ながさき歴史の旅

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原城跡(はらじょうあと)と島原の乱

 1614年(慶長19)、島原半島を治めていた有馬直純(ありま なおずみ)が日向国(宮崎県)に転封となり、一時期は天領とされましたが、1616年(元和2)、松倉重政(まつくらしげまさ)が大和五条(奈良県)から入部しました。
 松倉氏は、一国一城令により日野江城と原城を廃し、1618年(元和4)から島原城(森岳城)の築城にあたります。領民に重税と労役を課し、7年もの歳月をかけて立派な城が完成しました。領民にはキリシタンが多く、当初はキリスト教布教を黙認していた松倉氏でしたが、徳川家光から叱責され、一転して厳しい迫害を始めます。雲仙地獄もキリシタンの拷問に使われました。信仰を棄てさせるためにすぐには殺さず、熱湯の中につけては引き上げ、それを繰り返してじわじわと長い苦しみを与えたそうです。

 1637年8月(寛永14年6月)頃から、飢饉と凶作、重税と労役、そして迫害に苦しむ島原と天草で不穏な動きが出ていました。顕著になったのは12月(10月)、妊婦を拷問死させたことへの憤慨、聖画像を踏みにじった代官に対する激昂などから、領民らが島原半島南部の村々の代官を次々と襲いました。12月12日(10月26日)には、天草四郎(益田四郎時貞)を総大将に島原城に(森岳城)に攻め入りました。天草でも呼応して同様の事件が勃発しました。
 1638年1月(寛永14年12月)、島原城を落とせなかった島原と天草の領民ら約3万7000人(約2万7,000人ともいわれる)は、廃城となっていた原城に立てこもりました。
 徳川幕府は、鎮圧のために板倉重昌(いたくらしげまさ)を派遣し、鍋島藩、細川藩、黒田藩など西日本の諸藩を集め原城を包囲しました。しかし力攻めでは落城できず、次に幕府から遣わされた松平信綱(まつだいらのぶつな)は兵糧攻めに転じました。88日間に及ぶ籠城の末、一揆軍は1638年4月12日(寛永15年2月28日)、ついに陥落。女性や子どもまでもが皆殺しになったといいます。
 合計約12万の兵力を動員した幕府軍側も、8,000人以上の死傷者をだしたとされ、幕藩体制の確立期における、日本史上の大事件となりました。

 原城跡の案内板には、言語学者・文献学者でもあり、キリシタン史料の研究などをおこなった新村 出(しんむら いずる)の詠んだ歌が書かれています。

痛ましき 原の古城に来てみれば  ひともと咲けり 白百合の花


 原城跡は、1938年(昭和13)、国の史跡に指定されました。発掘調査によって、人骨とともに、鉛の弾丸や十字架、ロザリオの珠などが出土しています。

大手門跡 ホネカミ地蔵 空濠(からほり)
大手門跡 ホネカミ地蔵 空濠(からほり)

原城の表玄関ですが、島原の乱では、一揆軍は有馬監物・大江源右衛門等の指揮のもと布津村、堂崎村、有家村、有馬村の3千5百余人が三の丸とともに守備したところです。1638年(寛永15)2月28日、幕府軍の総攻撃では細川軍がここを突破しました。

1766年(明治3)有馬村願心寺の注誉上人がこの戦乱で死んだ人々の骨を、敵・見方関係なく拾い、霊を慰めた地蔵尊塔です。「ホネカミ」とは「ホネをかみしめる」の意味で、そのことから「自分自身のものにする」さらに「人々を済度する」(助ける、救う)と理解すべきだといわれています。 この低地は、島原の乱の時に防衛のため築かれたもので、蓮池と通じ、本丸を孤立した「島」とするためのものです。1638年(寛永15)夜襲軍4千余人は食料・武器等の奪取のため、ここに集結し、黒田軍・鍋島軍等を襲撃しましたが、失敗に終わりました。
天草四郎時貞の墓碑 本丸虎口跡 石垣内隅部破却状況
天草四郎時貞の墓碑 本丸虎口跡 石垣内隅部破却状況
小西行長(こにしゆきなが)の家臣、益田甚兵衛好次の子。本丸で首を切られ、長崎でさらし首にされました。この墓碑は、西有家町にある民家の石垣の中にあったものを移しています。 最も本丸に近い出入り口で島原の乱後、徹底的に壊され埋められたところです。 石垣を壊して埋め込む時に、周りにあった一揆軍の死体も一緒に埋め込んだと思われ、石の下からはたくさんの人骨が出土しています。

 島原の乱について、『旅する長崎学3 キリシタン文化III』(企画/長崎県 制作/長崎文献社)で詳しく紹介しています。是非ご覧ください。

水の都 〜鯉の泳ぐまち〜

 島原市は、湧き水が豊富なことでも知られています。市内には、なんと60ヶ所の湧水ポイントがあり、全体の湧水量は1日で22万トンといわれます。
 またこの湧水の水源はアーケードの中など島原市の中心街にも点在し、湧水が流れるまちとして、とても趣のある風情を町全体にかもしだしています。
 この湧水は、1792年(寛政4)の大噴火“島原大変肥後迷惑”をきっかけに湧き出したといわれます。このときの普賢岳噴火は、眉山(まゆやま)を崩壊させるほどでした。崩れた山が海に流れ落ちたことが原因で津波が発生し、島原対岸の肥後国(熊本県)にも大きな被害を与えたのです。これほどの大きな噴火によって、島原地域一帯で地割れが起こり、地下水が湧き出したといわれています。
 武家屋敷跡には、当時の飲用・防火用として整備された水路約400メートルが遺されています。また1792年(寛政4)の噴火の時に陥没してできたといわれる白土湖(しらちこ)は清水がこんこんと湧き出て、水の都のシンボルともなっており、水辺散策や洗い場、親水性のある公園づくりが行われています。また、鯉が放流された水路では、住民の皆さんの管理の下「鯉の泳ぐまち」を形成し、道行く人々の目を楽しませてくれます。

鯉の泳ぐまち 四明荘(しめいそう) 白土湖
鯉の泳ぐまち 四明荘(しめいそう) 白土湖


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