ながさき歴史の旅

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ながさき歴史散歩

第10回 鐘の音が鳴り響く教会ストリート

〜消えた教会群〜
被昇天のサンタ・マリア教会を描いた南蛮人来朝之図屏風右隻(部分:長崎歴史文化博物館収蔵)

 元亀元年(1570)、日本初のキリシタン大名 大村純忠は、ポルトガルとの貿易の拠点として長崎の開港を決め、翌年、ポルトガル船が初めて入港しました。 現在、長崎県庁から市役所にかけての通りは、サラリーマンが行き交うオフィス街ですが、今から400年以上前の16世紀後半には病院の施設を兼ね備えた教会が次々と建ち並び、宣教師たちが闊歩した教会ストリートでした。 今回は、キリシタン時代の面影と痕跡をたどりながら、消えた教会をめぐる旅へといざないます。

歴史のとびら
花十字紋瓦(サント・ドミンゴ教会跡資料館収蔵・長崎市教育委員会)
 「長崎は日本のローマなり」。 この言葉は反キリスト教の書物『伴天連記』に書かれた一文です。 筆者は、長崎のどのような光景を見て"ローマ"と表現したのでしょうか? それは、キリスト教の十字架が掲げられた教会堂、福祉施設や病院、教理を学ぶ学校などが長崎の町に集中して建ち並ぶ風景…。 ロザリオを手にミサへと急ぐ人々、キリシタンたちを中心とする福祉活動、そして日本人と西洋人が行き交って活気にあふれる賑やかな町の様子…。 そんな新しい長崎の町に出会った驚きを書き留めたのでしょうか。
 では、キリシタンの町「長崎」は、どのように形成されていったのでしょう。
 天文19年(1550)、ポルトガル船が入港し、フランシスコ・ザビエルが訪れた平戸は貿易で賑わっていましたが、ポルトガル船員と日本人商人の間にいさかいが起こって殺傷事件にまで発展したため、松浦氏の平戸からその拠点を移します。 南蛮貿易港は、大村領内の横瀬浦、福田へと移り、その後、天然の良港<長崎>に白羽の矢が当たりました。
 開港以前の長崎は、大村領の小さな村で、家臣でキリシタンの長崎甚左衛門の館のあった夫婦川の一帯が中心地でした。 永禄12年(1569)、トードス・オス・サントス教会という長崎で最初の教会が建ち、キリシタンも増えていました。 そんななか、元亀元年(1570)に大村純忠は、イエズス会と長崎の開港協定を結び、翌年には初めてポルトガル船が入港しました。
 甚左衛門の館から2キロも離れた何もない岬の台地では、新しいまちづくりが始まります。 現在の県庁が岬の先端で、市役所の方に向かって、横瀬浦町・外浦町・分知町・平戸町・島原町・大村町の6町が誕生。 岬の先端にはサン・パウロ教会が建ちます。 さらに天正8年(1580)、純忠は周辺の敵からの攻撃をかわすために長崎と茂木をイエズス会に寄進、また天正9年(1582)には長崎港から天正遣欧使節の4少年がローマへ向けて出発するなど、長崎はキリシタンのまちとして繁栄していきます。
 そのわずか後の天正15年(1587)、豊臣秀吉が伴天連追放令を発布して長崎・茂木を直轄地とし、教会は破壊されてしまいました。 しかし、南蛮貿易は推奨していたので、禁教は不徹底な状況で、慶長5年(1600)頃から教会の建築ラッシュ!! 教会や福祉施設、病院が建ち並び、瞬く間にさながら小ローマのような町並みが出現したのです。
 ところが事態は急変します。 秀吉から徳川家康へと政権が移り、当初はキリスト教を黙認していた江戸幕府が、1614年、ついに禁教令を発布しました。 厳しいキリシタン取り締まりが行われ、教会はすぐさま壊され、かろうじて福祉施設という役割から破壊を免れていたミゼリコルディアの組が運営している病院なども元和6年(1620)には壊されます。 教会の跡地には、奉行所や代官屋敷、仏教寺院などが建ち、長崎の町からキリシタンの色は消えていきました。 華やかだったキリシタン文化の繁栄は、こうして厳しい受難の時代へと突入したのです。
 キリスト教が日本に伝わって半世紀の間のできごとでした。
1トードス・オス・サントス教会の跡(華嶽山 春徳寺)

長崎で最初に建てられた教会

春徳寺の参道にある大木
春徳寺の切支丹井戸と出土した大理石

 春徳寺通りの坂道を登ると、少しずつ長崎の街の視界が開けてきて、心地よい風が吹いてきました。 春徳寺の山門の前にある、大きな樹木が目印です。 この立派な木は、もしかしたら教会が建っていたずっと昔のことを見てきたのかもしれないなーと思ったりしながら、散策をスタート。 さっそく歴史の痕跡を見にいきましょう。

 16世紀中頃の長崎は、日本初のキリシタン大名 大村純忠の領地でした。 家臣 長崎甚左衛門純景が、唐渡山(とうどさん)と呼ばれる裏山にお城を構え、小さな村落があるにすぎませんでした。 甚左衛門は、純忠の重臣で、純忠の一字をもらって純景と名乗り、純忠の娘を妻にし、純忠と一緒にキリスト教の洗礼を受けています。 この長崎に最初の教会が建ったのは1569年のこと、宣教師のヴィレラが甚左衛門から住居として与えられた廃寺をリフォームしたものでした。 これが、トードス・オス・サントス教会(諸聖人の教会)で、今は春徳寺となっているこの場所にあったとされます。 裏の山を"トードサン(唐渡山)"と呼ぶのは教会の名残だともいわれているんですよ。 その後、この場所には、キリシタン学校であるセミナリヨやコレジヨも移ってきました。

 現在、この春徳寺の庭では、教会時代の遺構として残る生活に欠かせない切支丹井戸と出土した大理石を見ることができます。 蓋を開けて中を覗かせてもらいました。 徳川幕府の禁教令で破壊されても、奇跡的に残った白い大理石。 祈りを捧げた祭壇用なのか、はたまたパンをこねるための調理用なのかはっきりしたことはわかりませんが、教会があった時代の面影を感じることができる貴重なものです。 切支丹井戸と大理石の見学を希望される方は、事前に連絡をしましょう。

ルイス・デ・アルメイダの長崎布教記念碑

 春徳寺通りの突き当たり、ゆるやかな坂を歩く正面で出会うのがアルメイダの長崎布教記念碑です。 ちょっと立ち止まって見てください。 アルメイダは、大村領の小さな村「長崎」にやってきた初めての西洋人で、甚左衛門の許可を得て長崎で最初にキリスト教の布教活動をした人です。このアルメイダから長崎のキリシタン時代が始まったと言っていいかもしれません。 永禄10年(1567)、今から440年前の出来事です。
 彼は貿易商人、外科医、宣教師といくつもの顔を持つ多才な人で、九州各地で布教活動を行いながら日本に西洋医学を伝え、福祉事業にも携わりました。 1566年には、病気で苦しんでいた五島の領主 宇久氏のもとへも赴き、五島で最初の布教をおこなっています。

2山のサンタ・マリア教会の跡(長崎歴史文化博物館)

町の発展とともに大きくなった森の中の教会堂

山のサンタ・マリア教会跡の碑
長崎歴史文化博物館
 この教会は、現在の長崎歴史文化博物館あたりにあったといわれています。 名前のとおり、教会は小高くなった山の森の中に建っていたそうです。 小さな聖堂があるだけでしたが、ポルトガルとの貿易で新しく形成された長崎の町が発展し、キリシタンの数もどんどん増えるにつれ、その規模も大きくなっていきました。 十字架が建つ墓地を兼ね備えた立派な教会だったそうです。 徳川幕府の禁教令で破壊された跡地には、長崎奉行所立山役所が設置されました。
 長崎歴史文化博物館のイベント広場に教会跡の石碑が建っています。 博物館は、復元した奉行所と現代的な博物館が融合した、長崎県内の歴史が学べる博物館となっています。 館内にはキリシタン時代にまつわる資料も展示されていますよ!
3サント・ドミンゴ教会跡資料館(桜町小学校の敷地内)

本当に教会が建っていたんだ!

花十字紋瓦 大量に出土した花十字紋瓦 サント・ドミンゴ教会跡資料館の内部
 長崎歴史文化博物館の斜め向かいにある桜町小学校の敷地内に「サント・ドミンゴ教会跡資料館」があります。 ここはドミニコ会の教会堂が建っていたところです。 館内には、発掘調査の現場がそのままに保存されています。 小ローマとよばれた当時の長崎の様子をうかがい知る数少ない遺構です。 約400年前の様子をじっくり観察してみてはいかがでしょう。 この石畳を宣教師や信徒たちが歩いていたんだろうな! あっ、そこの石組みの地下室はどんなふうに使ったんだろうか? というような想像ができます。 この発掘現場からはたくさんの花十字紋瓦が出土したそうです。 十字の先端が花びら状に開いた花十字の文様が、とってもおしゃれな感じ。 当時、キリシタン墓碑などにも彫られたりして、キリシタン文化の象徴的な文様だったみたいですね。
 この教会は、長崎代官の村山等安がドミニコ会に寄進した土地に、薩摩を追われたモラーレス神父が京泊(現在の鹿児島県薩摩川内市)にあった教会を解体して、木材を船で運んで建てたもの。 残念なことに、完成してからわずか5年後には徳川幕府の禁教令で破壊されてしまいました。
4サン・フランシスコ教会の跡(長崎市役所別館)

未完成のまま破壊された教会

サン・フランシスコ教会と桜町牢の跡
 教会堂と修道院の建設に同時に取りかかっていた矢先、その完成をみることなく徳川幕府の禁教令によって破壊されてしまいました。 跡地に建てられたのは、なんと桜町牢。 この牢には、キリスト教の取り締まりによって捕らえられた多くのキリシタンたちが投獄されました。
5サン・アントニオ教会の跡(長崎市公会堂)

代官が建てた教会

長崎市公会堂

 長崎市役所別館から、下を路面電車が通るトンネルの方に坂をくだった場所にあります。 代官の村山等安が、息子のフランシスコ村山のために建てた教会堂。 ここから魚の町一帯には墓地もあったそうです。

 ここから路面電車の[3番・赤迫]行きに乗車して<長崎駅前>で下車し、本蓮寺のある「サンジョアンの町」へと向かいましょう。 もちろん電車に乗らずに歩いてもOK、20分ほどの道のりです。

6サン・ジョアン・バウチスタ教会とサン・ラザロ病院の跡(日蓮宗聖林山本蓮寺)

「サンジョアンの町」に残る南蛮井戸

本蓮寺に残る南蛮井戸の跡

 地元の人たちは本蓮寺のある周辺を「サンジョアンの町」と親しんで呼んでいたそうです。 ここは、南蛮船のベレイラ船長の寄付で建てられたサン・ラザロ病院があった場所です。 その隣に、サン・ジョアン・バウチスタ教会が併設されました。
 禁教令で破壊されたあとに建ったのが現在の本蓮寺。 このお寺の庭に、当時使われた南蛮井戸の跡が残っています。 南蛮井戸を見学したい方は、事前に本蓮寺の事務所へお願いの連絡をしましょう!

本蓮寺の本堂

 階段をのぼった高台。 昔は、ここから長崎の港と町並みが一望できました。 往来するポルトガル船の様子もよく見えたことでしょう。

旅人コメント

「キリシタン時代に建てられた教会跡を訪れていくと、見晴らしのいい高台にあることに気付きました。 これは斜面が多い長崎ならではなのでしょうか? それとも港からよく見える場所を選んで建てたのでしょうか?」(ガーナ)

7サン・ペドロ教会の跡(KTNテレビ長崎の付近)

今は教会の跡は無いけれど…

 KTNテレビ長崎と坂本屋が目印です。 場所はわかりませんが、この周辺に教会があったそうです。 今、自分が立っている場所が小高くなっていて、すぐ坂になっている地形から、昔の長崎の岬の姿を思い描くことができます。 目の前の坂道を下って、県庁の方向に向かって歩くと、石垣が続く箇所がありますが、これに沿ってたどっていくと長い岬の当時の雰囲気がわかりますよ。 昔は海だったところを歩いているんですね。

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8ミゼリコルディア本部と教会の跡(長崎地方法務局の付近)

慈善・福祉活動を奉仕する信心会「ミゼリコルディア」

ミゼリコルディア本部跡の碑 大音寺坂  大音寺坂をくだる途中の、現在は長崎地方法務局の建つ場所にミゼリコルディアの本部があったそうです。 ミゼリコルディアの組とは、ポルトガルでおこなわれていた信心会にならって日本でも結成された組織で、病人への看護など人々の救済をするために奉仕活動をおこなっていました。 長崎ではハンセン病院・養老院・育児院・墓地など多くの施設を運営していました。 女性のグループもあって、多くの人々が奉仕活動をしており、1614年の江戸幕府の禁教令で教会がことごとく壊されたときも、その役割の大きさから破壊をまぬがれましたが、ついに1620年に壊されてしまいました。
 この階段を下りきったところが、これまた昔は海だったのでしょう。 さっき、サン・ペドロ教会跡のついでに見た海岸線と逆側のラインで、当時の岬の様子が想像できます。

9サン・チャゴ教会の跡(長崎銀行本店)

時を知らせる鐘が鳴り響く

サン・チャゴ教会の鐘(大分県竹田市の中川神社収蔵)  ミゼリコルディアが運営する病院と小さな教会堂が建っていたそうです。 この教会にはサン・チャゴの鐘が鳴り響いていました。この鐘は、いまも大分にある中川神社に現存。 「十字架」と「1612」という年代が刻まれていて、この刻印から確かにこの時代にあったことを証明しています。
サン・チャゴ教会の跡(長崎銀行本店)  現在、教会があったとされる場所には、長崎銀行本店があります。 この建物は大正13年の創建でレトロな雰囲気なので、眺めてみましょう。

旅人コメント

「ここから眼鏡橋はすぐだよ!」(トラ)

10サン・アウグスティン教会の跡(常盤橋から観光通りの出入口付近まで)

徳川幕府の禁教令が発布される2年前に建てられた教会

 中島川にかかる常盤橋から、観光通りの出入口付近一帯までと、かなり大きな範囲がアウグスチノ会本部が置かれた場所となります。 1612年に建てられていますので教会建築ラッシュの終盤ぐらいに建てられています。

11岬の教会の跡(長崎県庁舎)

イエズス会の本部がありました。

岬の教会イメージ図  現在の県庁があるところが、長い岬の突端でした。長崎の港が開港し、新しいまちづくりが始まったころ、ここに小さな「サン・パウロ教会」が建ちました。 その後何度かの建て替えや破壊を経て、「被昇天のサンタ・マリア教会」ができ、これは当時の日本で最も大きく美しい教会といわれ、キリシタンだけでなく大勢の見物人が集まったそうです。 ローマ数字が使われた大時計や、音楽を奏でる鐘などもめずらしかったことでしょう。
イエズス会本部跡の碑  ところで、キリシタン時代の教会は、今私たちが想像するような西洋風の教会とは様子が違っていたようです。 左の写真は、岬の教会のイメージです。木造で瓦屋根の上に十字架が掲げられた建物。 イエズス会年報には、被昇天のサンタ・マリア教会の様子が報告されています。 「崖下から3層構造の土台を築き、石と木材でしっかりと丈夫につくられた。 建物の内部は、中央に祭壇が置かれ、香部屋、広間がある。 その上の中2階には祭壇が備わった部屋が2つある。」また、「浜辺から高くそびえているこの教会は、海の方から眺めると非常に美しく見える。」とも。
 この場所には、日本イエズス会の本部が置かれ、敷地内には司教館やコレジヨも建ち、印刷所や絵画教室などもありました。 しかしながら、この教会も、1614年の禁教令で、すべて破壊されてしまいました。

 ずいぶん歩きまわりましたが、消えた教会散策の最後に、長崎県庁の脇にある江戸町公園にも足を運んでみてください。 公園から見える県庁の石垣の下の方は、この当時のものが残っていると思われます。 ここから海が広がっていたんですねー。

長崎県庁  キリシタン時代の教会は、今回めぐった教会のほかにも、稲佐山や浦上村のサンタ・クララ教会などがありました。 残念なことに徳川幕府の禁教令で破壊され、ひとつも残っていません。 また、埋め立てで海岸線もずいぶんと変わってしまいました。 それでも、地形の高低や石垣、近年の発掘調査で見つかった貴重な遺構などから、当時の岬の輪郭やキリシタン時代の面影に思いを馳せることができます。 そんな痕跡を探しながら、昔と今を比較しつつ散策するのも、新しい歴史発見の楽しさかもしれません。

『旅する長崎学1 キリシタン文化1』
特集4-「小ローマ長崎」と消えた教会

『長崎事典・歴史編』
発行/長崎文献社 1982年

写真提供:
「南蛮人来朝之図屏風 右隻」(部分・長崎歴史文化博物館収蔵)
「岬の教会イメージ図」(長崎文献社)
「花十字紋瓦」「大量に出土した花十字紋瓦」は長崎市教育委員会

スタート地点までのアクセス

トードス・オス・サントス教会の跡(華嶽山 春徳寺)

所在
長崎県長崎市夫婦川町11-1
お問い合わせ
TEL/095-822-1986
見学
*外道井の見学希望者はあらかじめ電話で予約をいれましょう。
史跡
長崎県指定史跡
アクセス
路面電車…長崎駅よりA[3番・蛍茶屋]行きに乗車し<新中川>の電停で下車(所要時間は約15分)、徒歩で約7分。
車…長崎駅より約15分。長崎自動車道の出島道路の出入口より約10分。長崎自動車道の川平IC-長崎バイパス(西山トンネル)の出入口より約10分。
バス…長崎駅前東口バス停より、県営バス[網場][諫早東厚生町][矢上団地]行きに乗車し<中川町>で下車(所要時間は約15分)、徒歩で約7分。

● 長崎空港・JR長崎駅までのアクセスは「ながさき旅ねっと アクセス」をご覧ください。


うんちくバンク

人物
  • 大村純忠
  • ガスパル・ヴィレラ
  • 代官 村山等安
  • 長崎甚左衛門(純景)
歴史事件
  • 伴天連追放令と禁教令による教会破壊
資料
  • 勝山遺跡から出土した花十字紋瓦
場所
  • サン・アウグスティン教会の跡(常盤橋から観光通りの一角まで)
  • サン・アントニオ教会の跡(長崎市公会堂)
  • サン・ジョアン・バウチスタ教会とサン・ラザロ病院の跡(日蓮宗聖林山 本蓮寺)
  • サン・チャゴ教会の跡
  • サン・フランシスコ教会の跡(長崎市役所別館)
  • サン・ペドロ教会の跡(KTNテレビ長崎の付近)
  • サント・ドミンゴ教会跡資料館
  • トードス・オス・サントス教会の跡(華嶽山 春徳寺)
  • 長崎歴史文化博物館
  • 岬の教会の跡(長崎県庁舎)
  • ミゼリコルディア本部の跡(長崎地方法務局の付近)
  • 山のサンタ・マリア教会の跡(長崎歴史文化博物館)
その他
  • イエズス会
  • キリシタン時代、長崎にはどれだけの教会が建ったの?
  • コレジヨ
  • セミナリヨ
  • 南蛮人
  • 伴天連
  • フランシスコ会
  • ミゼリコルディアの組

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