ながさき歴史の旅

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テーマで歩く歴史散策

第12回 城下町“厳原”を巡る

 ドライブルートのなかから、歩いて学べるエリアをクローズアップしてご紹介するコーナーです。今回の散策コースのテーマは、「城下町“厳原”を巡る」です。

 厳原(いづはら)は、宗氏が1486年(文明18)に佐賀(さか:峰町)から移館して以降、約380年間続いた城下町です。対馬藩時代の武家屋敷跡や朝鮮通信使ゆかりの地など格式ある10万石の城下町を歩き、日朝関係の継続に尽力した歴史にも注目しましょう!


スポットの紹介
01長崎県立対馬歴史民俗資料館

ドライブルート(2010年5月6日更新)のスタート地点

長崎県立対馬歴史民俗資料館 長崎県立対馬歴史民俗資料館 長崎県立対馬歴史民俗資料館

 まず対馬の歴史を知るために、県立対馬歴史民俗資料館からスタートしましょう。
 対馬の文化財、考古学資料、民俗資料、宗家文庫などを収蔵・展示しています。
 詳しくはこちらをご覧ください。

02金石城跡(かねいしじょうあと)
金石城跡   櫓門
金石城跡   櫓門

 1528年(享禄元)に起こった宗盛治の兵乱で、宗氏の「池の館」は炎上焼失しました。その後、清水山の麓の島分寺(国分寺)があったと伝えられる金石(かねいし)に、 宗家14代将盛(まさもり)は館を移して「金石の館」と称しました。そして1699年(寛文9)に21代義真(よしざね)が城郭を改修し、櫓を築いて「府城(ふじょう)」または「金石城(かねいしじょう)」とよばれました。この時代は、全国的に豪壮な築城が流行していましたが、対馬では天守閣をもつ城は築かれていません。
 櫓門は1919年(大正8)に解体されましたが、1990年(平成2)に当時の写真や模型にもとづいて再建されました。

□ 旧金石城庭園

 国の名勝に指定されている庭園は、当時を偲ばせてくれます。
旧金石城庭園  2008年(平成20)の発掘調査により遺構の全容が明らかになりました。
 玉砂利敷きによる洲浜は奈良時代から平安時代にかけて流行した様式で、近世庭園としては希少な意匠・構造をもっています。 対馬独特の風土を活かした作庭精神と骨格がきわめて良好なことから、2007年(平成19)に国の名勝指定を受けました。

■お問合せ先: TEL:0920-52-5454
■休園日 : 火曜日・木曜日
■開館時間: 9:00〜17:00(16:30まで受付)
■見学料 : 一般300円 小・中学生100円

□ 李王家・宗伯爵家御結婚奉祝記念碑(りおうけ・そうはくしゃくけごけっこんきねんひ)
 1931年(昭和6)、朝鮮王朝最後の李太王「高宗」の王女徳恵(とくへ)と、対馬藩主の後裔伯爵宗武志(たけゆき)の結婚式が東京で日本式に行われました。同年、二人は対馬を訪れ、島民の歓迎を受けました。しかし、戦後両国の関係悪化のなか、誤解や風説が流れ、1955年(昭和30)にやむなく離別することになりました。徳恵は1989年(平成元)に故国において永眠。宗武志は貴族院議員として活動していましたが、1985年(昭和60)に亡くなりました。白秋門下の詩人としても活躍し、何冊もの詩集を発行しています。
 その後両国のなかで歴史が見直され、日韓交隣を促進する声があがり2001年(平成13)に対馬と韓国の両方で「記念碑復元実行委員会」が発足し、旧金石城庭園の近くに記念碑が建立されました。
03万松院(ばんしょういん)

 山門は、現存する対馬最古の建物で桃山様式を伝える貴重な建造物です。照葉樹林に覆われた山腹の宗家歴代の墓地がある一帯も含め、「対馬藩主宗家墓所」として国の史跡に指定されています。宗家墓所は、金沢の前田家、荻の毛利家の墓地とともに日本三大墓地といわれています。
 1615年(元和元)、対馬藩2代藩主(宗氏20代)の義成(よしなり)が、朝鮮出兵、関ヶ原の戦い、朝鮮国交回復と苦難を重ねた初代藩主(宗氏19代)・義智(よしとし)の供養のため、金石屋形の西の峰に松音寺を創建しました。1622年(元和8)には、義智の法号にちなんで万松院と改めました。1647年(正保4)に現在地に移り、累代の菩提寺となりました。義智から15代藩主・義和(よしより)までの歴代藩主と正夫人の墓があります。
 墓所は、百雁木(ひゃくがんき)とよばれる132段の石段を登った山腹の御霊屋(おたまや)にあります。中御霊屋には、厳原に最初に府を開いた宗氏10代貞国(さだくに)の墓もあります。なかでも朝鮮貿易が活況を呈し藩財政が潤っていた頃の2代藩主・義成、3代藩主・義真(よしざね)とその夫人の墓は上御霊屋にあり、ひときわ偉容です。

■拝観料: 大人300円 高校生200円 小・中学生100円
04以酊庵(いていあん)跡
 宗家16代・宗義調(よししげ)に招かれて、博多聖福寺の景轍玄蘇(けいてつげんそ)が対馬にひらいた禅寺を以酊庵とよびました。
 景徹玄蘇は、豊臣秀吉・徳川家康の命令で、朝鮮との外交文書をこの以酊庵で取り扱かったといいます。玄蘇の弟子・規伯玄方(きはくげんぽう)が第2代となりましたが、1635年(寛永12)の柳川一件(日本と朝鮮間の国書偽造をめぐって、対馬藩主と家老が対立した事件)に関与したことから、陸奥国に流罪となりました。
 柳川一件以降、以酊庵は輪番制として、京都五山から輪番で対馬へ派遣させることになりました。対馬に派遣された僧は、以酊庵に駐在して朝鮮との外交に関する往復文書を取り扱いました。輪番制には、対馬藩の朝鮮外交を監視する意味も含まれていたといいます。
 以酊庵は何度か場所を変わりましたが、1732年(享保17)に西山寺に移りました。また、朝鮮通信使の宿泊所にも使用されました。

朝鮮との国交回復から柳川一件まで

05八幡宮神社(はちまんぐうじんじゃ)
 対馬藩初代藩主・宗義智(よしとし)は、キリシタン大名・小西行長(こにしゆきなが)の娘であるマリアを妻としており、自ら洗礼(洗礼名ダリオ)を受けました。 関ヶ原の戦いでは行長について西軍の味方でした。しかし行長が戦死し、西軍が敗れたことによって、西軍側についた宗氏の存亡が危ぶまれました。義智は対馬を思い、 マリアと離別し、徳川方に恭順を示しました。
 この八幡宮神社内には、妻マリアとその子どもを祀っている社があります。
06対馬藩家老屋敷跡・武家屋敷(つしまはんかろうやしきあと・ぶけやしき)
 宗家の家老・氏江(うじえ)家が屋敷を構えていました。氏江家は藩主宗家一門の家柄で、900石の石高でした。現在は国道382号線が目の前を通っていますが、 ここはかつて馬場筋通りと称する大通りで、宗家の家臣達の屋敷が建ち並び、人の背丈よりも高い石垣塀が続いていました。明治以降、この氏江家の屋敷は厳原支庁、 対馬島庁、1926年(大正15)からは長崎県対馬支庁、対馬地方局、対馬振興局の庁舎となっています。現在では周囲の石垣、長屋門、庁舎裏の庭園などに当時の武家屋敷の面影を残しています。
参考資料

・『旅する長崎学12 対馬 朝鮮外交への道』(企画/長崎県 制作/長崎文献社)

・『厳原町誌』

・『対馬国志 第2巻 中世・近世編 武門の興亡と対馬の交隣』(永留久恵著)

・『長崎県文化百選 壱岐・対馬編』(長崎県)

・『つしま百科』(平成20年3月 長崎県対馬地方局)

金石城跡 長崎県立対馬歴史民俗資料館 万松院 八幡宮神社 八幡宮神社 対馬藩家老屋敷跡・武家屋敷 以酩庵跡

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  • 朝鮮通信使
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      • 以酊庵
      • 長崎県立対馬歴史民俗資料館
      • 万松院
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