ながさき歴史の旅

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第5回 有川捕鯨関連文化遺産を辿る

 ドライブルートのなかから、歩いて学べるエリアをクローズアップしてご紹介するコーナーです。今回の散策コースのテーマは、「有川捕鯨関連文化遺産(ありかわほげいかんれんぶんかいさん)を辿る」です。
 「有川捕鯨関連文化遺産」は、水産庁が2006年(平成18)に発表した“未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選”に選ばれています。この百選は、全国の漁村に残る歴史的・文化的に価値の高い史跡や施設などの文化遺産を広く公募し、応募のあった350件から、地域固有の漁業文化や珍しい建築工法や形状などを基準として、選定委員会によって選ばれたものです。
 「有川捕鯨関連文化遺産」には、「鯨見山(くじらみやま)」「鯨供養碑(くじらくようひ)」「海童神社(かいどうじんじゃ)」「弁財天宮(めーざいてんぐう)」「原眞一顕彰碑(はらしんいちけんしょうひ)」が含まれています。
 今回は、上五島でどんな捕鯨の歴史が繰り広げられたのか、散策してみたいと思います。さあ、未来に残したい漁業漁村の歴史を辿ってみよう!

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散策コース&マップ

歴史散策コース

01鯨賓館(げいひんかん)ミュージアム【有川港多目的ターミナル内】

↓歩いて約2分

02海童神社

↓歩いて約8分

03鯨見山(山見小屋)・鯨供養碑

↓歩いて約10分

04弁財天宮

↓歩いて約8分

05原眞一氏・萬一郎氏銅像

↓歩いて約1分(原眞一氏・萬一郎氏銅像と同じく中筋公園内にあります)

06江口甚右衛門正利像

スポットの紹介
01鯨賓館(げいひんかん)ミュージアム【有川港多目的ターミナル内】

 上五島の北の玄関口ともいうべき有川港に建つ「有川港多目的ターミナル」。ここに「鯨賓館ミュージアム」があります。
 ミュージアムは1階と2階に分かれており、1階は日本でも珍しい鯨の博物館になっています。江戸時代の有川捕鯨、近代の捕鯨を紹介する展示や、鯨やイルカの模型など、鯨に関する資料が公開されています。捕鯨の歴史はもちろん、鯨の解体・利用、捕鯨船内の様子なども紹介されています。また、有川鯨組の多くの記録が記されている『江口文書』も展示されており、非常に貴重な資料が揃っています。

藤を巻いているように見えますが、実はこれ、セミ鯨のヒゲ板を加工してつくられているんです。世界でも珍しい大変貴重な品物です。

セミ鯨のヒゲ板を使った応接セット

セミ鯨のヒゲ板を使った応接セット

 2階は、上五島にある教会群と、郷土力士・第50代横綱 佐田の山を紹介するコーナーです。

 新上五島町にある29の教会群と、町内丸尾郷出身で数多くの教会を設計・施工した鉄川与助(てつかわよすけ)の業績が紹介されています。上五島の教会を巡る前に訪れて、参考にしてはいかがでしょうか。

 また、有川出身の横綱・佐田の山関のコーナーでは、現役時代の写真や当時の相撲映像を観ることができます。番付(ばんづけ)や化粧回し、優勝盃、敢闘賞・殊勲賞・技能賞の杯などが展示されています。相撲ファンでなくとも、一見の価値があります。

開館時間: 午前9時〜午後5時
入館料 : 一般…………200円(団体・15人以上…150円)
小・中学生…100円(団体・15人以上…50円)
休館日 : 毎週月曜日、年末年始(12月29日〜1月3日)


02海童神社(かいどうじんじゃ)

 この海童神社は、1973年(昭和48)に捕獲された、体長18.2メートルのナガスクジラの顎(アゴ)の骨でできた鳥居があることで知られています。捕鯨で栄えた有川地域を代表するもののひとつです。

 1617年(元和3)から1619年(元和5)の間、毎年6月17日に限って、近くの海で遊泳する者の溺死が相次ぎました。人々が気味悪く思っていると、時の乙名役(おつなやく)、高井良福右衛門の夢枕に海神様が立ち、言いました。

「わしは、この地にずっと昔から住んでいるものだが、誰も祀ってくれるものがいない。以後わしを祀るものがいれば、願いを叶える」
 早速福右衛門は、村の人々に計り、当時小島だった地に海神様を祀って、即席の芝居を奉納したところ、溺死する者がいなくなったといいます。

 これが今でも「十七日祭り」と呼ばれる伝統行事として残っており、例年7月の第4日曜日に行われます。花火を合図に海童神社に奉納され、その後三味線や太鼓を響かせながら町中に繰り出して、数カ所の踊り場で寸劇が演じられます。多くの人出で賑わいます。

03鯨見山(くじらみやま)・鯨供養碑

 有川湾では、江戸時代の初めごろから明治時代まで捕鯨が行われていました。一番多く捕れた年は、1698年(元禄11)の83頭で、「鯨が一頭捕れると七浦が潤う」といわれた頃の有川の繁栄を物語っています。
 この山の頂上には「山見小屋」が置かれ、そこから鯨が来たことを知らせたり、出漁の合図などを行っていました。
 見晴らしがよく、透き通った海や有川の町並みもよく見えます。

有川の町並み

鯨供養碑

鯨供養碑

鯨見山にある山見小屋のすぐ傍に、
鯨の供養碑があります。

 1712年(正徳2)、江口甚右衛門正利(えぐちじんえもんまさとし)は、供養碑を建てました。碑文には、1691年(元禄4)から1712年(正徳2)までの21年間に、鯨を1312頭捕獲したことが刻まれています。
 石塔には、「鯨」のことを「鯨鯢」と標記されていますが、「鯨」はオスくじら、「鯢」はメスくじらを意味しています。
 このような鯨供養碑は、有川対岸の新魚目(しんうおのめ)、五島市の富江町(とみえちょう)にもあります。この西海の地で鯨がいかに多く捕れていたかがわかります。

04弁財天宮(めーざいてんぐう)

 有川では、1626年(寛永3)に江口甚左衛門正明(えぐちじんざえもんまさあき)が紀州古座三郎太郎と鯨組を組織し、鯨漁を行いました。
 1661年(万治4)、江口甚左衛門正明は61歳で死亡し、甚右衛門正利(まさとし)が有川庄屋及び総名主を継承します。しかし、富江領が分立して有川の海は富江領とされたため、五島藩の有川村民の入漁猟は一切禁止されてしまいました。
 甚右衛門正利は村民の窮状を救うため、藩の重役たちに必死で訴えを繰り返しましたが、富江は大村藩の深沢義太夫(ふかざわぎだゆう)に15年間の捕鯨権を与えてしまいます。双方の争論は絶えず、ついに甚右衛門正利は江戸公訴を決意します。この事件は有川・魚目の海境争いとよばれます。
 江戸へ四度、幕府評定所はその決死の訴えに、1689年(元禄2)、1690年(元禄3)と二度にわたり、有川村に海の権利を公認しました。
 江戸へ行き直訴していた甚右衛門正利は、道中、鎌倉の弁天様に勝訴の祈願をしていました。有川の勝訴で決着したことから、1691年(元禄4)にこの分霊を浜の小島に祀り、有川鯨組の守り神として、年の初めに鯨漁の安全を祈ったそうです。それから300年余り、鯨組や有川の守り神として住民の厚い信仰を受けてきました。

 弁財天宮の入り口には、現在散策路が設置されており、透き通る青い海を眺めながら美しい砂浜へ歩いていけます。

【弁財天(メーザイデン)】

 毎年1月第三日曜日、鯨を捕まえる羽差(はざし)の姿をした若者たちが太鼓をたたき、鯨唄を歌いながら地区内を練り歩き、大漁、商売繁盛、家内安全を祈願する行事が行われます。300年以上も前の慶長年間に始まったといわれています。

05原眞一氏・萬一郎氏銅像
 有川・中筋公園に、原眞一・原萬一郎親子の像が建てられています。この二人は、有川の近代捕鯨において大きな功績を残しました。
 原眞一は、1905年(明治38)、長崎に「富田屋」を開店して、中国貿易、トロール漁業、捕鯨業などをはじめます。そして、1908年(明治41)には大阪に東洋捕鯨株式会社、原商事会社を設立します。
 翌年には不振に陥った五島捕鯨会社を吸収して、失業する郷土の従業員を残らず雇い入れ、また有川村救援資金を設けて村民の生活を助けるなど、郷土の発展に尽くしました。
 原眞一の息子・萬一郎は、東洋捕鯨株式会社の三代目社長となり、近海式捕鯨の大不振期に母船式の遠洋捕鯨に着目し操業しました。商業時代最盛期には、旧有川町から600名以上の人々が捕鯨に従事したそうです。萬一郎は、現在も五島航路を運行する九州商船(設立:明治44年)の初代社長も務めました。
06江口甚右衛門正利像
 弁財天宮で紹介した江口甚右衛門正利の像です。有川・魚目の海境争いの時、江戸へ行って決死の訴えを行い、有川村に海の権利を公認させた彼の業績を後世に顕彰するため、1999年(平成11)、像が建立されました。
参考資料
  • ・上五島町郷土誌(平成16年発行)
  • ・郷土史事典(長崎県/石田 保著昌平社出版)
鯨見山(山見小屋)・鯨供養碑 弁財天宮 海童神社 鯨賓館ミュージアム 原眞一・萬一郎氏銅像 江口甚右衛門正利像

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人物
  • 佐田の山
  • 鉄川与助
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