ながさき歴史の旅

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テーマで歩く歴史散策

第11回 捕鯨・炭鉱の足跡残る島、松島

 今回の歴史散策は、西海市の松島を訪ねます。

散策コース&マップ

歴史散策コース

01瀬戸フェリー乗り場

↓瀬戸から松島へは約15分 

02釜浦港(かまうらこう)

↓歩いて約2分

03三国屋の屋敷跡(釜浦地区)

↓歩いて約3分

04松島神社

↓自転車で約10分

05桜坂

↓自転車を押しながら坂道を登って約10分

06あこうの樹

↓自転車で約15分

07日本一小さな公園

↓自転車で約8分

08松島炭鉱四坑(しこう)跡

↓登り坂を自転車を押しながら歩いて約35分

09遠見岳公園(とおみだけこうえん)

↓自転車で約20分(下り坂なのでスピードに注意!)

10深澤与五郎の墓・浅田弥次右衛門(あさだやじえもん)の墓

↓瀬戸港から車で約2分

11大瀬戸歴史民俗資料館(おおせとれきしみんぞくしりょうかん)

スポットの紹介
01瀬戸フェリー乗り場

 松島へ渡るには、西海市大瀬戸町にある瀬戸港(せとこう)から定期船に乗ります。瀬戸から松島へは約15分です。市営船「New松島」(西海市営交通船)とフェリー「シャトル5号」(江崎海陸運送)が運行しています。「New松島」は自転車や原付バイク、二輪バイクもOK。もし、車を渡したい場合は「シャトル5号」をご利用ください。

○瀬戸〜釜浦間乗車券(片道)
■旅客運賃 大人・・・200円 小人(小学生まで)・・・100円
■旅客以外 市営船「New松島」の運賃
 自転車・・・50円
 原付バイク(50cc以下)・・・100円
 二輪バイク(50cc以上)・・・150円
■旅客以外 フェリー「シャトル5号」の運賃
車両の長さによって異なります。

詳しくは、それぞれのサイトをご覧ください。

○New松島  
 http://www.city.saikai.nagasaki.jp/living/living1101-02.html
○シャトル5号 
 http://www.ezakikaiun.co.jp/


02釜浦港(かまうらこう)
釜浦港  らくだ島
釜浦港   らくだ島

 大村藩時代には、各地からの商船が盛んに出入りし、領内第一といってよいほど繁栄した港町でした。当時、釜浦港周辺には問屋や宿屋、飲み屋、遊郭などが軒を並べ、夜ともなれば三味線や太鼓の音色で賑わい、大村の城下から遊びに来る藩士も多かったといわれています。
 島に来る人を出迎えるように横たわっているかわいらしい島があります。おやっ、何かに似てませんか! そう、まるで「らくだ」のようです!「らくだ島」は、いまや松島のシンボルとなっています。

03三国屋の屋敷跡(釜浦地区)
三国屋の屋敷跡(釜浦地区) 三国屋の屋敷跡(釜浦地区)
当時の様子を残す釜浦地区

 松島の玄関口「釜浦港」から入江沿いに50メートルほど行くと、三国屋の屋敷跡があります。松島では薩摩藩との貿易が盛んだったそうです。慶応年間(1865〜1868)には、この釜浦や崎戸の蛎浦で大村藩、薩摩藩、長州藩の倒幕の志士たちが、幕吏の目を避けて密かに謀議をこらしていたといわれ、その密会場所は釜浦の三国屋であったとされています。
 1866年(慶応2)、大村藩の志士・渡辺昇は、長州藩の桂小五郎から銃器購入の世話を依頼され、大村藩の重臣たちに時局の重大さを説いてもらうことを約束に、共に長崎に赴きました。外国商館と銃器購入について交渉にあたっていたところ、桂小五郎が長崎の幕吏に見つかって捕らえられそうになったため、渡辺昇は奇策をこうじて桂小五郎を救ったといわれています。その後無事に銃器を購入した桂小五郎は、松島の三国屋に宿泊して、大村藩の家老江頭隼之助と御用人大村一学と大いに談笑し、時局の重大さについても討論がおこなわれました。
 この時、桂小五郎は江頭隼之助に手土産として「国重」の刀を贈りました。また、江頭隼之助も「重秀」の短刀を桂小五郎に贈って感謝の意を表し、

夢は夢 夢の夢にて過ぎこしを 今宵はさめて 君と語りつ

 と歌を詠んで、桂小五郎にその胸中を示しました。桂小五郎はこの日の歓待に感謝し、松島を去っていきました。
 三国屋は火災によって焼失し、残念ながら跡形もなくなっていますが、釜浦地区の石段や建物に当時の面影を見ることができます。

04松島神社

 松島神社は松島釜浦郷の高台に建ち、若宮八幡宮と祇園三所天皇の二社が合祀されています。
 1645年(正保2)に豊前国の小倉より八幡宮及び祇園社を奉遷し、1656年(明暦2)に現在地を社地と定めて社殿を造営し、奉祀したといわれています。その際に地元住民が奉納したといわれる「親子獅子」の舞は今も民俗芸能として引き継がれ、その時に使用した親子獅子の面とともに貴重な文化財として残っています。
 境内のクスの大木や大瀬戸の景観など、とても見応えあります。

自転車で行こう!

 釜浦港の方へ戻って、港の目の前に貸自転車があります。利用時間によって料金が変わりますが、300円から借りることができます。ここからは自転車で松島を一周してみよう!

受付・取扱:理容タサキ TEL:0959-22-1392

05桜坂

 松島の桜の名所「桜坂」です。坂道の両脇に桜の木が植えられており、開花時期には桜のトンネルとなって、人々を楽しませてくれます。

06あこうの樹

 桜坂を通り過ぎて登っていくと、あこうの樹と松山神社があります。このあこうの樹齢は定かではありませんが、地上1メートルの幹囲は8.2メートル、樹高は約20メートルもある巨木です。

07日本一小さな公園

 芝生の上にとても居心地がよさそうな手づくりのベンチがある、とても小さな公園です。五島灘を見渡すことができ、記念撮影や散策途中の休憩に最適です。
 この公園は地元の方々のボランティアによって、美しい公園として保たれています。
 すぐそばには上五島の奈良尾まで電気を送る海底ケーブルが設置されています。53キロメートルにも及ぶ海底ケーブルは日本最長です。

 少し進むと、池島炭鉱跡が見えてきます。

08松島炭鉱四坑(しこう)跡

 松島の石炭採掘に関する歴史は、1782年(天明元)から始まるといわれています。この頃は時津町の住人が串島で掘り出し、さらに松島の住人2人が共同で採掘していたといいますが、なかなか石炭を売りさばくことができず、格別な利益も得られなかったので、ほどなく中止されたといいます。その後も新炭脈が何度か発見され採掘されましたが、経営は長続きしませんでした。しかし、1807年(文化9)に大村藩の直営となった頃から鉱主が増え始め、諸国から石炭積船が絶えず出入りするようになったそうです。

 相次いで経営者が変わるなか、古賀善兵衛(こがぜんべえ:佐賀銀行の創始者)になってから1906年(明治39)に第一坑、第二坑、第三坑と開坑しました。1913年(大正2)に松島炭坑株式会社がこれらを買収し、1914年(大正3)に第四坑の開坑に着手しましたが、1915年(大正5)に第二坑が浸水。翌年に第四坑が完成したものの1918年(大正8)には第一坑が水没してしまいます。

山の中に点在する四角い電柱

山の中に点在する四角い電柱
 それでも第四坑の完成によって出炭量は年間40万トンに達し、1920年(大正10)には約51万5千トンを記録して、松島石炭産業の全盛期を迎えました。
 しかし、1929年(昭和4)に第三坑が、1935年(昭和10)には第四坑が水没するという大事故が発生しました。第四坑の水没事故では多くの方が犠牲となりました。その中には16歳から60歳までの女性10名の名前もあり、当時、坑内の採掘現場で女性も働いていたことがわかります。
 ドイツ人技士によって建てられた赤煉瓦の建物とコンクリートの変電所跡、四角い電柱、が当時の四坑の面影を伝えています。
09遠見岳公園(とおみだけこうえん)

 1809年(文化6)、大村藩主・大村純昌(すみよし)はこの遠見岳に狼煙場を設置しました。そして1858年(安政5)には、純煕(すみひろ)が外国船の来航、漂着、密貿易などを監視させるため、外洋の展望のきく遠見岳頂上に番所を設けました。
 現在、公園の展望所からは、素晴らしい展望とともに、眼下に広がる松島火力発電所などを見ることができます。

10深澤与五郎の墓・浅田弥次右衛門(あさだやじえもん)の墓

・深澤与五郎(松島与五郎)の墓

 田島助次郎と名乗っていましたが、2代目儀太夫(勝幸)の養子となり、平島(ひらしま:西海市崎戸町の島)の鯨組を継ぎました。1695年(元禄8)、平島から松島へ転居し、松島を本拠地として、平島、江島(えのしま:西海市崎戸町の島)から壱岐、対馬、長戸をまたぐ海域で捕鯨の操業をおこないました。松島鯨組とともに東西にその盛名をうたわれました。
 巨万の富みを得、大村藩に御用金を奉上したことよって、当時の藩主・大村純庸(すみつね)から深澤氏を賜りました。

浅田弥次右衛門の墓
浅田弥次右衛門の墓

 浅田弥次右衛門は、勤王、佐幕の対立で、国内が騒然としていた幕末の頃、大村藩で佐幕派家老として大きな力を占めていました。1864年(元治元)、当時尊皇攘夷運動の中心であった長州藩は、蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)で敗戦し、朝敵とされました。幕府は長州征伐に乗り出し、大村藩へ、長崎の長州藩邸を接収するよう命じました。家老であった浅田弥次右衛門がその任務にあたりましたが、巷に流れる流言や噂などに惑わされて慎重を期するあまり、ついに接収する機を失ってしまいました。このことにより、松島に流罪となったといわれています。

 自転車に乗って約10分ほどで釜浦港へ着きます。自転車を返却したら、船に乗って瀬戸港へ戻ります。

11大瀬戸歴史民俗資料館(おおせとれきしみんぞくしりょうかん)

 西海市役所の先に大瀬戸歴史民俗資料館があります。この資料館では、松島炭鉱の歴史やホゲット石鍋工房跡から出土した石鍋、串島遺跡の遺物など、貴重な資料が展示されています。

大瀬戸歴史民俗資料館入口に展示されている石鍋製作跡岩塊
 石鍋とは、古代人や平家の落人が厨房具として使用していたのではないかといわれる石で、日本の生活史上に登場するのは平安末期から鎌倉時代といわれています。しかしその起源や消滅した時期については明らかではありません。京都や奈良をはじめ近畿地方から西日本一帯、南は石垣島に至る各地から多数の石鍋が出土していますが、その生産地は数少ないといわれています。
※資料館から車で約10分、さらに歩いて約20分ほど行ったところにホゲット第6製作所跡があります。保存状況、遺跡の規模、内容等に優れており、日本でも最大のものであることから、1981年(昭和56)に国の史跡に指定されました。

この資料館は、複製品ではなくすべて本物を展示しています。
この資料館は、複製品ではなく
すべて本物を展示しています。
鍋だけではなく、皿型も出土しました。貴重な唯一の資料です。
鍋だけではなく、皿型も出土しました。
貴重な唯一の資料です。
串島遺跡に関する遺物
串島遺跡に関する遺物
家船のミニチュア
家船のミニチュア

・大村藩と家船の関係

 瀬戸(大瀬戸町)や崎戸島、蛎浦島に存在していたという家船(えぶね)のミニチュアサイズのものが、資料館に展示されています。全長10メートルほどの船の中に、食物や衣服、家財一切を乗せ、磯もぐりや沖もぐりなどの漁法で、網を使わず鉾突きで魚をしとめて暮らしていたといいます。このように舟上で生きる家船は九州東西の沿岸や瀬戸内海に存在したそうですが、大村氏領内の家船は数百年に渡り領主と特別な関係を保ってきたのが特徴です。
 1474年(文明6)、領主・大村純伊(すみこれ)が有馬貴純(ありまたかずみ)に攻められ、中岳城の合戦において敗れました。敗走する純伊を救い、敵の目をくらましながら玄海・加々良島(佐賀県)の渋江氏のもとまで連れて行ったのが家船の人々でした。大村氏の領地は有馬氏の支配下に置かれてしまいますが、家船の人々は密かに旧領地と連絡をとるなど水面下で純伊を助け、旧領地の回復に多大な貢献をしました。大村氏は渋江氏の協力により、波多氏、千葉氏、平井氏との連盟をつくり、敗戦から6年後に旧領地回復を果たしました。純伊は家船の功をたたえ、領内の漁業を自由にし、家船の長に姓を与えたといわれています。その後、大村藩になっても関係は続き、家船は明治の廃藩置県まで年末年始にアワビ42杯を大村藩主に献上し、毎年、初アワビや初雲丹を藩主に献上したあとに磯開きをおこなって、漁を始めていたそうです。
取材協力

・西海市役所 水産商工観光課

参考資料

・『大村史話 上巻』(木下義春編著/大村史談会発行)

・『大瀬戸町郷土誌』

瀬戸フェリー乗り場 釜浦港 三国屋の屋敷跡 松島神社 桜坂 アコウの樹 日本一小さな公園 松島炭鉱四坑跡 遠見岳公園 大瀬戸歴史民俗資料館

うんちくバンク

人物
  • 桂小五郎
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