ながさき歴史の旅

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ながさき歴史散歩

第8回 原城に散った祈り"島原の乱"をゆく

 1637年(寛永14)、天草四郎を総大将に島原と天草の領民が結集した一揆軍は、島原城と富岡城を落城できず、最後の砦「原城」へと向かい、籠城しました。幕府軍と援軍オランダ船に挟み撃ちにされながら、激しい砲撃を必死に攻防する四郎たち。領民たちの悲痛な苦しみと怒り、そして心のよりどころとなった祈り…。今回の旅は、日本最大の一揆“島原の乱”の最後の舞台となった南島原を巡ります。
歴史のとびら
 1614年、徳川幕府の発布した禁教令により、全国で厳しいキリシタン摘発がおこなわれました。
 島原では、2代目藩主となった松倉勝家(重政の息子)がさらに無謀な重税を課し、禁教に名をかりて領民をおどします。これに追いうちをかけるように天災、飢饉・凶作などが島原半島と天草の領民を苦しめていました。1637年(寛永14)、妊婦を拷問死させた事件や、代官が聖画像を踏みにじる事件が相次いで起こり、領民たちは激昂。おさまらない怒りに次々と島原半島南部の代官を襲いました。そして、とうとう「湯島の談合」で蜂起することを決意。天草四郎を総大将とする一揆軍は、森岳城(島原城)と富岡城を激するも落城できず。城を落とせなかった島原と天草の領民ら約3万7千人(約2万7千人ともいわれる)は、1638年、一国一城制で廃城となっていた原城に立てこもりました。一揆軍は、ポルトガルからの援軍を待っていたといわれますが、海上に現れたのは幕府軍の援軍として要請されたオランダ船による大砲の砲撃でした。原城本丸を正面に見据える重箱山から放たれた一発の銃弾が、四郎の着物の裾を打ち抜きました。不死身といわれカリスマ的存在だった四郎に迫る攻撃の嵐、一揆軍に動揺が広がった瞬間でした。幕府軍との激しい攻防の末、ついに陥落した原城では、なんと女性や子どもまでもが皆殺しに…。そのなかで、ただひとり生き延びたとされる南蛮絵師の山田右衛門作の数奇な悲運…。
 乱の最後の舞台となった原城は、幕府の命令で徹底的に破壊されました。原城籠城88日間にわたる島原の乱の終盤戦を追いかけて、探求の旅へ出かけましょう。悲愴なまでの覚悟を胸に、幕府という強大な権力に立ち向かった一揆軍の魂を感じる歴史の旅がはじまります。

散歩コース

スタート地点までのアクセス

◎所要時間のめやす:1日(車&徒歩)

1原城本丸跡

↓徒歩10分 or 車で約3分

2鈴木重成建立の供養塔

↓徒歩で約25分 or 車で約8分

3原城文化センター

↓徒歩で約15分 or 車で約5分

4重箱山

↓ 徒歩で約10分 or 車で約3分

55トンネル(甬道)跡

↓徒歩10分 or 車で約3分

666板倉重昌の碑

↓車で約10分 or バスで約10分

677山田右衛門作住居跡

1原城本丸跡

天草四郎率いる一揆軍の祈りと命が散った原城

一揆軍が立てこもった原城の本丸跡。

 天草四郎もここで陣頭指揮を執っていました。原城は元々、キリシタン大名 有馬氏の「日野江城」の支城。ところが1616年、大和(奈良)から島原へ入部してきた松倉重政が一国一城令に基づいて日野江城と原城を廃城とし、森岳城(島原城)の築城にのりだします。このとき日野江城と原城の石垣や資材を、森岳城築城のために持ち去ったとされていましたが、近年の原城跡発掘調査によって、原城の徹底的な破壊は島原の乱後であることが判明し、通説に大きな疑問を投げかけています。 重政が身分不相応な規模の森岳城築城のために課した重税と労役が領民を苦しめ、島原の乱勃発の主因をつくったといわれます。

 本丸に立って島原の乱の様子を想像しながら周囲を見回してみましょう。海の向こうが天草。海からは、幕府軍の要請で参戦したオランダ船2隻が、約10日間、原城めがけて砲撃を続け全部で400発以上が発射されたといいます。後ろを振り返って陸側は、幕府の援軍から包囲されました。その総攻撃によって、3万7千人ともいわれる一揆軍の命は、老若男女の別なく、この原城に散り、乱は終結しました。幕府を震撼させた最大の一揆として歴史に登場する島原の乱の最後の舞台が、ここ原城跡なのです。

 ここで、島原の乱にまつわるエピソードが起源と言い伝えられる郷土料理“具雑煮”を紹介しましょう。具雑煮は、原城に籠城した一揆軍が、各人で持ち寄った山海の食材や餅を、ひとつの鍋に煮込んで食べたのがはじまりといわれています。
 アツアツで具だくさんの雑煮は、島原の地域ではお正月などおめでたい日によく食べます。海の幸と山の幸から出るおいしいダシと薄口醤油で味付けし、野菜のほんのりやさしい甘味が決め手で丸餅が入っています。心と体をあたたかくしてくれる郷土料理なんです。
 一揆軍が原城に籠城したのは海風が冷たく吹く、寒さ厳しい冬でした。もちろん、いまの具雑煮とまったく同じイメージではないでしょうけれど、立てこもった人々の様子に思いを馳せる一品です。

2鈴木重成建立の供養塔

敵・味方…すべての鎮魂を願って

 天草の領民がたてこもったといわれる天草丸の辺りから坂を降りて南有馬漁港の方に、八坂神社の境内へと向かいましょう。鈴木重成は、天領となった天草の初代代官に就任した人物。幕府軍に参戦していた鈴木は、島原の乱から10年目の1648年、戦死者の鎮魂のため、天草・島原の数ヵ所に供養塔を建てました。そのひとつがこの供養塔です。乱の象徴ともいえる原城は徹底的に破壊されたものの、戦死者の魂だけは救ってやりたい…そんな鈴木の宗教を超えた義侠心が感じられます。敵味方や宗教といった垣根を越えて土地を清めたそうです。
3原城文化センター

原城跡の発掘調査の成果を見る!

 館内の原城跡発掘出土品展示室に、島原の乱の経過や、原城跡の発掘によって出土した数々の遺品が展示してあります。特に、おびただしい数の人骨が出土した模様を再現してあるジオラマは迫力十分! 戦いの生々しさがリアルに伝わってくるようです。赤い台の上の十字架は、鉛を溶かして手づくりされたもの。原城に立てこもった一揆軍の心のよりどころとなったのでしょうか。そして、青い台に展示されているゴロゴロとした小さな丸い粒は、十字が印された鉛の鉄砲弾。一揆軍が原城に籠城しながら、身の回りにある鍋などを溶かして十字架や鉄砲の弾をつくっていた様子が思い浮かぶような遺物です。
4重箱山

ここから撃った砲弾が天草四郎の袖を直撃!

 ミカン畑の中にある小高い丘が、重箱山です。なるほど、ここから原城は丸見えです。直線距離にして約900メートルといったところでしょうか。
 幕府は、各藩に砲台をつくらせましたが、ここは鍋島藩が築いた砲台です。オランダ船の砲弾を移して砲撃したといいます。なんとこの砲台から発射された一発の弾が、天草四郎の袖を撃き、この時そばにいた人たちにも次々と命中して一揆軍のなかから死傷者をだしたそうです。
 この攻撃で、「四郎は不死身だ」「四郎のそばにいれば死なない」と信じていた一揆軍の人たちに動揺がひろがり、カリスマ四郎の統率力が薄らいでいったともいわれています。
 重箱山からの砲撃のほかにも、いろいろな策を講じて攻め入った幕府軍。今度はトンネル作戦の場所 甬道(ようどう)跡へと向かいましょう。
5トンネル(甬道)跡

幕府軍が掘ったトンネル


 原城を攻めあぐねた幕府軍はその攻略のため、遠くは日向国(現在の宮崎県)から炭坑夫を呼び寄せて、一揆軍の本陣へ続くトンネルを掘らせようとしました。結局、これに気づいた一揆軍が生葉をいぶして煙に巻き、糞を注いで撃退しました。幕府軍は進撃を断念したと伝えられています。この攻撃で一揆軍の3人が殺されました。あの手この手を使って何とか一揆軍を追い詰めようとした幕府側の苦慮が伝わってくる遺構です。幕府軍が掘ったとされるトンネルの入口が残っています。
 このトンネルには浦田観音さまが祀られていました。この観音さまは、原城の城主 有馬晴信にまつわる乳出安産の神さまです。毎月旧暦の17日には参拝する人がいるそうですよ。
6板倉重昌の碑

原城に突撃して討ち死にした幕府からの使い

 島原の乱を鎮圧するため、将軍徳川家光から直々に上使として遣わされたのが板倉重昌です。三河国から島原へと向かう彼は、到着する前に次の上使の派遣が決まったことを知ってしまいます。板倉は怒りと屈辱から、約5万の軍勢で原城の攻撃を開始しますが、なかなか攻め落とせませんでした。焦った板倉は前線に立って戦ったものの、幕府軍の足並みはそろわず、自ら本丸に乗り込んで討ち死に。乱の平定後に孫の重道が供養碑の建立を計画したにもかかわらず、幕府からの認可がなかなかおりなかったそうです。結局碑が建ったのは、なんとそれから117年後のことでした。
7南蛮絵師 山田右衛門作の住居跡

島原の乱、一揆軍で唯一人の生き残り

 原城に籠城した一揆軍の中で、唯一生き残ったと言われているのが山田右衛門作(やまだえもさく)です。一揆軍に妻子を人質にとられ、無理矢理参加させられたという話もある反面、一揆軍の副大将にもなり、晩年にはキリシタンに立ち返ったなど…何とも謎の多い人物です。その右衛門作が、島原の乱勃発前に住居を構えていたといわれるのが口之津でした。有馬のセミナリヨで西洋画を学んだとされる彼は、南蛮絵師となり、原城本丸にひるがえった有名な天草四郎陣中旗は彼の手によるものといわれています。
参考文献

『旅する長崎学3 キリシタン文化3』
特集3 幕府をゆるがせた123日-島原の乱

『原城発掘 西海の王土から殉教の舞台へ』
編集/石井進・服部英雄 監修/長崎県南有馬町

スタート地点までのアクセス

原城本丸跡

所在
長崎県南島原市南有馬町大江
お問い合わせ
南島原市教育委員会文化課 TEL/050-3381-5083
開館時間
9:00〜18:00
休館日
なし
料金
無料
アクセス
車…長崎駅より約2時間。 島原港より約45分。 諫早駅より約90分。
*国道251号線沿いを走ります。
バス…島鉄バス〔口之津・島原・多比良港線〕の乗車し≪原城駅前≫で下車、徒歩で約15分。
鉄道…島原鉄道<原城駅>で下車し、徒歩約15分。

長崎空港からのアクセス
車…約1時間40分。
バス…空港連絡バスの島鉄バス〔島原〕行きに乗車し≪島鉄バスターミナル≫で下車(所要時間約100分)、島鉄バス〔口之津〕行きに乗り換え≪原城駅前≫で下車(所要時間は約55分)、徒歩15分。島原駅より電車を利用する場合、島原駅より島原鉄道の[加津佐方面]の電車に乗り<原城駅(所要時間は約60分)>で下車、徒歩で約15分。

福岡からのアクセス
高速バス…
・島鉄バス〔平成新山号(福岡-島原間)〕に乗車し≪島鉄バスターミナル≫で下車(所要時間は約3時間)、島鉄バスターミナルより、島鉄バスの〔口之津〕行きに乗り換え≪原城駅前≫で下車(所要時間は約55分)、徒歩15分。

電車…
・JR博多駅より[特急かもめ]に乗車し<諫早駅>で下車(所要時間は約75分)、島原鉄道に乗り換え<原城駅(所要時間は約2時間)>で下車、徒歩で約15分。
・JR博多駅より[特急かもめ]に乗車し<長崎駅>で下車し、車で約2時間。

熊本からフェリーで行く!
・島鉄フェリー[鬼池-口之津間](所要時間は約30分)に乗船し、車で約12分。口之津港よりバスを利用する場合は、島鉄バスの〔島原・多比良〕行きに乗車し≪原城駅前≫で下車(所要時間は約15分)、徒歩で約15分。

・九商フェリー[熊本港-島原港間](所要時間は約60分)に乗船、車で約45分。島原港からバスを利用する場合は、島鉄バスの〔口之津〕行きに乗車し≪原城駅前≫で下車(所要時間は約45分)、徒歩で約15分。

・有明フェリー[有明丸・サンライズ(長洲港-多比良港間)所要時間は約40分]に乗船、車で約60分。多比良港からバスを利用する場合は、島鉄バスの〔口之津〕行きに乗車し≪原城駅前≫で下車(所要時間は約85分)、徒歩で約15分。

*平成20年4月1日(予定)より島原鉄道の[島原外港-加津佐]間が廃線となります。旅行を計画される方は、各交通機関の窓口へお問い合わせ下さい。

● 長崎空港・JR博多駅・鬼池港・熊本港・長洲港までのアクセスは「ながさき旅ねっと アクセス」をご覧ください。


うんちくバンク

人物
  • 天草四郎
  • 有馬晴信
  • 板倉重昌
  • 南蛮絵師 山田右衛門作
  • 島原藩2代藩主の松倉勝家
  • 松倉重政
歴史事件
  • 一揆軍として参戦した村で
  • 島原の乱から鎖国へ
  • 日本最大規模の一揆“島原の乱”
資料
  • 天草四郎陣中旗
  • 具雑煮
  • 原城へと攻める夜襲の鐘が鳴り響いた
場所
  • 板倉重昌の碑
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