ながさき歴史の旅

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日島の石塔群(ひのしまのせきとうぐん)


 日島は、古来から大陸と本州、九州とを結ぶ交通の要地で、朝鮮半島との貿易の根拠地でもありました。烽火(のろし)によって異国船の来島を知らせる監視所が置かれていたという説があり、「火の島」が「日島」に転じたともいわれています。
 日島は若松島の一小島で、現在は有福島をへて若松島と橋でつながっており、統一新羅時代の渡来仏・銅造如来立像(国指定重要文化財)のある島としても有名です。
 この日島の曲(まがり)と呼ばれる所には、海に向かって延びる礫丘部分全域にわたって、中世以来の石塔類が累々と林立しています。非常に圧巻です。最初目にしたときは、多分にその迫力に驚かされることでしょう。
日島の石塔群は、その形式や形態さらには製作時期により大きく2つのグループに分類されます。

 第1のグループは、1300年代前後ころの五輪塔群で、約13基分(石材は凝灰岩)確認されます。製作地は九州内の本土部(主に熊本県)と考えられ、日島の中世・初期の活動を物語っています。

 第2のグループとして、主に1300年代後半から1400年代前半ころに製作された石塔群が建塔されています。約50基分が確認されますが、石材は花崗岩と安山岩質凝灰岩とよばれるもので、ともに製作地は関西です。花崗岩製は瀬戸内ルートで関西から運ばれてきたものと思われますが、なかでも安山岩質凝灰岩製の石塔は、若狭湾に面した福井県高浜町日引(ひびき)地区で製作されたものです。地名をとって「日引石塔」と呼ばれていますが、遠路日本海ルートで運ばれてきたと考えられています。近くの釜崎には大型の日引石塔(宝篋印塔)があり、その基礎の正面に「正平二十二年」(1367)と刻まれており、南北朝時代の製作であることを示しています。
 この日引石塔は、現在までに、北は青森県十三湊(とさみなと)から南は鹿児島県坊津まで運ばれていることが判明しています。九州では福岡県芦屋でも確認されますが、その中で集中して大量に運ばれ建塔されているのが、長崎県の対馬と平戸島、それにこの日島(新上五島町)なのです。

 日引石塔や花崗岩製塔が建塔された1300年代後半ころといえば、日本列島にあっては南北朝の動乱期、朝鮮半島では高麗から朝鮮国(李朝)への移行期で、中国における元朝(モンゴル帝国)の崩壊にともなって東アジア全域が大きな変動に見舞われた時代です。つまり、このような時代こそ、国境をまたぐ島々にとって「島」自体がもつ特異なエネルギーが発揮された時代でもあったのです。この時期に活発化する「倭寇」と呼ばれる海人集団は、その活動の舞台を朝鮮半島から中国大陸まで広げる一方、日本本土部とくに都方面との交易ルートも築いていたと思われます。日島で見られる日引石塔など遠路・日本海ルートで運ばれてきた石塔群は、当時の海人集団のもつ広範囲に及ぶ海上ネットワークを物語る貴重な遺品群と考えられます。

 現在一離島に、全国的にみても大規模な石塔群が集中していることは、活発な海上交易で栄えた日島の輝かしい時代を彷彿させると共に、学術的にも非常に価値の高い史跡です。2000年(平成12)2月22日、県の文化財(史跡)に指定されました。

弘法井戸(こうぼういど)のお話


 むかし、ひとりの旅の僧が托鉢(たくはつ)に廻って道土井(みちどい)のある家に立ち寄り、「水を飲ませてくださらんか」と頼みました。
 その家に住む老婆は、「ちょっと待ってください。すぐに汲んできますから」と柄杓(ひしゃく)と水桶(みずおけ)を携えて出て行きました。

 旅の僧は、老婆の帰りを待っていますが、なかなか帰ってきません。長い時間がたって、ようやく老婆は帰ってきました。旅の僧は、老婆が差し出す水を飲み干しました。
 旅の僧は、あまりにも長く待たされたのを不思議に思い、聞いてみました。「おばあさん、あなたはどこまで水汲みに行かれたのですか?遠いところでしょうね」
 「はい。実はこの近くには井戸がありませんので、この山の中腹にある湧き水のところまで汲みに行かねばなりません」と老婆は答えました。
 すると、旅の僧は「そんなに遠いところまで行くのは大変なんぎでしょう。この近くに水の出るところがないのか、私が探してしんぜよう」と言って、杖で家の周囲をあっちこっちと探しました。そして、「ここを掘りなさい。必ず水が出ます」と言って立ち去りました。

 さっそく旅の僧に教えられたところを近所の人たちに手伝ってもらい掘ったところ、水が湧き出してきました。ちょうどその折、どこからきたのか見知らぬ老婆があらわれました。
 「本当に飲み水になるかならぬか、私が試してあげましょう。飲める水なら私が飲んでもなんともないが、飲めない水だとすぐ胸がむかつき、吐き気をもよおします」と言って、その水を飲み干しました。そして、「これは、まさしく飲み水になります。とてもおいし水ですから、皆さんで大事に飲むがいいでしょう」と言い残して立ち去りました。

 後日、弘法さまがこの辺りを托鉢に廻ってこられたという話が広がりました。人々は「あの旅の僧こそ弘法さまだったのだ」「この井戸は、まさしく弘法さまからのさずかり水だ」と言って、有難く飲み水として用いました。遠くまで水汲みに行くこともなくなったそうです。

 804年(延暦23)、遣唐使の一行であった空海が青方港に一週間滞在したといわれています。このため、青方、相河(あいこ)、三日ノ浦(みかのうら)、道土井(みちどい)、今里(いまざと)には「空海伝説」が多く語りつがれています。




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