ながさき歴史の旅

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ながさき歴史散歩

第11回 二十六聖人が歩いた浦上街道

−殉教地「長崎」へと向かう26人の道−

 日本に漂着した一隻の外国船サン・フェリペ号。 航海士の「スペインはキリスト教信者を増やして、やがてその国を制服する。」という発言に衝撃を受けた豊臣秀吉は、日本で布教活動をおこなう宣教師や信徒の捕縛と処刑を命じました。 京都・堺から長崎まで約1,000キロの道のりをおよそ1ヶ月かけて裸足で歩かされ、西坂の地で殉教した日本人20人と外国人6人の物語。 今回は、処刑地「長崎の西坂」を目前にした最後の2日間、キリシタン26人が歩いた浦上街道をたどります。

歴史のとびら
 1596年、土佐の国にある浦戸海岸(現在の高知市)に一隻のスペイン船が漂着しました。 フィリピンからメキシコを目指して太平洋を航海中、台風に遭って破損したサン・フェリペ号でした。 豊臣秀吉から調査に派遣された増田長盛は、「スペインはまずキリスト教の宣教師を派遣して信徒を増やし、やがてその国を制服するのだ。」という航海士の不穏にささやく言葉を耳にし、秀吉に伝えました。 その報告を受けた秀吉の衝撃は激怒に変わり、すぐさま、宣教師たちを捕らえるよう命令したといいます。 サン・フェリペ号に修道士が乗船していたことから、1587年に発していた伴天連追放令を根拠に、国内で布教活動をおこなっていた宣教師たちが捕らえられました。 サン・フェリペ号事件が、日本で最初の大殉教事件の引き金となったのです。
 京都ではフランシスコ会の宣教師ペドロ・バプチスタら6名、大坂ではイエズス会の修道士パウロ三木ら3名、ほか合わせて計24名が捕らえられます。 1597年1月3日、24人のキリシタンたちは、京都の上京一条の辻で左耳をそぎ落とされ、見物人が見守るなか、町中を引きまわされました。 そして、処刑地の長崎へと送られるのです。1月9日に堺を出発。 山陽道を西へと裸足で歩かされ、下関に着く途中でペドロ助四郎と大工のフランシスコが加わり26人となりました。 2月4日、長崎の彼杵宿に到着。大村湾を小舟で時津港へ渡り、翌日の早朝、処刑地の西坂に向かって浦上街道を歩きました。
 1597年2月5日の午前10時頃に西坂の丘へと到着、長崎の港に向かって一列に並べられた十字架に縛りつけられました。 正午、信仰を貫いた26人は、役人に槍でつかれて昇天・・・。
 長崎港の開港によってポルトガル船が行き来し賑わう長崎は、キリシタンの町として栄えていました。 "キリスト教は禁止するもポルトガル船の来航は奨励する"という秀吉の伴天連追放令は、貿易と布教が一体となったポルトガルにとっては矛盾したものでしたが、この「長崎」をキリシタンの処刑地として選ぶことによって、秀吉は自分のキリスト教への考え方を世に示したのです。 宣教師への見せしめと長崎の町に対する警告だったのでしょう。

散歩コース

スタート地点までのアクセス

◎所要時間のめやす:1日

1二十六聖人彼杵乗船の碑

↓車で約1時間30分 or 電車で約25分+バス15分+大村空港から船で約25分

2日本二十六聖人上陸の地の碑

↓車で約20分 or バスで約30分 or 徒歩で約2時間

3サンタ・クララ教会堂の跡

↓徒歩で約10分

4ベアトス様の墓

↓徒歩で約7分

5フランシスコ・ザベリオ堂の跡

↓バスで約5分+徒歩で約5分 or 徒歩で約30分

6サン・ラザロ病院の跡(山王神社)と浦上街道の碑

↓徒歩で約5分

7坂本国際墓地

↓徒歩で約30分

8日本二十六聖人殉教地 記念碑と記念館

↓徒歩で約15秒

9浦上街道ここに始まるの碑

*今回のコースは、車で移動する人は1からスタート(所用時間は1日)、バス&徒歩で楽しみたい人は2からスタート(所用時間は約4時間)、徒歩だけで楽しみたい人は3からスタート(所用時間は約3時間30分)することをオススメします。 いろんな方法で楽しんでください!

1二十六聖人彼杵乗船の碑

ペドロ・バプチスタの涙

 処刑地の西坂の丘を目指して歩く26人。 京都・大坂の堺を出発し、見せしめとして、首・腕・手首に縄をかけられた姿で列をなし、裸足で歩き続けました。 堺を発ってから27日目の2月4日。長崎街道の俵坂峠にさしかかると、司祭ペドロ・バプチスタは涙を流しました。 役人たちは、死におびえていると嘲笑しましたが、彼の涙の理由は死への恐怖心ではなく、日本にフランシスコ会を創設できなかった悔しさからの涙だったそうです。
 夜になって、彼杵浦から時津へと3隻の舟が静かに出発しました。 この夜が、26人にとって最後の夜となったのです。舟の上で月を眺めたかもしれません。
 京都・堺から長崎までの道のり、彼らが確実に船で移動したのは、この彼杵−時津のほか、下関−小倉、志賀島−博多だといわれます。

旅人コメント

「大きな水車が目印です。歴史公園 彼杵の荘を目指してください。少し先に彼杵川があるので、大村湾の方向へと川沿いに歩くとありますよ!」(すなめり) 「大村の彼杵川を歩いていたら、円形に並べたいくつもの石を発見しました。魚を追い込む昔からの漁方なのでしょうか?」(晟一) 「歩くっていいですね♪道に迷ってしまったのですが、田んぼの畦道を通ってしまいました。小さな花が咲いていて空がすがすがしくて気持ち良かったですよ。」(ミント)
2日本二十六聖人上陸の地の碑

時津に上陸

 26人のキリシタンたちが時津港に上陸したのは2月4日の夜11時ごろ。 ルイス・フロイスの記録には、霜が降りてとても寒い夜だったと書かれています。 現在、上陸の記念碑が建立されている場所は埋め立てられた場所です。 実際に26人が到着した場所は現在の時津町役場と時津警察署の北側の一角だそうです。
 26人は、翌2月5日早朝、処刑地の西坂へと歩きはじめました。 時津から西坂まで約3里(約12キロ)。


 浦上街道の終始発点の目印はこの恵比寿さま。 時津の漁師さんたちが大漁を願ってお祈りするそうです。 日本二十六聖人上陸の碑のすぐそばで、時津港を向いて4体の恵比寿さまが並んでいました。
 国道206号線沿いを行くと、店先からモクモクと蒸気がでていて気になるお店があります。 近寄って行くと、これは時津名物!「時津まんじゅう」。 ついつい買ってしまいました。 薄皮にぎっしり詰まったあんこがたまりません!もうひとつと手が伸びます。

3サンタ・クララ教会堂の跡

破壊後も潜伏キリシタンたちの心のよりどころ


 大橋・松山・浦上地区一帯まで来ると、26人が歩いた浦上街道界隈には、秘密教会の跡や墓地などキリシタンにまつわる史跡がたくさんあります。 時代は少し前後しますが、あわせてご紹介しながら歩きましょう。
 まずは、浦上村山里の家野郷にあったというサンタ・クララ教会跡。現在の大橋のたもとに石碑が建っています。 この教会は1603年に建てられましたから、26人が通った時はまだ存在していません。 スペイン人の宣教師アルファレス神父が浦上村の司牧をつとめていましたが、徳川幕府の禁教令が発布されると、1620年には破壊されてしまいました。 信仰が篤い浦上のキリシタンたちは、帳方・聞役・水方という潜伏の組織をつくって、禁教による迫害の嵐の中で信仰をつらぬきました。 教会の破壊後も、毎年夏になるとキリシタンたちは教会跡に集まり、役人の目をごまかすために、神への祈りを盆踊りの囃子に見せかけて歌っていたといわれます。

旅人コメント

「大橋です。その下に流れるのが浦上川。」(しんご) 「愛犬の散歩で山里小学校の周辺をよく歩きます。浦上川に鯉が泳いでいたのでカメラにとりました。(タンタン)
4ベアトス様の墓

敬虔な一家の悲しい物語

 ベアトス様の墓は、大橋を渡って左折。 浦上川沿いに歩いて病院の角を右折し山里小学校へとのぼる坂の途中にあります。 サンタ・クララ教会堂の跡から歩いて10分もかからず到着しますよ。

 徳川幕府の禁教下でキリスト教の信徒たちは潜伏して信仰を守っていた寛永の頃、浦上村の本原郷小峰(現在の石神町)に、キリシタンとして敬虔な生涯を送り尊い死を迎えた一家がいました。 その親子3人の名はジョアン、ジョアンナ、ミカエル。 ある秋の日、禁教令で役人に捕らえられた親子は、庭の井戸端で水責めにされました。 それでも信仰を棄てず改宗しない3人は、とうとう火あぶりの刑に処せられ、命を落としてしまいます。 3人の遺骸は村の人たちの手によって、この殉教地に葬られました。

 ベアトスとは、ポルトガル語で福者のこと。 この信仰心に感銘を受けた村の人たちは、殉教の日には毎年祈りを捧げ、世代を越えて約350年以上も「ベアトス様の墓」として大切に守ってきたそうです。 残念ながら殉教した詳しい年代はわかっていません。

旅人コメント

「大橋から山里小学校の通りを"サントス通り"といいます。道路には平和のハトが刻まれています。」(まさみ)
フランシスコ・ザベリオ堂の跡

秘密礼拝堂のひとつ

 安政の開国後、長崎につくられた外国人居留地に建てられた教会「大浦天主堂」に、1865年、禁教下で潜伏して信仰を守り続けていた浦上村のキリシタン十数名がやってきました。 プチジャン神父と出会った信徒たちは自分たちの信仰を告白します。 まだキリスト教が認められていない日本でしたが、この「信徒発見」とよばれるできごとのあと、浦上村には「聖マリア堂(長崎市辻町)」、「聖ヨゼフ堂(辻町)」、「聖サンタ・クララ堂(大橋町)」、「聖フランシスコ・ザベリオ堂(橋口町)」の4つの秘密礼拝堂が建てられました。 秘密礼拝堂は、茅葺きの普通の民家で、密かに神父が呼ばれてミサや洗礼の儀式がおこなわれていたそうです。

6サン・ラザロ病院の跡(山王神社)と浦上街道の碑

大楠が歴史を見守る丘

 この大楠のある周辺は、西坂へと向かう26人が休憩をとった場所といわれます。 山王神社がある辺りに、当時はサン・ラザロ病院があったとされます。 ここで、パウロ三木は告白の時間を与えられ、ディエゴ喜斎とヨハネ五島は正式にイエズス会に入信する願いが叶ったそうです。 それは処刑される数時間前のつかの間の時でした。

 山王神社の右隣、階段を下りた保育園の前に浦上街道の碑が建っています。 浦上街道は、26聖人以外にもオランダ商館の医者ケンペルさんなど著名な人たちが行き交った道なんですよ。

 山王神社の入口にそびえる被爆の大楠は、26人が歩いた時代のことも原爆が投下された日のことも静かに見てきたのではないでしょうか。 歴史を体験した証人で、四季を通じて緑の葉が生い茂る生命力に感動しました。

旅人コメント

「近くには、大楠と同じように原爆で被爆した一本柱鳥居があるよ。」(ピジョン) 「山王神社と坂本国際墓地の間には、第八十三番霊場がありますよ。」(ケン)
7坂本国際墓地

長崎で活躍した外国の人びと

 坂本国際墓地は、山王神社から南へ歩いて5分くらいの場所にあります。 この辺りを歩くと路面電車より少し標高が高くなっているのがわかります。 路面電車が通る国道202号線はほとんど埋め立てられ昔は海だった場所。 浦上街道は、海岸沿いになっていたんですね。

 地元では「外人墓地」と呼ばれる坂本国際墓地には、祈りを捧げる観光客が多く訪れます。 明治期に整備されたこの墓地は、急な坂の途中にあって、道を挟んでシンメトリーに配置され北と南の2ヶ所に別れています。
 まずは、南側の公園のある墓地から見てみましょう。 入口には、「如己堂」や「この子を残して」で知られる被爆者 永井隆博士のお墓があります。 その奥には大きな樹木とグリーンの芝生に囲まれて、ロシア、フランス、ベトナムの人たちが眠るお墓が並んでいます。 石造りの立派な彫像や赤レンガで囲まれたお墓は、長崎との貿易などに尽力し祖国に帰ることができなかった人たちかもしれませんね。 たくさんの外国の人々が長崎で活躍していたことがわかります。

 坂本国際墓地はさながら鎮魂のための庭園といったところでしょうか。 穏やかな時代が永遠でありますように・・・。

 さて、道を渡って北側のお墓の門をくぐってみましょう。
 階段を上がった奥に、長崎の観光地として有名なグラバー園ゆかりのトーマス・グラバーさんと、その息子の倉場富三郎さんのお墓があります。

 春には見事な桜が咲き誇りますよ。

8日本二十六聖人殉教地 記念碑と記念館

十字架にかけられたキリシタンたち

 1597年2月5日午前10時。 26人のキリシタンたちは、処刑地「西坂の丘」に到着しました。 京都・堺から約1,000キロ、およそ1ヶ月かかって歩いた道のりにピリオドが打たれました。
 長崎の港に向かって一列に並べられた26本の十字架に、全員が縛りつけられました。 4,000人もの群衆が見物に集まったといいます。

 「パライソ(天国)、イエス、マリア…」と叫びつつ、清らかな聖歌と祈りとともに、正午、26人は殉教を遂げました。
 この日本での大殉教は、遠く海を越えて、ポルトガルやスペイン、メキシコをはじめ、イタリアや北ヨーロッパなどへも伝わり、大きな反響をよびました。 殉教から265年後の1862年、26人はローマで聖人に列せられました。 まだ日本では、キリスト教の信仰が認められていない時代、海外で日本二十六聖人が誕生したのです。 その後すぐの1865年、大浦の居留地に献堂された大浦天主堂は、二十六聖人に捧げられた教会で、西坂の丘に向かって建てられました。

旅人コメント

「西坂公園には、日本における布教の歴史を記した「日本史」の著者ルイス・フロイスの記念碑がありますよ。二十六聖人の記念碑の右側、芝生の上に発見です!フロイスは26人の殉教についても記録しており、その殉教の姿が海外に克明に伝えられたのは彼の報告のおかげでしょうね。」(コボリ)
9浦上街道ここに始まるの碑

長い巡礼の終着点

 西坂公園の裏、ガウディ・スタイルのデザインが目を引く聖フィリッポ教会のある一角に、浦上街道の碑が建立されています。 長い巡礼の旅もこの碑で終点となります。

 日本において増えていくキリシタンたちは、この1597年の26人の大殉教事件の前にも後にも厳しい迫害に苛まれました。 江戸時代に入ると、さらに厳しい禁教の時代へと突入します。
 そして今、この殉教の地に立つとき、私たちが感じるのは死の苦しみではなく、殉教者の信仰と喜びのような気がします。 浦上街道を"キリシタン巡礼の道"としてたどる旅は、平和を願う祈りの歴史散歩となりました。

「旅する長崎学3 キリシタン文化3」

「旅する長崎学4 キリシタン文化4」

スタート地点までのアクセス

二十六聖人彼杵乗船の碑

所在
長崎県東彼杵郡東彼杵町蔵本郷(彼杵海水浴場)
お問い合わせ
東彼杵町役場 TEL/0957-46-1111
リンク
http://www.sonogi.jp/
アクセス
車…長崎自動車道<東彼杵IC>で下りて約5分。
JR…JR大村線<そのぎ駅>で下車し、徒歩で約20分。
バス…東彼杵町営バスの千綿線または大野原高原線で<町営バスセンター>を下車、もしくはJRバスで<公民館前>で下車、徒歩で約15分。

福岡から行く!
<JR博多駅>より[特急かもめ]に乗車し<諫早駅>で下車(所要時間は約1時間30分)、JR大村線の[シーサイドライナー]に乗り換え<彼杵駅>で下車(所要時間は約30分)、徒歩で約20分。

東京・大阪・名古屋・沖縄から飛行機で行く!
東京(羽田空港)から約1時間40分
大阪(伊丹空港)から約1時間10分
名古屋(中部)から約1時間20分
沖縄(那覇空港)から約1時間30分
宮崎から約40分
鹿児島から約35分

各空港から<長崎空港>に着陸。バスで<大村駅>へ移動(約15分)。 JR大村線の[シーサイドライナー]に乗車し<彼杵駅>で下車し(所要時間は約19分)、徒歩で約20分。

長崎市から行く!
電車…<JR長崎駅>より[ シーサイドライナー]に乗車し<彼杵駅>で下車(所要時間は約1時間12分)、歩いて約20分。
車…長崎自動車道の出島道路から<東彼杵IC>で降りて(所要時間は約31分)、国道205号線の約300m先の左手にある「道の駅 彼杵の荘」を目指し、海岸の方へ歩いて約15分。

佐世保市から行く!
電車…<JR佐世保駅>より[シーサイドライナー]に乗車し<彼杵駅>で下車し、徒歩で約20分。
車…国道205号線を南下し、右手に見える「道の駅 彼杵の荘」を目指す。海岸の方へ歩いて約15分。

大村市から行く!
電車…<JR大村駅>より[シーサイドライナー]に乗車し<彼杵駅>で下車、徒歩で約20分。
車…長崎自動車道をご利用の場合は、<大村IC>に乗り<東彼杵IC>で下り(所要時間は約10分)、国道205号線を約300m先の左手にある「道の駅 彼杵の荘」を目指す。海岸の方向に歩いて約15分。

一般道をご利用の場合は、国道34号線を北上し東彼杵町の江頭交差点で国道205号線へと左折、約300m先の左手にある「道の駅 彼杵の荘」を目指す。海岸の方向に歩いて約15分。

*今回のコースは、車で移動する人は1からスタート(所用時間は1日)、バス&徒歩で楽しみたい人は2からスタート(所用時間は約4時間)、徒歩だけで楽しみたい人は3からスタート(所用時間は約3時間30分)することをオススメします。 いろんな方法で楽しんでください!

● 各出発点へのアクセスは「ながさき旅ねっと アクセス」をご覧ください。


うんちくバンク

人物
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  • 26人の殉教は
  • 日本二十六聖人殉教の行程
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その他
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