはタクシー・レンタカーをご利用下さい。 飛行機で長崎へ行く! 東京(羽田空港)から約1時間40分 大坂(伊丹空港)から約1時間10分 名古屋(中部)から約1時間20分 沖縄(那覇空港)から約1時間30分 宮崎から約40分 鹿児島から約35分 *長崎空港からは、バスまたは電車・タクシー・レンタカーをご利用ください。 ●JR佐世保駅・生月へのアクセスは「ながさき旅ねっと アクセス」をご覧ください。
  • 第16回 神ノ島 巡礼の旅 2007年11月21日
    第16回 神ノ島 巡礼の旅
    〜殉教の歴史と聖母マリアをめぐる〜  「歴史発見コラム」の第24回で訪れた"女神"をはじめ、"立神""石神"など「神」が付く地名が多い長崎。なかでも、長崎港に入る船の中から見える白いマリア像がたつ"神の島"は、いったいどんなところなのでしょうか? 神の島は、白亜の教会が輝く港町。神ノ島教会の存在には、殉教の歴史と信仰の復活に願いを込めて活躍したキリシタンたちの物語がありました。長崎のキリスト教がたどった歴史にクローズアップして、今回は、「神ノ島 巡礼の旅」にでかけました。 歴史のとびら  神ノ島は、長崎港の玄関口にある小さな港町です。もとは、船でしか往き来できない約1キロほどの小さな島でした。17世紀に徳川幕府が発布した厳しいキリシタン禁教令のもとでは、その不便な地がゆえにキリシタンたちが潜伏しました。そして、250年以上もの長い間、子から孫へと何代も信仰を守り続けたのです。  禁教令が発布された3年後の1617年(元和3)。神ノ島の沖合いに浮かぶ高鉾島で、殉教事件が起こりました。宣教師をかくまった宿主2人が首を斬られたのでした。この事件は、長崎で一般の領民であるキリシタンが処刑された最初の事件となったのです。オランダ人は高鉾島をパーペンベルグ(キリシタンの島)と呼んでいたといいます。  1853年のペリー来航をきっかけに、日本は鎖国に終わりを告げて開国の道を選択しました。世界五カ国と修好通商条約を結び、近代化に向かって歩み始めた19世紀中頃のこと。パリ外国宣教会(カトリック系)から派遣されたフランス人のプチジャン神父は、長崎の南山手にできた外国人居留地に、日本二十六聖人のための大浦天主堂を建てました。日本で宣教活動を再スタートしたくても、まだ禁教令は解かれていませんでした。長崎のキリシタンたちは、厳しい弾圧に耐え、潜伏しながらマリア信仰を心のよりどころに、先祖から伝えられた「パードレ(神父)の再来」を信じていました。この伝承を代々にわたって250年以上もの長いあいだ信じてきた浦上村の信徒が、大浦天主堂をこっそりと訪れました。そして、プチジャン神父と出会い、信仰を告白したのです。この出来事は、日本にキリシタンが存在していた奇跡「信徒発見」として海外にも知られることとなりました。これをきっかけに、これまで各地に潜伏していたキリシタンたちが信徒であることを打ち明けていきました。  神ノ島には、昔からキリシタンが多く潜伏していました。帳方で兄の西忠吉と水方で弟の政吉の兄弟は、信仰の復活を願いながら命をかけて舟を漕ぎ、対岸の大浦天主堂の門をたたき信徒であることを告白しました。その後、プチジャン神父を連れてキリシタンが住む里を案内しながら布教活動を手伝いました。やがて西兄弟の献身的で勇気ある行動は役人に見つかってしまいます。まだ禁教が解かれていない緊迫した時代だったため、とうとう1871年(明治4)、役人に検挙されてしまいました。  1873年(明治6)、キリシタン禁制の高札が撤廃されて、キリスト教の信仰が黙認されるにいたりました。ブレル神父が神ノ島に赴任して1876年(明治9)に仮の教会を建立。5年後には2代目ラゲ神父によって木造教会を建立。1897年(明治30)に6代目として着任したデュラン神父が自らの私財を投じて、教会堂を煉瓦造りに建て替え、現在の姿の原型となりました。  神ノ島は、戦後に埋め立てられて陸続きとなり、現在では気軽に車で行き来できるようになりました。船から長崎に入ると、港の玄関口の左手に航海の安全を見守る純白のマリア像が出迎えてくれます。今回は、小さな港町「神ノ島」を歩いてみましょう。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約3時間 img/sub/map_point2.gif' alt='2' />2高鉾島 ↓ 神ノ島教会より徒歩で約8分
  • 第15回 小説の舞台を歩く(2) 2007年11月07日
    第15回 小説の舞台を歩く(2)
    〜遠藤周作・外海編〜  劇的な歴史的背景を持つ長崎県は、文学、史学、音楽、芸能、宗教などなど、様々な分野に携わる人々を魅了し続けてきました。  作家・故 遠藤周作さんを、「長崎県人」だと思っている人は案外多いのではないでしょうか。小説を書こうとするときは、まず長崎が眼にうかぶとおっしゃるほどまでに長崎を愛し、幾度も取材で訪れ、心の故郷と言ってくださった方です。遠藤文学のファンは多く、いまも遠藤先生の足跡をたどる旅や小説の舞台をめぐる旅に出かける人たちもたくさんいるようです。  今回は、遠藤周作こと狐狸庵先生が訪れた場所に注目して、小説『沈黙』『女の一生』などの舞台になった外海をご紹介します。効率よくまわるコース順もあるけれど、せっかくなので場所と時間帯のロケーションとシチュエーションがかもしだす雰囲気を味わいながら外海を巡る、1日かけてのルートでご紹介します。 歴史のとびら  長崎市の北西に位置する外海地区は、固有の文化を育んだキリシタンの里です。深く続く山々と海に面して切り立った岩。山あいにひっそりと建つ教会は歴史の歩みを物語っています。そして角力灘(すもうなだ)に面する碧い海原に向かうと、晴れた日には水平線と五島が見え、夕陽が刻々と沈み黄金色に染まっていく幻想的な風景に出会えます。外海には、人々を魅了する要素がたくさんあります。長崎市街からは、サンセットオーシャン202( 国道202号線)を車で走り、約50分の距離。日帰りで楽しめるドライブコースとしても人気です。  外海は、1563年にキリスト教の洗礼を受けて日本初のキリシタン大名 となった大村純忠が治めた領地のひとつでした。1587年、純忠の死後すぐに発布された豊臣秀吉の伴天連追放令によって、キリシタン武将として活躍した籠手田氏や小西行長らの家臣の一部が平戸や肥後から外海の大野郷へ移り住んだといわれます。さらに1614年の徳川幕府の禁教令は、キリシタン迫害に厳しさを増します。純忠の息子 喜前(よしあき)は幕府の禁教政策をいち早く見極め、日蓮宗に改宗し、領内のキリシタン取り締まりを強化していました。1617年に宣教師4人が殉教し、その後大村領では弾圧が続きました。  特に1657年に起こった「郡崩れ」と呼ばれる迫害では400人以上ものキリシタンが斬首となり、この衝撃は大きく、以降、大村湾を囲む大村城下や内海(西彼杵半島の東側)では、キリシタンは姿を消したとされています。一方、角力灘(すもうなだ)に面し断崖絶壁の厳しい環境にあった外海(西彼杵半島の西側)の方は、交通が不便で監視の目も行き届かず、また、黒崎や出津などには佐賀鍋島藩の飛び地があって取り締まりは緩やかだったようです。キリシタンたちは潜伏して、信仰の灯火を絶やすことはありませんでした。  1797年、五島藩からの開拓移民の要請があったとき、外海のキリシタンたちは信仰の安寧の地を求めて、3,000人以上が海を渡って五島へと移住しました。しかし、良好な土地には住めず、山間部のへき地での貧しい暮らしに、《五島へ五島へと皆行きたがる。五島は極楽行ってみて地獄。》といった過酷な生活を物語る歌も残っています。  外海でも五島でも密かに身を隠しながら、キリスト教の教えと信仰は子から孫へと代々伝承され、約250年もの長い間、守り続けられたのです。そして、外海のキリシタンたちが待ち望んだ司祭が登場するのは明治の時代。1879年にパリ外国宣教会のフランス人ド・ロ神父が外海へと赴任してきました。貧困にあえぐ人々を救うために、福祉・医療・産業などの技術を伝授し、教会をつくり、外海の人たちの生活の自立を支援するとともに、その信仰を復活させたのでした。  作家・故 遠藤周作氏もこの町に魅せられたひとり。約3ヶ月に1度のペースで長崎各所を取材するなかで外海も度々訪れ、人々に直接インタビューをしたりしています。キリシタンの里「外海」を舞台に『沈黙』『女の一生』などの小説が誕生しました。遠藤周作こと狐狸庵先生が"心の故郷"として愛したこの地には、1987年(昭和62)に「沈黙の碑」が建立され、2000年(平成12)には「遠藤周作文学館」も完成し、多くの人々が訪れています。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約1日 1沈黙の碑(出津文化村にある外海歴史民俗資料館の前) ↓ 出津文化村の各施設は半径約250mの範囲内にあります 2出津文化村 ↓ 旧出津救助院より約10分 3ド・ロさまのお墓(野道キリシタン墓地) ↓ 車で約10分 + 徒歩で約5分 4バスチャン屋敷 ↓ 車で約20分 + 徒歩で約10分 5枯松神社 ↓ 徒歩で約5分 + 車で約5分 6黒崎教会 ↓ 車で約3分 7長崎市遠藤周作文学館 1沈黙の碑(出津文化村にある外海歴史民俗資料館の前) 遠藤文学の記念碑  遠藤文学の原点ともいえる作品を記念した石碑が、出津文化村にあります。碑には、小説『沈黙』から "人間がこんなに哀しいのに 主よ 海があまりに碧いのです" という一節が刻まれています。この石碑の前に立ち、周りを見渡すと、遠藤周作文学館、碧く輝く角力灘、厳しい迫害を逃れ潜伏キリシタンたちが隠れた山々・・・、断崖絶壁と入り組んだ地形に守られた"トモギ村"の輪郭が浮かび上がります。  角力灘を眺めると、雲間に光を射すその天高くに、神の存在を信じたくなるような…。これほどまでに自然の崇高さを感じることはないと思えるような・・・。ただただ、目の前にある自然の状況を受け入れて見ているしかない感じは、不思議な感動を与えてくれます。沈黙の碑を前に、狐狸庵先生も見た海をいつまでも眺めていたくなりました。 2出津文化村 住民の自立支援を支えたド・ロ神父ゆかりの施設  西出津町にある出津文化村は、「旧出津救助院」「出津教会」「ド・ロ神父記念館」などド・ロ神父ゆかりの施設がある一帯をいいます。救助院前の道を歩いていると、「どこからお見えですか。」と、シスターがやさしく声をかけてくれました。ある雑誌のコラムで、狐狸庵先生がこの路上でシスターと会話していた写真があったのを思い出しました。今も変わらない光景があるのも、外海の魅力だなと思いました。  狐狸庵先生は、ド・ロ神父記念館から出津教会へと続く「歴史の道」を歩きました。この道は、さらに歴史をさかのぼれば、ド・ロ神父やキリシタンも歩いた道。  外海は、『女の一生』に登場する主人公サチ子の女友人の出身地として、この地の暮らしを語るシーンとして登場します。 3ド・ロさまのお墓(野道キリシタン墓地) 外海に一生を捧げたフランス人神父のお墓  出津文化村の旧出津救助院から坂道を下って左へ。出津小学校の方へ向かいましょう。右手にたくさんのお墓が並ぶ斜面が見えてきます。野道橋を渡り、赤煉瓦の門からおじゃまします。  中腹にド・ロ神父の眠る十字架のお墓があります。ド・ロ神父は、当時貧しい生活をしていた外海の人々を救うために、私財を投じて数多くの事業をおこなった人です。パンやマカロニ、製粉、搾油、ソーメンなどの製造を教え、さらにイワシ網工場、農業、土木の技術を指導し、医療活動もしました。あらゆる方面に知識と能力を持っていたド・ロ神父の才能には驚かされます。地元では、いまも神父への敬愛と感謝の気持ちを込めて、「ド・ロさま」と呼ばれ親しまれています。  さらに奥へと進むと、山肌に沿って昔のキリシタン墓碑がたくさん並ぶ光景。代々受け継がれ守られてきた歴史の営みを感じます。 4バスチャン屋敷 日本人宣教師の隠れ家  ド・ロさまのお墓のある野道キリシタン墓地から車で約15分ほど走り、途中から歩いて目的地へ進みます。  宣教師の国外退去命令が下されたとき、外国人神父ジワンは、日本を離れる前に、バスチャンにキリシタン暦の日繰り帳を託しました。バスチャンは日本人の伝道師で、浦上村や外海地区の人々に日繰りや予言などを伝承していた人物です。洗礼名が訛ってバスチャンと呼ばれていたようです。幕府の禁教令によってキリシタンに対しての弾圧が厳しくなり、役人に見つからないように隠れていたといわれる屋敷の跡なので、人影のない暗い山奥にポツンとあります。苔むす林に石積みの家で、キリスト教の教えを説いたのでした。現在は、その跡地に建物が復元されています。  じっと佇むを、静かな林の中から、小説『沈黙』に登場するロドリゴの逃げる足音が聞こえてくるような気がします。 5枯松神社 外国人のサン・ジワン神父を祀った神社と祈りの岩  神社とは、日本固有の神道の神々を祀る建物です。では、なぜ神社にキリスト教の宣教師が祀られているの?と疑問を抱く方も多いはず。通称"キリシタン神社"と呼ばれるこの建物は、日本人伝道師バスチャンが、師と仰ぐジワン神父を祀った神社です。江戸時代の禁教令を取り締まる役人に見つからないように、神社の造りにしてカムフラージュしました。キリシタンだとわかれば苦しい拷問、信仰を棄てなければ殉教。過酷な時代を偲ばせる場所です。  毎年11月3日に開かれる「枯松神社祭」では、カトリックの慰霊ミサとかくれキリシタンのオラショ奉納が一緒におこなわれています。  祠のそばには"祈りの岩"と名付けられた大きな岩があります。潜伏時代に、黒崎地区の人たちが集まって、子どもたちにオラショ(祈り)を伝承したといわれる場所です。 6黒崎教会 外海の丘に建つ赤煉瓦の教会  階段をのぼると、その歴史を物語るようにそびえる立派なソテツが四方に葉を伸ばし、マリアさまの像が旅する人たちをやさしく迎えてくれます。この赤煉瓦の教会は、ド・ロ神父の設計図をもとに、ハルブ神父が赴任した大正時代に完成しました。敷地の造成から始まり、途中資金難により一時建設が中断したことも。子どもたちも煉瓦運びに奉仕するなどして、完成までに計画から20年以上もの歳月がかかったそうです。  この教会の玄関口にある、聖母マリア像が黒崎海岸を見守っています。  狐狸庵先生は、黒崎教会の神父さまや、黒崎に住む人にかくれキリシタンや伝承についてインタビューしたそうです。 7長崎市遠藤周作文学館 遠藤文学の魅力に触れる  外海地区を「神様が僕のためにとっておいてくれた場所」と語ってくれた狐狸庵先生。没後4年目(2000年)にこの文学館がオープンしました。館内には、生前の愛用品や生原稿、足跡を紹介したパネルなどの展示があり、企画展なども開催されています。  今回の旅で、この場所を最後にしたのは、キレイな夕陽を見てほしいからです。日没の時間になったら、さぁ、テラスに出てみてください。赤く水平線に落ちていく太陽を受け入れる海の色は、コースの一番最初に"沈黙の碑"の場所で見た表情とは違っています。陽が沈むと同時に帰ってしまう人も多いと思いますが、それからしばらく微妙に移りゆく空の色の美しさがオススメです。自然のキャンパスに描かれる色彩の変化に心奪われることと思います。  外海の印象は、まさに"光と影"でした。さえぎるもののない太陽の光、ステンドグラスを透過する教会の光、角力灘の波間に反射する波の光、夕陽が染めるオレンジ色の光など、まるで太陽に向かっているように、そして宗教絵画にみるような光の筋。それとは対照的に、禁教で光の届かない山中に隠れなければならなかった歴史の影。訪れるたびに違う大自然の表情が印象的でした。  外海地区は、歴史の歩みの積み重ねによって醸し出されている独特の空気が、自然おりなす美しい景観を包み込むような町です。 旅人コメント 「歩いて約2分のところに、<道の駅 夕陽が丘そとめ>があります。バイキング形式で地元の料理を楽しめます。いろんな種類があって、ド・ロ神父の故郷であるフランスのヴォスロールの郷土料理もあるんですよ。ヘルシーな田舎料理ということで人気だそうです。」 参考文献: 『沈黙』 著/遠藤周作 発行/新潮社 1966年 『女の一生 二部』 著/遠藤周作 発行/新潮社 『旅する長崎学4 キリシタン文化4』 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 『旅する長崎学5 キリシタン文化5』 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 『旅する長崎学6 キリシタン文化 別冊 総集編』 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2007年 写真資料: 「出津文化村遠景(旧外海町)」 長崎県観光連盟 「長崎市遠藤周作文学館 書斎コーナー」 長崎県観光連盟 スタート地点までのアクセス 沈黙の碑 所在 長崎県長崎市出津(出津文化村内にある外海歴史民俗資料館の前) 開館時間 見学自由 アクセス 車… JR長崎駅周辺より国道202号線を北上し約50分。JR佐世保駅周辺より国道202号線を南下し約85分。 バス J長崎駅前・長崎新地バスターミナルより[板の浦(桜の里ターミナル経由)]行きに乗車して約1時間15分、<出津文化村>で下車、徒歩で約5分。 * 直行は朝と夕方のみ。<桜の里ターミナル>で[板の浦]行きに乗り換えることもできます。 * 事前に帰りのバスの時刻を確認しましょう。 高速バス --昼行便-- 長崎空港から約35分(長崎バス・長崎県営バス) 佐世保から約1時間30分(長崎県営バス・西肥バス) ハウステンボスから約1時間5分(西肥バス) 福岡から約3時間(九州急行バス) 北九州から約3時間(長崎県営バス) 大分・別府から約3時間45分(長崎バス・長崎県営バス) 熊本から約3時間(長崎県営バス) 宮崎から約5時間20分(長崎県営バス) --夜行便-- 名古屋から約12時間(長崎バス) 大阪(梅田)から約10時間10分(長崎県営バス) 京都・大阪から約11時間30分(長崎バス) 姫路・神戸から約10時間(長崎バス) 電車… 博多駅方面から[特急かもめ]に乗る! <JR博多駅>より[特急かもめ]に乗車し、<JR長崎駅>で下車(所用時間は約2時間)。鳥栖より約1時間。佐賀より約1時間25分。諫早より約20分。JR長崎駅からは路面電車・バスまたはタクシーをご利用下さい。 佐世保方面から[快速シーサイドライナー]に乗る! <JR佐世保駅>より[快速シーサイドライナー]に乗車し<JR長崎駅>で下車(所要時間は約1時間45分)。ハウステンボスより約1時間20分。大村より約35分。長崎駅からは路面電車またはタクシーをご利用下さい。 飛行機で長崎へ行く! 東京(羽田空港)から約1時間40分 大坂(伊丹空港)から約1時間10分 名古屋(中部)から約1時間20分 沖縄(那覇空港)から約1時間30分 宮崎から約40分 鹿児島から約35分 *各空港から<長崎空港>に着陸。長崎バスもしくは県営バスの[長崎空港線エアポートライナー・出島道路経由]に乗車し<長崎新地バスターミナル>へ約35分。 ●各出発点へのアクセスは「ながさき旅ねっと アクセス」をご覧ください。
  • 第14回 小説の舞台を歩く(1) 2007年10月17日
    第14回 小説の舞台を歩く(1)
    〜遠藤周作・長崎編〜  劇的な歴史的背景を持つ長崎県は、文学、史学、音楽、芸能、宗教などなど、様々な分野に携わる人々を魅了し続けてきました。  作家・故 遠藤周作さんを、「長崎県人」だと思っている人は案外多いのではないでしょうか。小説を書こうとするときは、まず長崎が眼にうかぶとおっしゃるほどまでに長崎を愛し、幾度も取材で訪れ、心の故郷と言ってくださった方です。遠藤文学のファンは多く、いまも遠藤先生の足跡をたどる旅や小説の舞台をめぐる旅に出かける人たちもたくさんいるようです。  遠藤周作こと狐狸庵先生が長崎の街を初めて訪れたのは1964年のことでした。ふらりと立ち寄った南山手十六番館(現在閉館)、ふと足を止めた彼の目に映ったものは、黒い足指と磨耗したキリストの顔が置かれた一枚の"踏絵"。この踏絵との衝撃的な出会いが小説『沈黙』執筆の原点になったのです。狐狸庵先生は、3ヶ月に1度くらいのペースで、キリシタンゆかりの地を精力的に取材し、長崎を舞台にした作品を手掛けました。今回は、遠藤周作こと狐狸庵先生が訪れた場所に注目して、長崎市街のキリシタンの歴史をたどってみることにします。 歴史のとびら  作家・故 遠藤周作は、キリスト教をテーマに、心の奥深くに潜む日本人の本質に鋭く迫った作品を数多く残した作家です。  少年時代に戦争を経験。幼少の頃にキリスト教の洗礼を受けています。フランス留学の後、『白い人』『海と毒薬』などの小説を発表しました。  41歳のときに取材旅行で初めて訪れた長崎。16世紀後半にはキリシタンの町として南蛮文化が華開き、その後の禁教令と迫害、そのなかで密かに信仰を紡いできた歴史的な背景をもつ長崎の地で、西欧の文化・宗教を前にした日本人の葛藤とその根底にある深い歴史を吸収し、作品へと反映したのではないでしょうか。  長崎を舞台にした作品は、禁教時代の厳しい弾圧の長崎を舞台にキリスト教に転んだ(棄教)ポルトガル人宣教師の心の模様を描いた小説『沈黙』、禁教下でキリシタンとして捕らえられた浦上村の女性を描いた『女の一生』があります。また、自らを狐狸庵としてユーモラスなエッセイや長崎の旅の様子を紹介したコラムなども数多く執筆しています。  今回は、狐狸庵先生の取材した長崎市街のスポットを歩いてみましょう。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約4時間 img/sub/map_point2.gif' alt='2' />2晧臺寺(こうたいじ) ↓ らんらんバスで約10分 or 徒歩で約25分 img/sub/map_point4.gif' alt='4' />4西勝寺 ↓ 徒歩で約20分 img/sub/map_point6.gif' alt='6' />6南蛮船来航の波止場跡の碑(長崎県庁付近) 1風頭公園 禁教時代の風景を想い描く  長崎市のほぼ中心に位置する風頭公園。古い町並みを残す寺町界隈から一本脇道の"龍馬通り"へと入ります。坂本龍馬が一時住んでいたという場所へ行く通りは、階段が続くなんとも長崎らしい坂道です。さて、山手へと進んで、緑生い茂る風頭公園の展望台へと向かいましょう。  狐狸庵先生はこの公園を訪れ、眼下に広がる長崎の風景を眺めながら、16世紀の長崎の街とポルトガル船が入ってきた頃の港の様子に思いを馳せました。  現在の県庁が在るあたりを見てみましょう。江戸町から万才町付近です。1570年(元亀1)、キリシタン大名の大村純忠が長崎の開港を決め、翌年にはポルトガル船が初入港。"長い岬の台地"には新しい町6町、島原町・平戸町・大村町・横瀬浦町・外浦町・分知(文知)町がつくられ、他の領地から追放されたキリシタンたちが移り住みます。さながら"小ローマ"のようだと称され、1580年には茂木とともにイエズス会に寄進されました。この岬の突端が現在の県庁のところで、当時は教会・コレジヨ(キリシタン学校)・イエズス会の本部が設置され、日本におけるキリスト教布教の中心でした。  今回の歴史散歩では、山の裾野に広がる長崎市街の界隈をぐるっと歩いてまわります。この風頭山から、すり鉢の底のような長崎の地形をじっくり観察しておきましょう。歴史ガイドブック『旅する長崎学』を愛用してくださっている方は、『キリシタン文化Ⅰ』の35ページに掲載されている「寛永長崎港図(部分) 長崎歴史文化博物館蔵」と比較しながら眺めると、当時の様子がイメージできますよ! 2晧臺寺(こうたいじ) 『沈黙』に登場するフェレイラの墓探し  小説『沈黙』では、"フェレイラ"が住んでいたお寺という設定で、ここ晧臺寺が登場します。  フェレイラは、17世紀の日本に実在した人物です。彼は日本で布教活動をしていたイエズス会のポルトガル人宣教師で、徳川幕府の禁教令によって捕らえられ、厳しい拷問の末、殉教することなくキリスト教を棄てて改宗し、日本名を沢野忠庵と名乗り生き続けた人物です。  小説では、仏教に改宗したフェレイラと、日本へと潜入し幕府に捕らえられた主人公ロドリゴが面会するシーンが、この境内を舞台に繰りひろげられます。  実は狐狸庵先生、晧臺寺にあるものを探しにやってきました。それはフェレイラが眠るお墓でした。結局、先生は境内の裏山に並ぶ墓地から見つけることはできずに長崎の旅を終えたようです。気になるフェレイラのお墓の謎を探るべく、いざ晧臺寺へ!  このお寺では毎週土曜日に坐禅会が催されています。特別に撮影の許しをいただき坐禅体験にも参加させてもらいました。蝋燭の火が灯る僧堂に入り、呼吸を整えて自分の心と向き合い、静かに時が流れていきます。坐禅を終えて、さっそく方丈さまにフェレイラのお墓はどこにあるのか質問してみました。「昔はこの裏山にフェレイラのお墓があったそうですが、関係者の方の手によって東京へとお墓を移したと聞いていますよ。」と教えてくださいました。坐禅の様子は、歴史発見コラムの第26回(10/17更新)をご覧ください。 3レストラン「銀嶺」(長崎歴史文化博物館の敷地内) 狐狸庵先生、長崎の味に舌鼓!  狐狸庵先生は、長崎での取材のときには、お気に入りのお店にも足を運ばれたようです。そのなかのひとつ「銀嶺」をご紹介しましょう。朝食をとったり、取材の合間に珈琲を飲んで休憩したり、仲間の皆さんと一緒にお酒を飲んだりと、馴染みのお店だったそうです。  銀嶺は、先ほどご紹介した晧臺寺(こうたいじ)にほど近く、鍛治屋町通りと崇福寺通りの交差する一角に西洋料理の老舗として店を構えていました。現在は、立山にある長崎歴史文化博物館の敷地内へと移転。店内に一歩入ると、当時の面影を残す骨董品が各所に飾られています。狐狸庵先生も飲んだという珈琲を一杯いただいて、ちょっと一休み。  このお店の橋本京子様に、狐狸庵先生との思い出をインタビューしてきました。歴史発見コラムの第27回(10/24更新)もご覧ください。 4西勝寺 フェレイラのサインを発見!  浄土真宗西本願寺の西勝寺には、「キリシタンころび証文」(上写真)が歴史的な資料として大切に保管されています。これは、厳しい弾圧に堪えかねて改宗を誓った九介夫婦の証文です。奉行所に提出するはずのものですが、誤って書き損じた証文がこのお寺に残ったそうです。残念ながら、この証文は非公開です。  キリスト教を棄て、宣教師の身分をすてたポルトガル人フェレイラは、「キリシタン目明し」という全く逆の立場になってしまいます。潜伏するキリシタンを見つけては長崎の奉行所へ通報し、ころび証文にサインをする。そんなフェレイラの姿が目に浮かびます。  狐狸庵先生は、このころび証文を手にとり、沢野忠庵となったフェレイラのサインを見て「その文字、まことにあわれだった。(「切支丹時代の智識人」『展望』昭和41年1月号より引用)」とコメントを残しています。 5長崎奉行所西役所の跡 フェレイラが拷問を受けた場所  今回のコースのスタート地点・風頭山からイメージして眺めた"長く突き出た岬"を覚えていますか。その岬の突端が現在の長崎県庁です。ここには、1571年(元亀2)、新しい長崎の町づくりとともに、岬の教会と呼ばれた「サン・パウロ教会」が建ちました。幾度かの建て替えや破壊を経て、1593年頃には日本のイエズス会本部が置かれ、1601年には当時の日本で最も大きく美しいといわれた「被昇天のサンタ・マリア教会」が完成しました。しかし、1614年には徳川幕府の禁教令で破壊され、跡地には長崎奉行所西役所ができました。この場所は、フェレイラが"穴吊り"という拷問を受けたところです。  狐狸庵先生は、夜の県庁通りを歩くとき、酒に酔いながらもふとフェレイラの痛ましい呻き声が聞こえるような気がしたそうです。 6南蛮船来航の波止場跡の碑(長崎県庁付近) キリシタンの歴史を刻む長崎港  狐狸庵先生は、県庁坂を海の方へおりて、潮の香りがする大波止にでました。  長崎県庁前の坂の途中に「南蛮船来航の波止場跡」の碑があります。レトロに佇む県庁第三別館(1923年創建)の玄関入口の左脇です。  この碑を目印に路地へ入るとすぐ「江戸町公園」があって、県庁の裏手の石垣を見ることができます。この石垣の下の方は、長崎奉行所時代のものと思われ、昔はここが岬の突端で、周辺は海だったことを物語っています。16世紀後半の長崎港には、赤い十字のマストを張ったポルトガル船が停泊し、ここから天正遣欧少年使節がローマへと旅立ちました。17世紀になって、禁教令で捕らえられた外国人宣教師たちが船に乗せられて追放されたのもこの港でした。  狐狸庵先生の小説の舞台となった長崎を歩く歴史の旅。今回は、狐狸庵先生が取材したキリシタンゆかりの場所に注目して長崎市街を巡りました。狐狸庵先生は3ヶ月に一度のペースで、長崎市街だけでなく県内各地を入念に取材しています。隠れキリシタンの里として知られる外海、島原の乱の舞台となった島原半島、キリシタンの里の浦上、教会が点在する五島など。次回は外海をご紹介しますのでお楽しみに! 参考文献: 『沈黙』 著/遠藤周作 発行/新潮社 1966年 『旅する長崎学1 キリシタン文化1』 企画/長崎県 制作/長崎文献社 『旅する長崎学4 キリシタン文化4』 企画/長崎県 制作/長崎文献社 『批評』「沈黙フェレイラについてのノート」昭和42年4月号 『沈黙の声』プレジデント社 平成4年7月 『芸術生活』「踏絵」 昭和39年6月 『夕刊フジ』「コクのある長崎の街を歩く」 昭和52年9月13日 『毎日新聞』走馬燈6長崎<フェレイラのこと> 昭和51年3月7日 『夕刊フジ』「怪しい者ではありません」昭和52年9月13日 写真資料: 「長崎市遠藤周作文学館 書斎コーナー」 長崎県観光連盟 「風頭公園より長崎市街夜景」 長崎県観光連盟 「きりしたんころび証文」 西勝寺蔵 「長崎奉行所(西役所)」 長崎県観光連盟 スタート地点までのアクセス 風頭公園 所在 長崎市伊良林3-516-6 お問い合わせ先 長崎市役所 みどりの課(長崎市桜町2-22 TEL/095-829-1171) 駐車場 なし 長崎市の公園 http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/kouen/ アクセス バス JR長崎駅方面より長崎バス[風頭山]行きに乗車し終点<風頭山>で下車し、徒歩で約10分。 路面電車… [3番・蛍茶屋-赤迫][4番・蛍茶屋-正覚寺][5番・蛍茶屋-石橋]に乗車し<公会堂前>もしくは<新大工町>で下車し、龍馬通りの坂を上り約25分。 車… JR長崎駅より長崎市公会堂(魚の町)付近で車を駐車。龍馬通りの坂を上り約25分。 長崎自動車道をご利用の場合、川平ICより長崎バイパス(西山トンネル)を通り西山方面でおりる。県道235号線を走って約10分、長崎市公会堂(長崎市魚の町)付近で駐車。徒歩で約10分。 高速バス --昼行便-- 長崎空港から約35分(長崎バス・長崎県営バス) 佐世保から約1時間30分(長崎県営バス・西肥バス) ハウステンボスから約1時間5分(西肥バス) 福岡から約3時間(九州急行バス) 北九州から約3時間(長崎県営バス) 大分・別府から約3時間45分(長崎バス・長崎県営バス) 熊本から約3時間(長崎県営バス) 宮崎から約5時間20分(長崎県営バス) --夜行便-- 名古屋から約12時間(長崎バス) 大阪(梅田)から約10時間10分(長崎県営バス) 京都・大阪から約11時間30分(長崎バス) 姫路・神戸から約10時間(長崎バス) 電車… 博多駅方面から[特急かもめ]に乗る! <JR博多駅>より[特急かもめ]に乗車し、<JR長崎駅>で下車(所用時間は約2時間)。鳥栖より約1時間。佐賀より約1時間25分。諫早より約20分。JR長崎駅からは路面電車・バスまたはタクシーをご利用下さい。 佐世保方面から[快速シーサイドライナー]に乗る! <JR佐世保駅>より[快速シーサイドライナー]に乗車し<JR長崎駅>で下車(所要時間は約1時間45分)。ハウステンボスより約1時間20分。大村より約35分。長崎駅からは路面電車またはタクシーをご利用下さい。 飛行機で長崎へ行く! 東京(羽田空港)から約1時間40分 大坂(伊丹空港)から約1時間10分 名古屋(中部)から約1時間20分 沖縄(那覇空港)から約1時間30分 宮崎から約40分 鹿児島から約35分 *各空港から<長崎空港>に着陸。長崎バスもしくは県営バスの[長崎空港線エアポートライナー・出島道路経由]に乗車し<長崎新地バスターミナル>へ約35分。 ●各出発点へのアクセスは「ながさき旅ねっと アクセス」をご覧ください。
  • 第13回 学び舎の丘 南山手&出島を歩く 2007年10月03日
    第13回 学び舎の丘 南山手&出島を歩く
    〜宣教師からはじまった日本の教育革命〜  ペリーが浦賀(神奈川)に来航したことをきっかけに、日本はアメリカをはじめ世界5ヶ国と修好通商条約を結びました。鎖国から開国と近代への幕開け。徳川幕府が禁教令を出してから254年という時を経た1859年、キリスト教の宣教師たちが日本の土を踏み、プロテスタント教会ははじめての宣教を、カトリック教会は再宣教をスタートさせました。外国人宣教師たちは、布教活動とともに学校や教会を設立し、教育や福祉などにも力を注ぎました。やがて長崎市の南山手・東山手には学校が建ち並び、"学び舎の丘"となりました。今回は、南山手と出島を散策します。 歴史のとびら  1853年(嘉永6)にペリー提督の黒船が浦賀へと入港したことを機に、1858年(安政5)、江戸幕府はアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5ヶ国と修好通商条約の調印をおこないました。翌年6月30日には長崎・横浜・函館が開港。鎖国から開国へ、近代日本の幕開けです。それは、徳川幕府が禁教令を発布してから約245年後、鎖国の完成から約220年後のことでした。  1863年(文久2)、パリ外国宣教会(カトリック系)のフューレ神父が、長崎の居留地・南山手へとやってきました。そして、教会堂の建設に着手し、翌年には彼の後を引継いだプチジャン神父によって完成。この教会堂は「日本二十六殉教者教会」と名付けられ、当時の日本人はこの美しくめずらしい教会を「フランス寺」と呼びました。現在の国宝"大浦天主堂"です。1865年(慶応1)3月17日、まだ徳川幕府の禁教令は解かれていませんでしたが、浦上村で密かに信仰を守り続けていたキリシタンたちが、こっそり「フランス寺」にやってきました。彼らは厳しい迫害や弾圧に耐え、潜伏しながらマリア信仰をよりどころに、先祖から伝えられた「パードレ(神父)の再来」という伝承を信じ抜いていました。プチジャン神父と浦上村の信徒との出会いは、約250年もの時を越えた信仰表明の瞬間!厳しい禁教下にあった日本にキリシタンが存在していた奇跡「信徒発見」は、プチジャン神父の感動の報告によって海外でも知られるところとなりました。このできごとをきっかけに、各地で信仰を表明する信徒たちが相次ぎ、キリスト教の教理を学ぶために大浦天主堂にやってきました。日本全国から訪れる信徒のために、司祭館の天井裏を改造してつくった秘密の仮聖堂から、密かにはじまった礼拝と学習。やがて司祭を育てる〔長崎公教神学校〕が誕生しました。  また、プチジャン神父の要請によって来日したショファイュの幼きイエズス修道会のマリー・ジュスティヌらが、居留地・大浦にカトリック系の修道院を開設し、〔伝道婦養成学校〕〔センタンファス(児童福祉施設) 〕〔聖心女学校(のち清心女学校)〕を開きました。  長崎の居留地には外国人の宣教師たちによって多くの学校が誕生し、将来を夢見る多くの学生が勉学に励んだのでした。宣教師たちの情熱は、邦人司祭の養成によって日本カトリック教会の自立をめざすことはもちろん、布教だけでなく、「教育」や「福祉」の面にも注がれ、日本近代化の第一歩に貢献したのです。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約2時間30分 img/sub/map_point2.gif' alt='2' />2東山学院校舎〔旧スチイル記念館(グラバー園内)) ↓ 徒歩で約15分 img/sub/map_point4.gif' alt='4' />4旧出島神学校(史跡「出島和蘭商館跡」の敷地内) 1旧羅典神学校〔キリシタン資料館(大浦天主堂の敷地内) 〕 司祭を目指す少年たちの学び舎  国宝大浦天主堂と赤煉瓦の旧司祭館の間にある建物が旧羅典神学校です(赤い矢印のところ)。現在は、キリシタン資料館として一般に公開されています。  旧羅典神学校は、司祭を志す少年たちの学び舎で、正式な名称は「長崎公教神学校」。講義が全てラテン語でおこなわれたので羅典神学校とよばれたそうです。  開国後の居留地に建てられた大浦天主堂で、パリ外国宣教会のプチジャン神父と浦上村の潜伏キリシタンが奇跡的な出会い(信徒発見)をしてから、キリスト教への信仰を表明する信徒たちが各地からこの教会にやってきました。まだ世間の監視の目が厳しい禁教令下。美しくめずらしい教会を見物に来る信徒以外の人々もたくさんいましたから、危険を侵してもなお訪れる信徒のために、天井裏を改造して「無原罪の御やどりの間」という秘密の仮聖堂をつくり、礼拝と学習がおこなわれました。これが始まりとなった長崎公教神学校では、司祭を目指す少年たちをかくまい、教育をおこないました。この学校から、開国後初の日本人司祭が誕生し、日本カトリック教会の自立の第一歩となりました。  現在の建物は、1875年(明治8)、ド・ロ神父の設計・監督で新設された校舎。屋根は日本風の瓦で、窓やベランダといった開口部が西欧の意匠とうまく溶け込んだ開放的な印象の学び舎です。この校舎で学生たちは、予科と本科あわせて12年間を学んだそうです。 2東山学院校舎〔旧スチイル記念館(グラバー園内)〕 スチール・アカデミー(東山学院)として利用された学び舎<プロテスタント系>  前回のながさき歴史散歩「第12回 学び舎の丘 東山手を歩く」でご紹介した東山学院(とうざんがくいん)の校舎は、現在、グラバー園内へと移築されて旧スチイル記念館として一般に公開されています。ヘンリー・スタウトさんが東山手に構えた自宅の書斎を開放して始めた英語塾は、閉鎖・再開を経て、聖書や神学を教える長崎神学校になりました。その後、この長崎神学校は、アメリカ改革派教会外国伝道局長のスチールさんの寄付で開校した「スチール・アカデミー」と合併し、官立学校に並ぶ資格を持つ学校となったのです。アカデミー自体は1932年(昭和7)に明治学院(東京)と合併し、約50年続いた長崎での歴史に幕を閉じました。旧英国領事館の跡(東山手9番)に建っていた学び舎は、長崎公教神学校、東陵中学校(現:長崎南山学園)、海星学園の校舎として利用されました。広い教室にモダンな暖炉を兼ね備えた校舎は、明るく開放的だったことでしょう。1972年(昭和47)、グラバー園内に移築されました。  グラバー園内でちょっと休憩♪♪♪「自由亭」で長崎スイーツをいただきました。珈琲と「ハートストーンプレート(735円)」を注文。チョコ味のカステラにバニラアイスとビターなチョコソースがピッタリなお味です。生クリームと一緒に添えられたお菓子は、園内に敷き詰められた石だたみの中から運良く見つけることができると恋がかなうという、ハート型のラッキーストーンをイメージしています。あなたもラッキーストーンも探してみて! 長崎港の風景を眺めながらのティータイムはとってもおしゃれな時間でした。 3マリア園 "フランス学校"と呼ばれた聖心女学校<カトリック系>  今も居留地時代の面影を残す洋館が建ち並ぶ南山手の風景のなかを心地よく歩きます。グラバー園の出口から浪平小学校へと続く石だたみの「グラバー通り」を少し行くと、杠葉病院(ゆずりはびょういん)の斜め向かいに見えてくるのが、南山手の風景を代表する煉瓦づくりのマリア園です。  この木々に囲まれた赤い煉瓦造りの3階建ての建物は、1898年(明治31)に新築移転された聖心女学校の聖堂で、東山手の海星学校と同じマリア会のセネンツの設計によって建てられました。この移転を機に「清心女学校」と改めました。  1891年(明治24)に開校した「聖心女学校」は、大浦天主堂で浦上村の潜伏キリシタンと出会ったパリ外国宣教会のプチジャン神父の要請で、フランスに本部をもつ「ショファイュの幼きイエズス修道会」から派遣されたマリー・ジュスティヌら4人のシスターが開設した修道院がはじまりです。明治期唯一のカトリック系女学校で、宗教・国籍を問わず日本人と外国人がともに寄宿し、フランス学校と呼ばれていました。  非公開なので写真撮影の許可をいただくために入口まで来たとき、何か視線を感じて上を見上げると・・・。目が合ったのは、羽を広げた大天使ミカエルの像。かわいらしいピンクの窓辺から矢をはなとうとする姿に、しばらく見とれていました。屋根の窓もステキです。本館の横が礼拝堂になっています。  現在は、清心修道会(女子修道会)の本館として使用され、児童福祉施設マリア園を運営しています。 4旧出島神学校(史跡「出島和蘭商館跡」の敷地内) 聖アンデレ神学校から出島英和学校としてスタート<プロテスタント系>  昔は扇の形をしていた出島。復元整備が進む史跡「出島和蘭商館跡」を訪ねました。  十字架を仰ぐ薄いブルーの建物は、出島英和学校、聖アンデレ神学校の校舎として使われた旧出島神学校です。イギリス教会宣教会のバーンサイドの女学校設立への思いを引き継いだ後任のモンドレルは、1879年(明治12)に、混血児や日本人児童のための出島英和学校をつくりました。しかし生徒数の減少で閉鎖し、ここへ1877年(明治10)から自宅で開いていたと思われる「聖アンデレ神学校」を移して校舎としましたが、モンドレルの意に反して、長崎の神学生は大阪聖三一神学校へと編入させられることになり、1886年(明治19)に閉校。廃校となったこの学び舎は民間病院として一時利用されましたが、半解体修理工事によって復元され、現在、史跡「出島和蘭商館跡」の敷地内で、1階は料金所、お土産品店、企画展示室、2階では17世紀の出島の様子が描かれた絵図をもとに再現したビリヤード台やカルタなど、オランダ商館員たちの文化や遊びを体験できる展示室として一般公開されています。 今回、ご紹介した学校は、東京・大阪・福岡の学校へと合併され、長崎での歴史には幕を閉じてしまいましたが、外国からやってきた多くの宣教師たちが蒔いた教育の種は、情熱のうちに長崎で育まれ、その活動が全国へと遷り各地で開花しました。今では昔の建物が当時の面影を残し、その歴史を語りかけてくれます。 参考文献: 『旅する長崎学5 キリシタン文化5』企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 スタート地点までのアクセス 大浦天主堂 所在 長崎県長崎市南山手町5-3 お問い合わせ先 095-823-2628 大浦天主堂HP http://www9.ocn.ne.jp/~oura/ 開館時間 8:00〜18:00(入館17:45迄) 休館日 なし 料金 大人300円 中・高校生250円 小学生200円*キリシタン資料館の旧羅典神学校の見学料を含む。 アクセス 車… JR長崎駅より国道499号線を南へ走り約7分「松が枝駐車場」に車をとめて、徒歩で約10分。 長崎自動車道をご利用の場合は〔ながさき出島道路〕出口を左折して国道499号線を約500m進み「松が枝駐車場」で車をとめて、徒歩で約10分。 路面電車… <長崎駅前>電停のAホームより〔1番・正覚寺-赤迫〕行きに乗車、<築町>で乗換券をもらって下車。反対側のホームに移動して〔5番・石橋-蛍茶屋〕行きに乗車し<大浦天主堂下>で下車、徒歩で約10分。 バス 長崎バスの[小ヶ倉][ダイヤランド][香焼][深堀]行きに乗車し≪グラバー園入口≫で下車し、徒歩で約8分。もしくは長崎バス[田上・太平橋]行きに乗車して≪大浦天主堂≫で下車し、徒歩で約5分。 高速バス --昼行便-- 長崎空港から約35分(長崎バス・長崎県営バス) 佐世保から約1時間30分(長崎県営バス・西肥バス) ハウステンボスから約1時間5分(西肥バス) 福岡から約3時間(九州急行バス) 北九州から約3時間(長崎県営バス) 大分・別府から約3時間45分(長崎バス・長崎県営バス) 熊本から約3時間(長崎県営バス) 宮崎から約5時間20分(長崎県営バス) --夜行便-- 名古屋から約12時間(長崎バス) 大阪(梅田)から約10時間10分(長崎県営バス) 京都・大阪から約11時間30分(長崎バス) 姫路・神戸から約10時間(長崎バス) 電車… 博多駅方面から[特急かもめ]に乗る! <JR博多駅>より[特急かもめ]に乗車し、<JR長崎駅>で下車(所用時間は約2時間)。鳥栖より約1時間。佐賀より約1時間25分。諫早より約20分。JR長崎駅からは路面電車・バスまたはタクシーをご利用下さい。 佐世保方面から[快速シーサイドライナー]に乗る! <JR佐世保駅>より[快速シーサイドライナー]に乗車し<JR長崎駅>で下車(所要時間は約1時間45分)。ハウステンボスより約1時間20分。大村より約35分。長崎駅からは路面電車またはタクシーをご利用下さい。 飛行機で長崎へ行く! 東京(羽田空港)から約1時間40分 大坂(伊丹空港)から約1時間10分 名古屋(中部)から約1時間20分 沖縄(那覇空港)から約1時間30分 宮崎から約40分 鹿児島から約35分 *各空港から<長崎空港>に着陸。長崎バスもしくは県営バスの[長崎空港線エアポートライナー・出島道路経由]に乗車し<長崎新地バスターミナル>へ約35分。 ●各出発点へのアクセスは「ながさき旅ねっと アクセス」をご覧ください。
  • 第12回 学び舎の丘 東山手を歩く 2007年09月19日
    第12回 学び舎の丘 東山手を歩く
    〜宣教師からはじまった日本の教育革命〜  ペリーが浦賀(神奈川)に来航したことをきっかけに、日本はアメリカをはじめ世界5カ国と修好通商条約を結びました。 鎖国から開国と近代への幕開け。 徳川幕府が禁教令を出してから245年という時を経た1859年、キリスト教の宣教師たちが日本の土を踏み、プロテスタント教会は初めての宣教を、カトリック教会は再宣教をスタートさせました。 外国人宣教師たちは、布教活動とともに学校や教会を設立し、教育や福祉などにも力を注ぎました。  やがて長崎市の東山手に建ち並んだ学校は、日本各地に点在するミッション・スクールの基盤となりました。 今回は、"学び舎の丘"となった東山手をご紹介します。 歴史のとびら  1853年(嘉永6)にペリー提督の黒船が浦賀へと入港したことを機に、1858年(安政5)、江戸幕府はアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5ヶ国と修好通商条約の調印をおこないました。 翌年6月30日には長崎・横浜・函館が開港。鎖国から開国へ、近代日本の幕開けです。 それは、徳川幕府が禁教令を発布してから約245年後、鎖国の完成から約220年後のことでした。  一番乗りはプロテスタント教会の宣教師リギンズで、長崎・横浜・函館が開港される約2ヶ月前の1859年5月3日に長崎へやってきました。 まだキリスト教の信仰が認められていない日本でしたが、中国や日本での宣教の機会をうかがっていたプロテスタント教会は、「将来的にはアメリカ人による宣教活動が有利で、そのスタート地点は長崎が最適」と判断して、アメリカ監督教会の宣教師リギンズを英語教師として長崎に派遣したのです。 その後、日本聖公会初代主教となるC.M.ウィリアムズや、近代日本建設の父といわれるフルベッキなど、プロテスタント教会の宣教師たちが次々と来崎しました。  開港直後から、大浦湾の埋め立てがおこなわれ、東山手と南山手には外国人が住む居留地がつくられました。 1862年11月、東山手に日本で初めてプロテスタント教会が建ちました。 東山手に住んだ外国人宣教師たちは自宅の一角に塾を開くなどして、そこから学校をスタートさせていきます。 東山手には、ラッセル&ギールの活水学院(プロテスタント系)、ロングのカブリー・セミナリー〔英和学校 のちの鎮西学院〕(プロテスタント系)、スタウト夫妻のスチール・アカデミー〔東山学院〕とスタージェス・セミナリー〔梅香崎女学校〕(いずれもプロテスタント系)、グッドオールの長崎女学校(プロテスタント系)、バルツの海星学校(カトリック系)、ジュスティヌの聖心女学校(いずれもカトリック系)などが誕生し、まさに学び舎の丘となったのです。 宣教師が貢献した学校の設立・運営は、日本の近代化における新しい教育革命となったのです。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:約1時間30分 img/sub/map_point2.gif' alt='' />2活水学園 ↓ 徒歩で約30秒 img/sub/map_point4.gif' alt='' />4英国聖公会会堂跡の碑 ↓ 徒歩で約5分 img/sub/map_point6.gif' alt='' />6海星学園 1オランダ坂 今も昔も学生さんたちの通学路!  明治時代、東山手一帯は外国人の居留地で、洋風の建物が建ち並んでいました。 教会に向かって舗装された石だたみの坂道を、日曜日の礼拝のために外国人が往来する風景が印象的だったことからオランダ坂と呼ばれるようになったそうです。 そんな石だたみのオランダ坂は、いまや長崎を代表する観光地として有名になっていますが、今も学生さんたちが賑やかに行き交う通学路として、生活のある風景が見られます。 オランダ坂をのぼった東山手の丘には活水女子大学と海星学園があるのです。 歴史的な情緒ある環境のなかにある学校に通う学生の皆さん、羨ましいですね。  オランダ坂の石碑の奥にある洋館は東山手十三番館。 フランス代理領事を務めたアンドレ・ブリキさんが住んでいた洋館です(非公開)。 観光で訪れた人たちも足を止めて記念のスナップを撮っています。  さあ、このオランダ坂をのぼって東山手を散策しましょう。 2活水学院 生命の水湧きいづる教育をめざす<プロテスタント系>  女子教育のための宣教師の要請を受けて、長崎へと派遣されてきたのはアメリカ人のラッセル女史(43歳)とギール。 2人が日本にやってきたのは、今から約130年ほど前の1879年のこと。 活水学院の本館のある場所に住んだ2人をたずねてきた女の子が第1号の生徒となって、3人でスタートした女学校です。 ラッセル女史は、アメリカへ帰国する83歳までこの学校で教鞭をとっていたそうです。  建築家ヴォーリズが設計した洋風建築は異国情緒を漂わせ、赤い屋根は長崎港からも一目でわかる東山手のシンボル的な存在です。 さだまさし原作の映画『解夏』にも登場しました。  ふつうは一般には非公開ですが、活水女子大学は地域と密着したイベントとしての音楽会や、長崎の歴史を学ぶ講座を開講するなどしていますので、長崎を訪れる際はチェックしてみてくださいね。  モダンな学び舎で育った卒業生には、学習院(東京)の校医となった一期生・井上トモさんや、日本の女性ではじめて大臣となった中山マサさんたちがいます。 梅香崎女学校  この活水学院の敷地内には、むかしエリザベス・スタウトさんが設立した梅香崎女学校がありました。 現在ある活水学院本館西側から1号館の間にあったそうです。 この女学校は、スタウトさんが自宅で英語や洋裁などを女性たちに教えたのがはじまりです。 のちにアメリカ改革派教会婦人外国伝道局長スタージェス夫人の支援によって、東山手十四番に「スタージェス・セミナリー(梅香崎女学校と改称)」ができ、静粛優美な婦人の養成がおこなわれました。 しかし、1914年、下関の梅光女学校(梅光学院)に合併して、長崎での歴史を閉じました。  ちなみに夫のヘンリー・スタウトさんがはじめた英語塾は、のちに聖書や神学を教える私塾として再開され、長崎神学校となりました。 この長崎神学校と、東山手九番にアメリカ改革派教会外国伝道局長スチールの寄付によってできた「スチール・アカデミー(東山学院)」とが合併し、官立学校に並ぶ資格を持つ学校となりました。 校舎は、同じ東山手、現在の海星中学シャミナード寮と誠孝院のあいだに建っていました。 1932年に東京の明治学院と合併。 長崎での歴史は閉じましたが、校舎はグラバー園内に移築され、スチイル記念館として残っています。 次回の第13回のながさき歴史散歩でご紹介します! 3東山手十二番館 開国後、日本で最初の領事館  活水女子大学の隣にある十二番館は、ロシア領事館(1860)、アメリカ領事館、住宅として使用された洋館です。 領事館の設置はこの建物が日本で最も古く、さらに東山手で一番古い洋館として国指定の重要文化財となっています。 現在は、東山手の歴史や当時の生活の様子が学べる資料館として活用されています。 4英国聖公会会堂(イギリス教会宣教会)跡の碑 日本で最初のプロテスタント教会  東山手十六番館の赤レンガに沿って坂をのぼり道路を渡ると、さらに階段が! 息を切らしながらのぼると、右手に記念碑がありました。 1862年、ここ東山手十一番に、アメリカ監督教会のC.M.ウィリアムズによって教会が建てられました。 この教会は、開国後の長崎に最初に建てられ教会だったので、建物の十字架を見た浦上の潜伏キリシタンたちが訪れたそうです。 しかし、対応した宣教師が妻帯者だったために、自分たちが待ち望んでいるローマ教皇から遣わされた独身の神父でないとして、帰っていったというエピソードがあります。 そう、この教会は、日本で最初のプロテスタント教会でした。 ウィリアムズが日本を去ると、アメリカ監督教会の活動は途絶え、この教会はイギリス人の教会(英国聖公会)となり、通称イギリス教会と呼ばれていたそうです。  この階段をのぼっていくと海星学園があります。今回は、左折して次の目的地をめざしましょう。 鎮西学院跡の碑の横にC.M.ウィリアムさんが住んでいたという石碑があります。 5鎮西学院跡の碑 幸福なるか名平和ならしむる者<プロテスタント系>  活水女子大学の坂の上に石碑が建立されています。  アメリカのメソジスト教会から男子教育のための派遣要請を受けて、1880年、長崎にやってきたのはロング先生。 自宅の書斎(東山手十六番)で塾をスタート。 翌年、東山手六番に建てた木造2階建ての校舎に、12名の塾生を迎え、授業をおこないました。 このとき、トーマス・グラバーの息子さん倉場富三郎も机を並べていました。 授業は全て英語の原書でおこなわれたそうで、かなりの英語の学力が身についたそうですよ。  当初の学校名はカブリー・セミナリー(英和学校)。 ロング先生がアメリカを出発する時、2ドルの銀貨を献金してくれたカブリー婦人の名をとって命名されました。 1906年に鎮西学院と改称されています。  のちに浦上に移転した校舎は原爆で倒壊。 それでも小学校や教会で臨時開校したり、仮校舎で授業を続けたりして復興をめざし、現在は鎮西学院高等学校、長崎ウエスレヤン大学として諫早市にあります。 ちなみに長崎ウエスレヤン大学の学園祭は"2ドル祭"というのですが、これはロング先生を勇気づけ、学校設立のもとになったカブリー婦人の献金に感謝を込めてのことなのですね。 6海星学園 海の星なる無原罪の聖母よ<カトリック系>  丘を見上げると、屋上に純白のマリア様の像が見える校舎が印象的に目にとびこんできます。 海星学園です。  聖母マリアを保護者とするフランスのマリア会の活動を日本に広げるため、派遣されたバルツ先生は、最初、大浦天主堂の近くに「海星学校」をつくりました。 1895年に現在の場所に移転しました。 学校では日本語禁止だったので、外国語を習得するには良い環境だったそうです。  この2枚の写真を見比べてください。 左は明治32年の写真で、校舎は白く輝いています。 右は昭和22年の写真ですが、校舎の壁が墨のようなもので黒く塗られています。 太平洋戦争のときに、目立たないように迷彩を施された様子がよくわかる写真です。 学制改革で、1948年に海星高等学校、海星中学校として発足。のちに新校舎が完成し、旧校舎も建て直されました。  それでも海星学園の敷地には、昔の面影がそのまま残っているところもあります。 グランド横の赤煉瓦は明治の頃のものだとか。 右の写真のゆるやかな階段の先は、旧英国領事館があった場所です。 こうして歩いてみると、東山手はまさに"学びの丘"だった・・・。 いまは、活水と海星がその姿を物語ってくれますが、そのほかの学校も移転や合併などして、それぞれの地で歴史を紡いでいます。 参考文献: 「旅する長崎学5 キリシタン文化5」特集2 宣教師が尽くした日本の教育事業 「長崎県 文化百選6 海外交流編」 企画/長崎県 制作/長崎新聞社 2000年 活水学院HP 海星学園HP 鎮西学院HP スタート地点までのアクセス オランダ坂 所在 長崎県長崎市東山手町(活水女子大学の校門下) アクセス 徒歩… 長崎新地ターミナルより約15分。 車… JR長崎駅より約10分。 高速道路をご利用の場合、[ながさき出島道路]出口から国道499号線を左折、ホテルニュータンダの角を左折して約150メートル。 路面電車… 長崎新地ターミナルより、もよりの<築町>より[5番・石橋-蛍茶屋]に乗車し<市民病院前>で下車して徒歩で約10分。 JR長崎駅よりB乗り場へ、[1番・正覚寺-赤迫]に乗車し<築町>で車掌さんから「乗換券」をもらって下車します。反対側の乗り場に移動して[5番・石橋-蛍茶屋]に乗車し<市民病院前>で下車。徒歩で約10分。 電車… 博多方面から[特急かもめ]に乗る!<JR博多駅>より[特急かもめ]に乗車し<JR長崎駅>で下車(所要時間は約2時間)。鳥栖より約1時間40分。佐賀より約1時間25分。諫早より約20分。長崎駅からは路面電車またはタクシーをご利用下さい。 佐世保方面から[快速シーサイドライナー]に乗る!<JR佐世保駅>より[快速シーサイドライナー]に乗車し<JR長崎駅>で下車(所要時間は約1時間45分)。ハウステンボスより約1時間20分。大村より約35分。長崎駅からは路面電車またはタクシーをご利用下さい。 飛行機で長崎へ行く! 東京(羽田空港)から約1時間40分 大坂(伊丹空港)から約1時間10分 名古屋(中部)から約1時間20分 沖縄(那覇空港)から約1時間30分 宮崎から約40分 鹿児島から約35分 ●各空港から<長崎空港>に着陸。長崎バスもしくは県営バスの[長崎空港線エアポートライナー・出島道路経由]に乗車し<長崎新地バスターミナル>へ約35分。
  • 第11回 二十六聖人が歩いた浦上街道 2007年09月05日
    第11回 二十六聖人が歩いた浦上街道
    −殉教地「長崎」へと向かう26人の道−  日本に漂着した一隻の外国船サン・フェリペ号。 航海士の「スペインはキリスト教信者を増やして、やがてその国を制服する。」という発言に衝撃を受けた豊臣秀吉は、日本で布教活動をおこなう宣教師や信徒の捕縛と処刑を命じました。 京都・堺から長崎まで約1,000キロの道のりをおよそ1ヶ月かけて裸足で歩かされ、西坂の地で殉教した日本人20人と外国人6人の物語。 今回は、処刑地「長崎の西坂」を目前にした最後の2日間、キリシタン26人が歩いた浦上街道をたどります。 歴史のとびら  1596年、土佐の国にある浦戸海岸(現在の高知市)に一隻のスペイン船が漂着しました。 フィリピンからメキシコを目指して太平洋を航海中、台風に遭って破損したサン・フェリペ号でした。 豊臣秀吉から調査に派遣された増田長盛は、「スペインはまずキリスト教の宣教師を派遣して信徒を増やし、やがてその国を制服するのだ。」という航海士の不穏にささやく言葉を耳にし、秀吉に伝えました。 その報告を受けた秀吉の衝撃は激怒に変わり、すぐさま、宣教師たちを捕らえるよう命令したといいます。 サン・フェリペ号に修道士が乗船していたことから、1587年に発していた伴天連追放令を根拠に、国内で布教活動をおこなっていた宣教師たちが捕らえられました。 サン・フェリペ号事件が、日本で最初の大殉教事件の引き金となったのです。  京都ではフランシスコ会の宣教師ペドロ・バプチスタら6名、大坂ではイエズス会の修道士パウロ三木ら3名、ほか合わせて計24名が捕らえられます。 1597年1月3日、24人のキリシタンたちは、京都の上京一条の辻で左耳をそぎ落とされ、見物人が見守るなか、町中を引きまわされました。 そして、処刑地の長崎へと送られるのです。1月9日に堺を出発。 山陽道を西へと裸足で歩かされ、下関に着く途中でペドロ助四郎と大工のフランシスコが加わり26人となりました。 2月4日、長崎の彼杵宿に到着。大村湾を小舟で時津港へ渡り、翌日の早朝、処刑地の西坂に向かって浦上街道を歩きました。  1597年2月5日の午前10時頃に西坂の丘へと到着、長崎の港に向かって一列に並べられた十字架に縛りつけられました。 正午、信仰を貫いた26人は、役人に槍でつかれて昇天・・・。  長崎港の開港によってポルトガル船が行き来し賑わう長崎は、キリシタンの町として栄えていました。 "キリスト教は禁止するもポルトガル船の来航は奨励する"という秀吉の伴天連追放令は、貿易と布教が一体となったポルトガルにとっては矛盾したものでしたが、この「長崎」をキリシタンの処刑地として選ぶことによって、秀吉は自分のキリスト教への考え方を世に示したのです。 宣教師への見せしめと長崎の町に対する警告だったのでしょう。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:1日 img/sub/map_point2.gif' alt='2' />2日本二十六聖人上陸の地の碑 ↓車で約20分 or バスで約30分 or 徒歩で約2時間 img/sub/map_point4.gif' alt='4' />4ベアトス様の墓 ↓徒歩で約7分 img/sub/map_point6.gif' alt='6' />6サン・ラザロ病院の跡(山王神社)と浦上街道の碑 ↓徒歩で約5分 img/sub/map_point8.gif' alt='8' />8日本二十六聖人殉教地 記念碑と記念館 ↓徒歩で約15秒9
  • 第10回 鐘の音が鳴り響く教会ストリート 2007年08月10日
    第10回 鐘の音が鳴り響く教会ストリート
    〜消えた教会群〜  元亀元年(1570)、日本初のキリシタン大名 大村純忠は、ポルトガルとの貿易の拠点として長崎の開港を決め、翌年、ポルトガル船が初めて入港しました。 現在、長崎県庁から市役所にかけての通りは、サラリーマンが行き交うオフィス街ですが、今から400年以上前の16世紀後半には病院の施設を兼ね備えた教会が次々と建ち並び、宣教師たちが闊歩した教会ストリートでした。 今回は、キリシタン時代の面影と痕跡をたどりながら、消えた教会をめぐる旅へといざないます。 歴史のとびら  「長崎は日本のローマなり」。 この言葉は反キリスト教の書物『伴天連記』に書かれた一文です。 筆者は、長崎のどのような光景を見て"ローマ"と表現したのでしょうか? それは、キリスト教の十字架が掲げられた教会堂、福祉施設や病院、教理を学ぶ学校などが長崎の町に集中して建ち並ぶ風景…。 ロザリオを手にミサへと急ぐ人々、キリシタンたちを中心とする福祉活動、そして日本人と西洋人が行き交って活気にあふれる賑やかな町の様子…。 そんな新しい長崎の町に出会った驚きを書き留めたのでしょうか。  では、キリシタンの町「長崎」は、どのように形成されていったのでしょう。  天文19年(1550)、ポルトガル船が入港し、フランシスコ・ザビエルが訪れた平戸は貿易で賑わっていましたが、ポルトガル船員と日本人商人の間にいさかいが起こって殺傷事件にまで発展したため、松浦氏の平戸からその拠点を移します。 南蛮貿易港は、大村領内の横瀬浦、福田へと移り、その後、天然の良港<長崎>に白羽の矢が当たりました。  開港以前の長崎は、大村領の小さな村で、家臣でキリシタンの長崎甚左衛門の館のあった夫婦川の一帯が中心地でした。 永禄12年(1569)、トードス・オス・サントス教会という長崎で最初の教会が建ち、キリシタンも増えていました。 そんななか、元亀元年(1570)に大村純忠は、イエズス会と長崎の開港協定を結び、翌年には初めてポルトガル船が入港しました。  甚左衛門の館から2キロも離れた何もない岬の台地では、新しいまちづくりが始まります。 現在の県庁が岬の先端で、市役所の方に向かって、横瀬浦町・外浦町・分知町・平戸町・島原町・大村町の6町が誕生。 岬の先端にはサン・パウロ教会が建ちます。 さらに天正8年(1580)、純忠は周辺の敵からの攻撃をかわすために長崎と茂木をイエズス会に寄進、また天正9年(1582)には長崎港から天正遣欧使節の4少年がローマへ向けて出発するなど、長崎はキリシタンのまちとして繁栄していきます。  そのわずか後の天正15年(1587)、豊臣秀吉が伴天連追放令を発布して長崎・茂木を直轄地とし、教会は破壊されてしまいました。 しかし、南蛮貿易は推奨していたので、禁教は不徹底な状況で、慶長5年(1600)頃から教会の建築ラッシュ!! 教会や福祉施設、病院が建ち並び、瞬く間にさながら小ローマのような町並みが出現したのです。  ところが事態は急変します。 秀吉から徳川家康へと政権が移り、当初はキリスト教を黙認していた江戸幕府が、1614年、ついに禁教令を発布しました。 厳しいキリシタン取り締まりが行われ、教会はすぐさま壊され、かろうじて福祉施設という役割から破壊を免れていたミゼリコルディアの組が運営している病院なども元和6年(1620)には壊されます。 教会の跡地には、奉行所や代官屋敷、仏教寺院などが建ち、長崎の町からキリシタンの色は消えていきました。 華やかだったキリシタン文化の繁栄は、こうして厳しい受難の時代へと突入したのです。  キリスト教が日本に伝わって半世紀の間のできごとでした。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:5時間 img/sub/map_point2.gif' alt='' />2山のサンタ・マリア教会の跡(長崎歴史文化博物館) ↓徒歩で約3分 img/sub/map_point4.gif' alt='' />4サン・フランシスコ教会の跡(長崎市役所別館) ↓徒歩で約3分 img/sub/map_point6.gif' alt='' />6サン・ジョアン・バウチスタ教会とサン・ラザロ病院の跡(本蓮寺) ↓徒歩で約15分 img/sub/map_point8.gif' alt='' />8ミゼリコルディア本部と教会の跡(長崎地方法務局の付近) ↓徒歩で約10分 img/sub/map_point10.gif' alt='' />10サン・アウグスティン教会の跡(常盤橋から観光通りの出入口付近まで) ↓徒歩で約12分
  • 第9回 キリシタン時代の面影をたどる大村の旅 2007年08月01日
    第9回 キリシタン時代の面影をたどる大村の旅
     1563年、日本初のキリシタン大名が誕生。その名は大村純忠、洗礼名はドン・バルトロメオ。横瀬浦で宣教師トーレスからキリスト教の洗礼を受けました。  蒼くおだやかな大村湾にまるで宝石を落としたかのように、美しい小島が浮かぶ。純忠ゆかりの大村は、かつて領民のほとんどがキリシタンだったという。今回はキリシタン領国を築いた大村純忠の波乱の人生と、大村に残る16世紀の遺物や遺跡を巡りながら、キリシタン時代の面影を探す旅にでかけましょう! 歴史のとびら  長いあいだ大村地方を治めてきた大村家に、島原半島を支配していた有馬家から4歳の子どもが養子として送りこまれました。当時、大村を取り巻く情勢は、北に松浦一族、南に諫早の西郷氏、そして島原半島には特に強力な有馬氏。大村も有馬の勢力下にあったと思われます。こうしたなかで、1533年に有馬晴純(有馬家第11代)の次男として、大村純伊(大村家第16代)の娘のあいだに生まれた純忠は、4歳で大村純前(大村家第17代)の養子に迎えられます。このとき純前には3歳になる実の息子がいましたが、その後、武雄の後藤家に養子に出されます。これも勢力拡大を謀る有馬晴純の考えだったとか。  有馬家から大村家の養子となって17歳で家督を継ぎ大村家18代当主となった純忠、大村家の実子でありながら武雄の後藤家に養子に出された貴明。不安定な地位にある純忠のまわりは内も外も敵だらけ。相続に対する大村家家臣の反発、貴明の敵意、周辺諸国からの攻撃・・・。純忠の人生は数奇な運命に翻弄されていきます。  純忠が大村家を継いだ1550年のこと、平戸にポルトガル船が入港し、フランシスコ・ザビエルがキリスト教の布教にやってきました。その後、商取引のトラブルから起こった殺傷事件(宮の前事件)によって、ポルトガル船は平戸のかわりとなる新たな港を探していたため、1562年、純忠は領内の横瀬浦を開港します。この地で、純忠とその家臣たちは神父トーレスからキリスト教の洗礼を受けました。日本最初のキリシタン大名ドン・バルトロメオの誕生です。彼が鎧の上に羽織っていたという陣羽織には、地球のマークとイエス(JESUSとINRI)の文字と十字架が描かれていたといいます。そして戦いに挑むときは、トーレスから贈られた十字架の旗をなびかせたともいわれます。横瀬浦の港は、純忠への反乱によってわずか1年あまりで焼き討ちにあい焼失しますが、その後、純忠は領内の福田、そして長崎を開港し、長崎・茂木をイエズス会に寄進。さらに1582年には、日本人が初めてヨーロッパを公式に訪問する天正遣欧少年使節を派遣しました。晩年、領主の座を退いた純忠は、癌と結核を患いながらも、純粋なキリシタンとして宣教師たちに囲まれて過ごしたそうですが、遣欧使節の帰国の姿を目にすることなく息をひきとりました。豊臣秀吉の伴天連追放令が発布されたのは、純忠の死からわずか1ヶ月後のこと。キリスト教禁止の動きが始まり、純忠の息子で大村家19代(大村藩初代藩主)の喜前は棄教して日蓮宗に改宗し、厳しい禁教の時代へと移っていきます。 *写真は大村純忠像(カルディム「血染の花束」所載 松田毅一南蛮文庫) 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:車で移動した場合…約3時間 img/sub/map_point2.gif' alt='2' />2宝生寺の跡 ↓車で約3分 or 徒歩で約15分2 img/sub/map_point4.gif' alt='4' />4坂口館跡(大村純忠史跡公園) ↓ 車で約5分 or 徒歩で約40分 img/sub/map_point6.gif' alt='6' />6今富のキリシタン墓碑 1大村市立史料館 キリシタンの貴重な資料をみる  JR大村駅で下車し、出口を左に曲がって少し歩くと、大村市立図書館があります。この建物の2階に、キリシタンに関する貴重な資料が保存されている大村市立史料館があります。  館内では、大村の歴史に関する資料に出会うことができます。  青銅製の大型メダイは<メダリオン「無原罪の聖母」>で16世紀前半のスペインでつくられたもの。キリシタン禁教下の1639年の銘が刻まれた大村家の家老の墓石の下から発見されたそうです。長さが11センチほどあるとても大きなメダイでした。  <大村市原口郷出土のキリシタン墓碑>もお見逃しなく。よーく見てみてください。中央に「花十字」、その下に「BASTIAN」と「FIOBV」の文字が刻まれています。キリスト教に入信した兵部(ひょうぶ)さんという男性のお墓で、クリスチャンネーム(洗礼名)をバスチャンといったそうです。長崎県内には通称カマボコ型などとよばれるキリシタン墓碑がよく残っていますが、これはめずらしい切石板のカタチ。石垣の上にあった屋敷神の五輪塔の台座として埋められていたのを発見! キリシタン禁教による厳しい迫害がおこなわれた大村地方にあって、当時の面影を残す貴重な資料となっています。  図書館には、南蛮文化研究の第一人者で、ルイス・フロイスの『日本史』を訳した歴史家 松田毅一氏が収集した貴重なキリシタン関係の資料を公開している「松田毅一南蛮文庫」のコーナーもありますよ! 旅人コメント 「大村市立図書館(2階が史料館)の目の前にある「天正夢広場」。ここに、天正遣欧使節のからくり時計があります。巡察師ヴァリニャーノの考案で、キリシタン大名ら(大村純忠、有馬晴信、大友宗麟)の名代としてローマ教皇に謁見し、西欧を歴訪した天正遣欧使節。広場の中央に建つモニュメントは、4少年を乗せた南蛮船が、スペインのリスボンの港へと到着した際に最初に目にしたといわれる「ベレンの塔」をモチーフにしており、からくり時計となっています。時間になると、オリジナルの音楽が鳴り響き、時計の上の石の扉が開いて4少年が踊りながら登場しますよ!」(バジル) 2宝生寺の跡 大村領内で最も大きな教会として利用されたお寺の跡  本堂川という名前が残っているように、この辺り一帯は、川に沿って中世の寺院が数多く建っていたエリアです。山手の方角が大村純忠の居城だった三城城です。キリシタン大名 純忠のもと、領民のほとんどがキリスト教に改宗してキリシタン一色となった大村では、多くの寺社仏閣が破壊されました。難を逃れた宝生寺は教会として利用され、大村の領内で最も大きな教会だったといわれています。  純忠が亡くなったときは、彼が晩年を過ごした坂口館からこの宝生寺まで長い葬列が続いたそうです。その距離はなんと約4キロメートル! 純忠の亡骸はまず宝生寺に埋葬されたといわれていますが、その後、墓は転々と移され、現在ではどこにあるかわからなくなっています。  ここから、大村藩代々の藩主たちが眠る本経寺へと向かいましょう。この辺りは三城城の城下町になります。丸い玉石の石垣を発見!昔の町並みが残る風景ですね! 3本経寺の大村家墓碑群 大村家の菩提寺として歴代藩主が眠る本経寺  大村純忠の息子 喜前は3歳のときにキリスト教の洗礼を受けていましたが、純忠亡き後、キリスト教から日蓮宗に改宗しました。1587年に豊臣秀吉の伴天連追放令が発布されてから、しだいにキリシタン弾圧が強まり、キリスト教禁止の方針は次の徳川幕府にも受け継がれました。幕府の禁教政策をいち早く見抜いた喜前は、領民に先立って信仰を棄て、イエズス会との交際も断ち、熊本の加藤清正の勧めによって日蓮宗に改宗しました。寺院復興の第一号として、藩主大村家の菩提寺として、1605年に創建されたのが「本経寺」です。キリスト教の取り締まりが一段と厳しくなる寛永年間を境に、大村藩主歴代の墓は急に巨大化し、なかには7メートル近い高さのものもみられます。この巨大な墓石は、キリシタンであった大村家が棄教し熱心な仏教徒になったことを、内外に示すためのものだったと思われます。また、長崎街道が本経寺近くで道筋を曲げて寺のすぐそばを通っていることも、街道を通る要人に、脱キリスト教をアピールする意図があったためではないかと考えられています。  突然ですが、ここで大村の郷土料理「大村寿司」のご紹介。大村寿司には大村氏がこの地を守って戦ったという物語がありました。  文明6年(1474)、大村家16代当主 大村純伊は島原地方の有馬勢と合戦をおこないました。そのとき純伊は命からがら唐津の孤島に落ちのび、その後なんとか大村領を有馬の手から奪回し、ようやく故郷の大村へと帰って来たそうです。領民たちは大喜び。しかしあまりに突然の帰郷だったので、祝い用の食器が用意できませんでした。そこで、「もろぶた」とよばれる長方形の木箱のなかに、炊いたご飯、刺身、野菜を散らして上から押して、領主や兵士の前に供えました。将軍たちは脇差しの刀で、その寿司を切り分けながら手づかみで食べたといわれています。  喜びを表現した祝いのもてなし料理「大村寿司」は、南蛮貿易で手に入るようになった砂糖がふんだんに使われるようになり、やや甘めの味付けになっています。彩りも鮮やかで、ついついおかわりしてしまいます! 本経寺の霊廟に、純伊と喜前の五輪塔が並んで建っています。 旅人コメント 「本経寺の大村家墓碑群は、ぜひ実物を見に行ってください。話には聞いていましたが、ほんとにもう、そのありえない大きさにびっくりでした。」(ヒロコ) 「長崎空港へと向かう箕島大橋のたもとに、「天正遣欧少年使節顕彰之像」があります。日本での布教の様子を視察に訪れた巡察師ヴァリニャーノは、使節のヨーロッパ派遣を企画し、有馬のセミナリヨで学んでいた少年4人を選びました。1582年に長崎港を出航、2年半もの航海を経てローマ教皇やスペイン国王に謁見。8年半後に活版印刷の技術を持ち帰るなど、輝かしい偉業を果たして帰国しました。この像は使節の出発400周年を記念して建立されたそうです。本経寺から車で約5分のところにありますよ。」(椿) 4坂口館跡(大村純忠史跡公園)  ここは、坂口館跡を中心に、大村純忠が晩年の約2年間を過ごした場所として整備された史跡公園です。さっそく中に入ってみましょう。  喉の癌と肺結核にかかった純忠は、郡川のそばで闘病生活を送っていました。宣教師に囲まれて、ひとりのキリシタンとして穏やかな晩年の日々を過ごしたといわれています。敷地内には、どんな干ばつでも涸れなかったと伝えられている泉「館(たち)の川」が残っています。  亡くなる前日のこと、純忠は、飼っていた籠のなかの鳥を空に放って自由にしてやり、臨終の枕元で息子の喜前に「日本中のキリシタンに模範を示すことができなくて残念だ」と語ったそうです。1587年、純忠らキリシタン大名の名代としてローマへと派遣された天正遣欧使節の帰国の姿を見ることなく、55歳で息をひきとりました。ひとつの時代が終わりを告げました。  純忠の死後、わずか1ヶ月後に秀吉の伴天連追放令が発布されました。その後、キリシタン文化の全盛を誇った大村にも禁教による迫害の嵐が吹き荒れ、この地にもキリシタンたちの血が流されました。未曾有の潜伏キリシタン発覚事件となった1657年の郡崩れでは、608人が捕らえられ、411人(諸説あり)が処刑されています。 5田下(たじも)のキリシタン様式墓碑 キリシタン弾圧時代のカムフラージュ 地中に埋めて  国道444号線沿いの田下の入口に、2つの平庵(ひろいおり)型の墓碑があります。キリシタン様式の墓碑に仏教の戒名を刻んで仏式に見せかけた墓が建っています。ひとつには側面に、もうひとつには付属塔に刻んであります。キリシタン弾圧から逃れるために、キリスト教の様式の部分を地中に埋めて隠していたと思われます。建てられた年代は1653年(承応2)とされ、前述の「郡崩れ」の直前4年前。厳しいキリシタン禁教の時代に建てられた貴重なもので、当時の様子をしのぶことができます。 6今富のキリシタン墓碑 キリシタン弾圧時代のカムフラージュ 起こして立てて  正面から見ると、一見、四角いお墓に見えますが、上からと後ろ側から見ると、実はカマボコ型(半円柱)。本来は正面に相当する半円形の部分に十字紋が刻まれていることから、キリスト教式のお墓を起こして立て、キリシタンだと見つからないように、仏教の戒名を刻んで改造したものと思われます。  碑銘から1576年に没した大村純忠の家臣 一瀬栄正のお墓だと思われていましたが、2007年7月、大村史談会によって墓碑の上部に「慶長19年」という年代と、洗礼名とみられる「庵■」(■は読みとれない)という文字が刻まれていることが確認され、いったい誰のお墓なのか、栄正とは別人の墓碑の可能性も出てきたそうです。もしかしたら、中浦ジュリアンの叔母にあたる人のお墓かもしれないという説も浮上しているとか。今後の研究の成果に注目したいですね。  大村純忠の人生を思いながら、大村のまちを散策していると、いまから約500年近く前の時代を生き抜いた人たちのココロにふれたような気がしました。領主がキリシタンに改宗し一度はキリシタン領国となった大村。その後の幕府の禁教政策のなかで棄教を選択しなければならなかった苦悩もあったことでしょう。特殊な宗教事情を抱えた大村藩の姿を垣間見る旅となりました。 参考文献 『旅する長崎学1 キリシタン文化1』 特集3 キリシタン大名 大村純忠のナゾ 『旅する長崎学2 キリシタン文化2』 長崎発ローマ行き、天正の旅 『旅する長崎学6 キリシタン文化 別冊総集編』 第5章 領主棄教とキリシタン取締まり 大村 スタート地点までのアクセス 大村市立史料館 所在 長崎県大村市東本町481 大村市立図書館2F お問い合わせ TEL/0957-53-1979 開館時間 10:00〜18:00 入場料 無料 駐車場 34台 休館日 月曜日・祝日・毎月25日・年末年始 アクセス 徒歩…JR大村駅より徒歩で約2分。大村バスターミナルより徒歩で約2分。 車…長崎空港より車で約10分。 バス…長崎空港よりバスで約15分。 福岡から行く! 電車…JR博多駅より[かもめ]に乗車し<諫早駅>で下車、[快速シーサイドライナー][大村線・早岐行き]に乗り換えて<大村駅>で下車(所要時間は約2時間10分)、徒歩で約2分。 高速バス…博多駅交通センターより九州急行バス〔九州号〕に乗り≪大村IC≫で下車、県営バスに乗り換え≪JR大村駅≫で下車、徒歩で約2分。 車…福岡市内より九州自動車道を利用し、長崎自動車道<大村IC>で降りて(約1時間20分)、さらに国道444号線から国道34号線に左折、西本町の交差点より左折、JR大村駅より右折してすぐ(所要時間は約10分)。 佐賀から行く! 車…鹿島より国道444号線を通り約1時間20分。 佐世保から行く! 車…JR佐世保駅より約1時間20分。 電車…JR佐世保駅より[快速シーサイドライナー]に乗車し<大村駅>で下車(所要時間は約60分)、出口を左に向かい徒歩約2分。 長崎から行く! 電車…<JR長崎駅>より[快速シーサイドライナー]に乗車し<大村駅>で下車(所要時間は約55分)、徒歩で約2分。 車…長崎市内より出島道路経由の長崎自動車道を利用する場合は、「大村IC」で下りて(所要時間は約25分)、国道444号線から国道34号線に左折、西本町の交差点より左折し、JR大村駅より右折してすぐ(所要時間は約10分)。 長崎自動車道を利用しない場合は、長崎市内より諫早を経由して国道34号線を通り約1時間30分。 長崎の時津から行く! 車…時津より県道33号から諫早の化屋名で国道34号線へ、大村方面へ走り約1時間。 船…時津より安田産業汽船の定期船<長崎空港>で下船(所要時間は約25分)し、車で約1時間。 長崎の長与から行く! 車…長与より県道33号から諫早の化屋名で国道34号線へ、大村方面へ走り約1時間。 船…長与より大村湾観光汽船の定期船<長崎空港>で下船(所要時間は約25分)し、車で約1時間。 電車…JR長与駅より長崎本線[佐世保行き]に乗り<大村駅>で下車(所要時間は約1時間)、駅の出口を左折して徒歩約2分。 ● 長崎空港・JR博多駅・長崎バスターミナル・佐世保バスターミナル・大村ターミナル・JR大村駅までのアクセスは「ながさき旅ねっと アクセス」をご覧ください。
  • 第8回 原城に散った祈り 2007年07月18日
    第8回 原城に散った祈り"島原の乱"をゆく
     1637年(寛永14)、天草四郎を総大将に島原と天草の領民が結集した一揆軍は、島原城と富岡城を落城できず、最後の砦「原城」へと向かい、籠城しました。幕府軍と援軍オランダ船に挟み撃ちにされながら、激しい砲撃を必死に攻防する四郎たち。領民たちの悲痛な苦しみと怒り、そして心のよりどころとなった祈り…。今回の旅は、日本最大の一揆“島原の乱”の最後の舞台となった南島原を巡ります。 歴史のとびら  1614年、徳川幕府の発布した禁教令により、全国で厳しいキリシタン摘発がおこなわれました。  島原では、2代目藩主となった松倉勝家(重政の息子)がさらに無謀な重税を課し、禁教に名をかりて領民をおどします。これに追いうちをかけるように天災、飢饉・凶作などが島原半島と天草の領民を苦しめていました。1637年(寛永14)、妊婦を拷問死させた事件や、代官が聖画像を踏みにじる事件が相次いで起こり、領民たちは激昂。おさまらない怒りに次々と島原半島南部の代官を襲いました。そして、とうとう「湯島の談合」で蜂起することを決意。天草四郎を総大将とする一揆軍は、森岳城(島原城)と富岡城を激するも落城できず。城を落とせなかった島原と天草の領民ら約3万7千人(約2万7千人ともいわれる)は、1638年、一国一城制で廃城となっていた原城に立てこもりました。一揆軍は、ポルトガルからの援軍を待っていたといわれますが、海上に現れたのは幕府軍の援軍として要請されたオランダ船による大砲の砲撃でした。原城本丸を正面に見据える重箱山から放たれた一発の銃弾が、四郎の着物の裾を打ち抜きました。不死身といわれカリスマ的存在だった四郎に迫る攻撃の嵐、一揆軍に動揺が広がった瞬間でした。幕府軍との激しい攻防の末、ついに陥落した原城では、なんと女性や子どもまでもが皆殺しに…。そのなかで、ただひとり生き延びたとされる南蛮絵師の山田右衛門作の数奇な悲運…。  乱の最後の舞台となった原城は、幕府の命令で徹底的に破壊されました。原城籠城88日間にわたる島原の乱の終盤戦を追いかけて、探求の旅へ出かけましょう。悲愴なまでの覚悟を胸に、幕府という強大な権力に立ち向かった一揆軍の魂を感じる歴史の旅がはじまります。 散歩コース スタート地点までのアクセス ◎所要時間のめやす:1日(車&徒歩) img/sub/map_point2.gif' alt='2' />2鈴木重成建立の供養塔 ↓徒歩で約25分 or 車で約8分 img/sub/map_point4.gif' alt='4' />4重箱山 ↓ 徒歩で約10分 or 車で約3分 img/sub/map_point6.gif' alt='6' />66板倉重昌の碑 ↓車で約10分 or バスで約10分