ながさき歴史の旅

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豊臣秀吉の朝鮮出兵から国交回復まで

 1592年(文禄元)の文禄の役、1597年(慶長2)の慶長の役による朝鮮出兵は、豊臣秀吉が死に、日本軍が撤退したことで終了しました。この朝鮮出兵によって、朝鮮との国交は途絶えました。
 それまで朝鮮貿易を独占してきた対馬にとって、国交を回復できるかどうかは死活問題でした。しかし、朝鮮出兵による影響は大きく、国交回復を求める対馬の交渉は難航しました。
 そのころ、日本の中央政権は関ヶ原の戦いによって、実権が徳川家康へ移りました。対馬の宗家19代・宗義智(そうよしとし)は、キリシタン大名・小西行長の娘であるマリアを妻とし、自らも洗礼(洗礼名ダリオ)を受けており、関ヶ原の戦いでは行長について西軍の味方でした。しかし行長が戦死し、西軍が敗れたことによって、西軍側についた対馬・宗氏の存亡が危ぶまれました。義智は対馬を思い、信仰を棄ててマリアとも離別します。そして対馬の内治・外交に義智の信頼を得ていた柳川調信(やながわしげのぶ)は家康を訪れ、宗氏の事情を弁明し、“宗氏には「おとがめなし」”となりました。
 当時、徳川幕府には外交の実務がなかったこともあり、家康は朝鮮との国交回復の任を義智に命じました。
 義智と調信は朝鮮へ書を送ったり、朝鮮出兵時に日本へ連行した人々を送還するなどして、国交回復に努力します。1604年(慶長9)には朝鮮から松雲(そんうん)大師惟政(ゆじゅん)らが遣わされ、1605(慶長10)に惟政は伏見城で徳川家康・秀忠と対面して国交回復の意向を聞きます。そのとき朝鮮王朝と徳川幕府の間をとりもったのは、対馬藩主・義智と柳川調信・智永(としなが)父子、景轍玄蘇(けいてつげんそ)らです。
 
 朝鮮から対馬に対して国交回復の条件が二つ示されました。一つ目は、朝鮮出兵の際に先王の陵墓を荒らした犯人を捕らえて朝鮮へ連行すること。二つ目は日本から先に国書を送ることでした。
 一つ目の件は対馬の罪人2人を送ることとしましたが、二つ目に関しては、先に国書を送ることは朝鮮への恭順を意味するため、幕府が条件を承諾することは到底不可能でした。そこで、義智と柳川親子と玄蘇らは国書を偽造し、朝鮮へ送りました。さらに1607年(慶長12)、朝鮮の使者が江戸城で将軍秀忠に朝鮮国王の返書を渡す際、先に偽造国書を送った返書とばれないように、「奉復」を「奉書」と書き直す改ざんや朝鮮国王印の偽造などをおこないました。
 以後も対馬藩は偽造と改ざんというかたちで朝鮮と幕府の仲介役を演じ、1609年(慶長14)、ついに国交回復の約条を結ぶこと(己酉(きゆう)約条)に成功します。
 こうして対馬は、ついに朝鮮との貿易を再開することができました。

柳川一件

 1635年(寛永12)、対馬藩主・宗義成を追い落とそうとした有力家臣の柳川調興(しげおき:柳川智永の子)が、藩による国書偽造と改ざんを繰り返した実態を幕府に訴えました。調興は、幼くして義智の後継者として襲封した義成と、所領地の問題や調興自身の専横などで、たびたび対立していました。
 この訴訟内容には、幕府政策の日朝交易に関わる重要問題が含まれていたため、幕府は役人を対馬へ派遣させて吟味し、将軍家光が自ら関係者を呼び裁決することとなりました。
 藩主義成は、この国書偽造と改ざんの内容について関知しておらず、一応義成の勝利に落着しました。
 この事件を「柳川一件」といいます。

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