ながさき歴史の旅

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ながさき歴史散歩

第17回 生月を旅する!(1)

〜キリシタン殉教の物語をめぐる〜

歴史のとびら
黒瀬の辻からみた生月漁港

 生月は、美しい海に囲まれた小さな島。長崎県の北西部に位置し、平戸島の北の沖合いに浮かびます。かくれキリシタンたちが大切に守ってきた信仰を今でも伝承する"祈りの島"でもあります。その歴史は、長崎でもいち早くキリスト教が伝えられ、一時はキリシタン文化の繁栄をみながら、その後は弾圧と迫害、脱出と潜伏……、時代に翻弄された厳しい棘(いばら)の道でした。

キリシタン時代

 1550年、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが平戸に上陸しました。松浦隆信(道可)を領主とする平戸は、これまでの大陸との交流に加え、ポルトガル船の到来によって西洋との貿易を獲得し、「西の都」と呼ばれるまでに繁栄していました。さらに、平戸・生月地方でキリスト教が浸透し、キリシタン文化が誕生したのでした。
 籠手田(こてだ)と一部(いちぶ)の両氏は、松浦隆信(道可)の家臣で、松浦氏の勢力圏のなかで生月島、度島、平戸島の西海岸を支配していました。1558年、籠手田氏の領地である生月島南部、度島、平戸島内で領民の一斉改宗がおこなわれ、改宗を指導したガスパル・ヴィレラ神父の手によって、教会や十字架が建立されました。このように多くの村を含む広い地域で一斉改宗がおこなわれたのは、籠手田領の改宗が最古の事例だそうです。しかしその際に、仏像を焼いたりしたことから、仏僧や仏教徒の反感が強まり、隆信はヴィレラ神父を追放する事態となりました。
 1561年、平戸では、日本人商人とポルトガル船員の取引上のトラブルから殺傷事件「宮の前事件」が起こり、翌年、貿易の港は、いったん大村領内の横瀬浦に移ります。しかし南蛮貿易を継続させたい松浦隆信(道可)は、平戸領内に教会の建立を許可するなど手を尽くし、1564年にはポルトガル貿易船の再入港を成功させます。しかし、宣教師の隆信に対する不信感は拭えず、結局大村の領主で、のちに日本初のキリシタン大名となる大村純忠と手を組み、翌1565年の貿易船は、大村領内の福田港に入港することとなります。平戸への貿易船の入港を期待していた隆信は、その事態に激怒し、福田に停泊していたポルトガル船に攻撃をしかけますが、敗れてしまいます。
 くしくも同年、一部氏が支配する生月島北部などで一斉改宗がおこなわれ、これによって生月の全島がキリシタンの島となりました。しかし平戸の松浦氏やその家臣と、キリシタン領主である籠手田・一部氏との間に生じた亀裂は、その後修復されることはなく、次第に深まっていったのでした。
 1587年、豊臣秀吉が伴天連追放令を発布。その時生月は、日本各地で布教活動をしていた多くの宣教師たちをかくまいました。同時にセミナリヨやコレジオも一時的に移ってきたといわれています。1596年には、秀吉の命によってキリシタン26人が西坂の丘で殉教を遂げたことを機に、キリスト教に対する処遇は厳しくなっていきます。

禁教・殉教時代

 1599年、平戸の前藩主・松浦隆信が死去。家督を継いだ息子の鎮信(法印)は、意に反して思うようにならない宣教師やキリシタンたちを嫌い、父の法要に参列するよう家臣たちに強要します。キリシタンであるため仏事に参列できないとした籠手田安一と一部正治は、信者800人を引き連れ、故郷である生月島を離れ、当時イエズス会の勢力が強かった長崎へと亡命したのでした。
 しかし、島には信仰の篤いキリシタンたちが大勢残っていました。1609年、藩から派遣された奉行の家に嫁いだキリシタンである娘が棄教しないことを理由に、生月キリシタンの指導者であったガスパル西玄可が、松浦鎮信の命令によって処刑されたのは、徳川幕府の禁教令が発布(1614年)される5年前のことでした。
 禁教令発布後にも悲劇は続きます。1622年、生月などで秘かに布教をおこなっていたカミロ神父が捕らえられ、田平の焼罪(やいざ)で処刑されました。そしてカミロ神父を助けたとして生月の人々も捕らえられ、中江ノ島で処刑(元和の殉教)。1624年にはその信者達の家族も捕らえられ、やはり中江ノ島で処刑されてしまいます(寛永の殉教)。彼らが中江ノ島に連行され処刑される光景を目のあたりにして、生月のキリシタンたちは、彼らの遺志を継ぎ、信仰を守り抜く決意をしたのではないでしょうか。殉教した人たちにオラショ(祈り)を捧げながら、子から孫へと信仰を継承していったのです。

復活時代

 1873年、明治政府はキリシタン禁教令の高札を撤廃しました。各地に潜伏して信仰を守り続けていた人々は、再布教を開始したカトリックと合流した「復活キリシタン」と、先祖が大切に守ってきた信仰形態をそのまま受け継いだ「かくれキリシタン」にわかれました。かくれキリシタンの組織は、昭和初期ごろには外海地方や五島列島にも多く存在していたそうですが、平成になって平戸の組織も解散したように、現在ではきちんとした組織が存続している地域は殆どなくなり、伝統的な信仰形態を最もよく残しているのが、生月のかくれキリシタンだといわれます。

散歩コース

スタート地点までのアクセス

◎所要時間のめやす:約3時間

黒瀬の辻 殉教碑

↓ 徒歩で約30秒

ガスパル西玄可のお墓

↓ 黒瀬の辻 殉教碑から眺めましょう

中江ノ島

↓ 車で約15分

ダンジクさま

↓ 車で約5分

平戸市生月町博物館 島の館

1黒瀬の辻 殉教碑

生月キリシタンの出発点

黒瀬の辻 殉教碑(アップにすると下のレリーフの写真を表示)

 1550年、フランシスコ・ザビエルの平戸来航によって、長崎に初めて伝えられたキリスト教。日本伝来の翌年のことです。平戸領主の家臣だった籠手田安経(こてだやすつね)と一部勘解由(いちぶかげゆ)は、キリスト教の洗礼を受け、自分たちの治める生月で、キリスト教への一斉改宗をおこないました。町には教会が建ち、ポルトガル人宣教師が往来し、西洋の音楽も流れ、キリシタン文化が開花。生月は"キリシタンの島"となったのです。

 生月の丘の頂に、ポルトガル人宣教師のガスパル・ヴィレラ神父によって、記念すべき十字架が建てられました。"クルス(十字架)の丘"は、時世の流れに伴い、漢字であてはめ、いつしか"黒瀬の辻"と呼ばれるようになったといいます。生月のキリシタンにとって黒瀬の辻は、キリスト教信仰の出発点なのです。

 現在、殉教碑が建立されたクルスの丘公園では、毎年11月に殉教ミサがおこなわれています。

2ガスパル西玄可のお墓

福者に列せられることが決定した殉教者

ガスパル西玄可のお墓 ガスパル西玄可と家族のお墓1 ガスパル西玄可と家族のお墓2

 次は、この丘で殉教を遂げたガスパル西玄可のお墓へ行ってみましょう。黒瀬の辻 殉教碑の裏手へと回って約20メートルのところにあります。

 1558年と1565年の一斉改宗で全島民がキリシタンとなった島"生月"。しかし平戸の領主・松浦隆信の息子の鎮信(法印)は、キリスト教の禁教政策を強化していきました。その政策を受け入れられない籠手田氏と一部氏は、1599年に一族や家臣などキリシタン約800人とともに生月を脱出、新天地を求め長崎へと亡命しました。

「ガスパルさまの松」から作った十字架(平戸市生月町博物館 島の館にて展示)

 生月に残ったキリシタンたちを指導したのが、リーダー的存在であったガスパル西玄可です。娘のマリアも信仰が篤く、嫁ぎ先の義父(舘浦の奉行)から信仰を棄てることを強要されますが、かたくなに応じず実家に戻ったそうです。このことを知った松浦鎮信は、自分の命令に反している者たちを処刑するよう命じました。役人に捕らえられた玄可は「十字架が建っていた場所で処刑、埋葬してほしい。」と願い、1609年11月14日に斬首され、その妻ウルスラと長男ジョアン又市も、その後すぐ、連行中に斬り殺されました。

 ガスパル西玄可のお墓は、四角の石積みで作られていましたが、いつしかそこから松が生え、「ガスパル様の松」と呼ばれ、かくれキリシタンから聖木として崇められていました。昔は大きく立派だった松の木も枯れてしまい、現在は根本が残るだけになっていますが、カトリック信者が、枯れた丸太の芯から十字架を作って、再び信仰の標としたそうです。そのうちのひとつは山田教会の正面に安置されていますが、かくれキリシタン信者に託されたもののひとつは、現在、島の館で展示されています。

 ガスパル西玄可、妻のウルスラ、長男ジョアン又市の3人は、2007年6月、教皇ベネディクト16世によって「ペトロ岐部と187殉教者」として福者に列せられることが決まり、そのことを宣言する列福式が2008年11月24日に長崎でおこなわれるというニュースが流れました。生月の西家は、信仰が篤い家族として知られます。西玄可の次男トマス兵次(のちに六左衛門)は、ドミニコ会の日本人最初の司祭となり1634年に長崎西坂で殉教、1987年に当時の教皇ヨハネ・パウロ2世によって聖人の位にあげられ、「聖トマス西」として讃えられています。

3中江ノ島

生月"カクレキリシタン"の聖地

 殉教碑のレリーフから青い海の方向をみると、生月と平戸の中間に浮かぶ中江ノ島。

 1614年に徳川幕府が禁教令を発布した直後も、外国人宣教師たちは、日本に潜入して布教を試み、生月にもやってきました。そのひとりカミロ神父は、納島への渡航を企て実行しますが、宇久島であえなく役人に見つかり、1622年、田平の焼罪(やいざ)で火あぶりにされました。このカミロ神父を援助した生月のキリシタンたちも、異教徒に加担したという罪で捕まり、次々と中江ノ島で処刑されるという事件がおこりました。
 この悲しい殉教の物語は、キリシタンたちのあいだで子から孫へと伝承されました。この島そのものが生月キリシタンの信仰の対象となっています。

 もうひとつの殉教事件を学ぶために、生月島の西海岸へと移動しましょう。

4ダンジクさま

キリシタン一家が殉教した海岸

 「平戸市生月町博物館 島の館」から約3分ほど車を走らせると、左手に現れる道案内の看板を目印に向かいましょう。さらに看板(写真右)があります。ここからは海岸まで約300メートルの険しい道を降りていきますので、足元に注意してください。

 小さな浜辺へとたどり着くと、竹薮に覆われたダンジクさまの祠がありました。

 江戸時代、幕府の禁教令によって役人に追われていたキリシタンの一家がいました。弥市兵衛と妻マリア・息子ジュリアンは断崖の下の暖竹(ダンジク)の茂みに身を寄せて隠れていましたが、ある日、ジュリアンが浜で遊んでいるところを、船で捜索していた役人に見つかってしまい、一家は捕らえられ処刑されてしまいました。1645年のお話です。この悲しい発見劇の物語から、海上からの参拝はタブーとなっています。

 命日の1月16日には、信者の方々によってオラショ(祈り)が捧げられています。

 生月キリシタンの歴史をもっと学ぶために、来た道を少し戻って「島の館」の博物館へ行ってみましょう!

5平戸市生月町博物館 島の館

キリシタン文化を学ぼう!

 「島の館」は、約450年間も厳しい弾圧に耐えながら受け継がれてきた生月キリシタンの歴史と、江戸時代に日本最大規模とまでいわれた生月の捕鯨の歴史を紹介する博物館です。

 かくれキリシタンにまつわる資料を一部だけご紹介しましょう。

 左写真の掛け軸は、幼子キリストと聖母マリアを描いた聖母子像に起源を持ちます。マリアの頭上にはくっきりと赤い十字架があります。このような掛軸の図像は「納戸神」「御前様」と呼ばれる御神体のなかでも「お掛け絵」と呼ばれる種類で、かくれキリシタンの信仰対象とされたものです。
 禁教時代、かくれキリシタンの人々は聖母子像や聖人、聖家族を描いたこうした掛け軸を納戸に設けた祭壇に飾り、オラショ(祈り)を捧げていました。

 右の写真は「オブマリ」。和紙で作られた十字架は、いろいろな行事で魔除けとして使われるそうです。

 かくれキリシタンの組織は、外海、五島、平戸、生月など各地に存在していましたが、減少の一途をたどり、現在では生月以外では、組織的な信仰は殆どなくなったといわれています。

 学芸員の中園成生さんに、生月にまつわるキリシタンの歴史を教えていただきました。歴史発見コラム 第32回をご覧ください!

 生月の殉教地は、キリスト教を信仰する人々にとって大切な聖地となっています。過去の悲しい事件を繰り返さないようにその歴史を伝え残していく、そんな思いが込められているのではないでしょうか。人々の思いと願いをのせたオラショ(祈り)が、こだましながら倍音となって、どこからか聞こえてくるような気がする生月の旅でした。
 次回の歴史散歩も、生月をめぐる旅をお送りします。

参考文献
  • 「旅する長崎学1 キリシタン文化1」 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 巻頭特集 ザビエルが平戸にまいた キリスト教の種子
  • 「旅する長崎学4 キリシタン文化4」 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 特集5 平戸・生月のかくれキリシタン
  • 「旅する長崎学6 キリシタン文化6」 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 キリシタン文化の旅 長崎へのいざない 第1章 布教はここから始まった 平戸ガイド編 生月探訪 土地に息づく かくれキリシタンの歴史
  • 「生月島のかくれキリシタン(改訂版)」 制作/平戸市生月町博物館・島の館 発行/平戸市生月振興公社 2000年
協力
  • 平戸市生月町博物館・島の館 学芸員 中園成生

スタート地点までのアクセス

黒瀬の辻

所在
長崎県平戸市生月町山田免 クルスの丘公園
駐車場
あり

アクセス

車…
生月大橋より県道42号線を北上し約7分。生月バス<正田>バス停より右折して約30メートル。
高速道路をご利用の場合…
長崎自動車道<武雄北方IC>を下車、国道498号線を通り伊万里で国道204号線へ、平戸大橋を渡り国道383号線から県道19号線へ、生月大橋を渡り県道42号線を北上して約7分。生月バス<正田>バス停より右折して約30メートル。*所要時間のめやす…長崎より長崎自動車道を利用して約2時間30分。
バス…
生月バス<正田>を下車し徒歩で約5分。

生月までのアクセス

車…*所要時間のめやす
福岡より唐津経由で約2時間30分
(国道202号線→国道204号線→平戸大橋→国道383号線→県道19号線→生月大橋)
佐世保より約1時間
(国道204号線→平戸大橋→国道383号線→県道19号線→生月大橋)
平戸より約25分(国道383号線→県道19号線→生月大橋)
長崎より高速道路を利用して約2時間30分
高速道路をご利用の場合…
長崎自動車道<武雄北方IC>を下車、国道498号線を通り伊万里で国道204号線へ、平戸大橋を渡り国道383号線から県道19号線へ、生月大橋を渡り県道42号線を北上して約7分。生月バス<正田>バス停より右折して約30メートル。*所要時間のめやす…長崎より長崎自動車道を利用して約2時間30分。
生月大橋の通行料・片道(2007年12月現在)
普通車200円 中型250円 大型(1)350円 大型(2)550円 軽自動車・バイク(125cc以上)150円 軽車両等20円
平戸大橋の通行料・片道(2007年12月現在)
普通車100円 大型車150円 特大車300円 軽車両等10円
バス…
<佐世保駅前>より西肥バス[(特急バス)平戸]行きに乗車し<平戸新町>で乗り換え(所要時間は約1時間)。生月バス[一部桟橋・御崎]行きに乗車しバスで約30分。
高速バス
--昼行便--
  • 長崎空港から約35分(長崎バス・長崎県営バス)
  • 佐世保から約1時間30分(長崎県営バス・西肥バス)
  • ハウステンボスから約1時間5分(西肥バス)
  • 福岡から約3時間(九州急行バス)
  • 北九州から約3時間(長崎県営バス)
  • 大分・別府から約3時間45分(長崎バス・長崎県営バス)
  • 熊本から約3時間(長崎県営バス)
  • 宮崎から約5時間20分(長崎県営バス)
--夜行便--
  • 名古屋から約12時間(長崎バス)
  • 大阪(梅田)から約10時間10分(長崎県営バス)
  • 京都・大阪から約11時間30分(長崎バス)
  • 姫路・神戸から約10時間(長崎バス)
電車…
博多駅方面から[特急かもめ]に乗る!
<JR博多駅>より[特急かもめ]に乗車し、<JR長崎駅>で下車(所用時間は約45分)。鳥栖駅より約25分。佐賀駅より約10分。諫早駅より約8分。
*JJR佐世保駅からは、バスまたはタクシーをご利用下さい。
長崎方面から[快速シーサイドライナー]に乗る!
<JR長崎駅>より[快速シーサイドライナー]に乗車し<JR佐世保駅>で下車(所要時間は約1時間45分)。ハウステンボス駅より約20分。大村駅より約1時間。
JR佐世保駅からは、バスまたはタクシー・レンタカーをご利用下さい。

飛行機で長崎へ行く!

  • 東京(羽田空港)から約1時間40分
  • 大坂(伊丹空港)から約1時間10分
  • 名古屋(中部)から約1時間20分
  • 沖縄(那覇空港)から約1時間30分
  • 宮崎から約40分
  • 鹿児島から約35分

*長崎空港からは、バスまたは電車・タクシー・レンタカーをご利用ください。

●JR佐世保駅・生月へのアクセスは「ながさき旅ねっと アクセス」をご覧ください。


うんちくバンク

人物
  • 大村純忠
  • ガスパル・ヴィレラ
  • 平戸にザビエルがやってきた!
  • 平戸の領主
  • 福者
  • 松浦隆信
歴史事件
  • 宣教師を平戸から追放
  • 伴天連追放令と禁教令による教会破壊
  • ポルトガル船の来航
  • 「宮の前事件」でポルトガル船、平戸を去る
資料
場所
  • 生月大橋
  • ガスパル西玄可のお墓
  • 黒瀬の辻 殉教碑
  • ダンジクさま
  • 中江ノ島
  • 平戸市生月町博物館 島の館
  • 山田教会
その他
  • イエズス会
  • セミナリヨ
  • 潜伏キリシタンと隠れキリシタン
  • 伴天連

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