ながさき歴史の旅

ホーム   > 歴史発見ドライブルート >   第7回 海岸線を行く福江島の旅

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玉之浦納の乱


 1507年(永正4)、福江の領主であった宇久覚(さとる)が死に、宇久囲(かこむ)が19歳で跡を継ぎました。この継承によって弱体化したすきに乗じ、妹婿の玉之浦納(たまのうらおさむ)が同年、辰の口城に夜討ちをかけ、本家滅亡を謀りました。玉之浦納は、宇久家の血を引く小豪族で、父の代から福江島玉之浦に住み、対朝鮮貿易などで本家をしのぐほどの財力をたくわえていたといわれています。そのため領主・宇久氏は、懐柔策として宇久囲の妹を玉之浦納に嫁がせていました。
 反乱軍は勢いにのって宇久氏を破り、ついに囲を福江島の沖の黒島に追いつめ、自刃させることに成功しました。しかし、玉之浦納みずからは福江に進出することなく、玉之浦近くの大宝に館を築き、宇久氏家臣の出方を窺っていました。囲の子・三郎が一足先に城を抜け出し、家臣とともに平戸の舅をたよって逃れたことがわかり、その行方を探していたといわれています。
 一方、平戸に逃れた三郎(のちの盛定)のもとには旧臣たちがしだいに集まり、宇久氏は力をもりかえしていきます。平戸の松浦興信(おきのぶ)もこれを援助し、1521年(永正18)、船団を組んで玉之浦納の居城である大宝の館を襲撃しました。当時、納は領民の反感もかっていたといわれ、内部からも崩れて敗走し、嵯峨島(さがのしま)に逃れましたが、自刃しました。そのことを聞いた納の妻(囲の妹)も、三井楽(みいらく)で自刃したと伝えられています。

富江珊瑚について


 長崎西方の海上に連なって浮かぶ五島s列島。そのなかの福江島の南西部に位置する富江は、熔岩流が一気に広々と海に流れ込んで形成された台地です。百有余年の歴史を持つ珊瑚の町として知られ、珊瑚の三大産地のひとつに数えられます。
 富江の珊瑚は、1886年(明治19)に大分県の網漁師によって、男女群島の沖合いで赤色の珊瑚が採取されたのが始まりです。続いて桃色珊瑚も揚がり、翌年から玉加工を開始。珊瑚加工が盛んになっていきます。珊瑚の採取船の数は増加の一途を辿り、鹿児島・山口・大分などからの来島も加えると約300隻にも及んだといいます。また、珊瑚加工の技術(彫刻)は先進地である土佐に学びました。島には、外国人バイヤーをはじめ、全国の仲売人たちが集まるようになり、入札場もつくられました。
 大正中期には、採取・加工はますます盛んになり、緻密な平面掘りに工夫を加えた「五島掘り」の技術も確立されました。



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