ながさき歴史の旅

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ながさき歴史散歩

第23回 大村のキリシタン殉教の地を巡る

〜大村殉教の歴史をたどって〜

歴史のとびら

 16世紀の大村は、日本で初めてキリシタン大名となった大村純忠(おおむらすみただ)が治めていました。純忠は1563年、横瀬浦(現在の長崎県西海市)でキリスト教の洗礼を受け、重臣たちもともにキリシタンとなりました。領主の改宗によって、領民たちもキリスト教を信仰するようになり、1582年頃にはその数6万人ともいわれ、西洋のキリシタン文化を積極的に受け入れていきます。
 しかし、1587年に純忠が亡くなると、跡を継いだ息子の喜前(よしあき)はキリスト教を棄て日蓮宗に改宗。さらに徳川幕府の禁教令が発布(1614年)されて、仏教徒になる領民も多くいましたが、厳しいキリシタン弾圧のなかにあっても、信仰を支えにキリスト教を守り続けるキリシタンたちがいました。

大村で初めて殉教者をだした事件

 禁教令の発布(1614年)から3年後の1617年(元和3)、大村領内で初めて殉教者が出ました。捕らえられたのは、禁教下にもかかわらず布教活動をおこなっていたイエズス会とフランシスコ会の外国人宣教師2人で、大村湾を見下ろす丘にある帯取(おびとり)で処刑されました。この殉教事件以降、大規模なキリシタン弾圧事件が次々と勃発しました。

鈴田牢から西坂の丘へ「元和の大殉教」

 1617年(元和3)から1622年の約5年のあいだにキリシタンが次々と捕らえられ、外国人宣教師を含め日本の信者たち56人が長崎西坂の丘で処刑された「元和の大殉教」。大村の鈴田牢と長崎の桜町牢(通称:クルス牢)に捕らえられていたキリシタンたちで、25人は火あぶり、31人は斬首だったそうです。そのうち1名は、火刑の柱から離れたということで殉教とみなされず、55人が殉教者とされています。イタリア人のカルロス・スピノラ、女性やわずか4歳の幼子も犠牲となりました。

大規模なキリシタンの弾圧「郡崩れ」

 1657年、大村領内で「郡崩れ(こおりくずれ)」という事件が起こりました。これは、長崎奉行の黒川与兵衛が、その20年前に起こった「島原の乱」のようなキリシタンを中心とした一揆が再び起こることを恐れ、大村藩に命じて領内のキリシタンを摘発し処刑した事件のことです。大村の郡村(こおりむら・現在の大村市)を中心にキリシタン608人が捕らえられ、棄教を誓った99人は釈放されましたが、厳しい取り調べ中に78人が死亡、20人が永牢(終身刑)、411人が斬首という厳しい処罰が下されました(人数については諸説あります)。
 翌年には、斬首を言い渡された411名のうち131人が大村の放虎原(ほうこばる)斬罪所で処刑されました。見せしめとして旧長崎街道沿いの獄門所で、処刑されたキリシタン131人の首が約1ヶ月間さらされたといいます。その後、遺体が再びよみがえらないようにと、首と胴体を別々に、南北に約500メートル離れた位置に首塚・胴塚をつくって埋葬しました。
 キリシタン弾圧が強化された大村では、遺品や墓石などが次々に破壊され、華やかだった時代のキリシタン文化は、あとかたもなく消えていきました。今回は、大村のキリシタン殉教地をめぐります。

散歩コース

スタート地点までのアクセス

◎所要時間のめやす:約4時間

鈴田牢の跡

↓ 車で約15分

妻子別れの石

↓ 徒歩で約10分

放虎原殉教地

↓ 徒歩で約10分

獄門所の跡

↓ 徒歩で約10分

胴塚の跡

↓ 徒歩で約10分

首塚の跡

↓ 車で約10分

今富のキリシタン墓碑

↓ 徒歩で約7分 or車で約3分

帯取殉教地

1鈴田牢の跡

キリシタンが捕らえられた牢屋

 ドライブしながら県道37号線(大村貝津線)沿いの釜川内付近にさしかかると、小高い丘の上に白い十字架が見えてきました。丘の裏手へとまわって階段を登りましょう。

 記念碑としてたつ白い十字架のむこうには大村の町の景色が広がっていました。

 宣教師の記録によると、牢の大きさは約6畳ほど(奥行5.3メートル×間口3.5メートル)で、木枠に囲まれた鳥かごのようだったといいます。牢屋には二重の柵がめぐらされ、目の前に設けられた管理棟から監視されていたそうです。多いときには30人以上が牢屋に入れられ、横になることもできず、身動きすらできない状態で、入牢中に亡くなった人もいます。

 この牢に捕らわれたキリシタンたちは、長崎の西坂の丘と大村の放虎原(ほうこばる)にわかれて処刑されました。外国人宣教師のフランコ神父たち8名は、大村の放虎原で処刑。また、1622年には、大村の鈴田牢と長崎の桜町牢(クルス牢)に捕らえられていたキリシタン56人が、西坂の丘(長崎市)で処刑されました。56人のうち、宣教師らを中心に25人は火あぶり、宣教師をかくまい宿主となったキリシタンら31人は斬首され、「元和(げんな)の大殉教」とよばれています。このなかにはイタリア人宣教師 カルロス・スピノラもいました。彼は大村の鈴田牢で3年9ヶ月を過ごし、厳しい牢獄生活のなかで当時の様子を記録して、ローマに手紙を送っていました。また、処刑されたなかには、わずか4歳のイグナシオ(洗礼名)と母イザベラのように幼子や女性もいて、犠牲となりました。
長崎の西坂の丘で、この「元和の大殉教」事件が起こったのは、日本二十六聖人の殉教事件(1597年)から25年後の1622年のことで、海外にもつたえられました。

2妻子別れの石

家族との別れを惜しんで流した涙

 徳川幕府が発布した禁教令(1614)によって、1657年(永禄10)、大村藩がキリシタン603人を検挙した未曾有の事件「郡崩れ(こおりくずれ)」が起こりました。ここは、処刑される間際に、妻や子どもなど家族との別れを惜しんだという場所です。悲しみの涙を流しながら北へ約80メートル先にある放虎原(ほうこばる)の処刑場まで連行されました。
 石碑の周りには丸く大きな石が残っています。とめどなく溢れる別れの涙で濡れた石として「涙石」と呼ばれ、不思議なことに苔が生えないといわれています。

 すぐそばに、マリナ伊奈姫のお墓がありました。日本初のキリシタン大名 大村純忠の娘で、熱心なキリシタンでした。厳しいキリシタン弾圧の世に、宣教師たちをかくまうなど献身的に信仰に生きたお姫さまでした。

 では、「郡崩れ」でキリシタン131名が処刑された放虎原斬罪所へ行ってみましょう。

3放虎原殉教地

「郡崩れ」でキリシタン131名が処刑された斬罪所の跡

放虎原殉教地

 「妻子別れの石」から、国道34号線の大通りを渡り、"ナフコ"の角を曲がって約5分ほど行くと、大きなレリーフが見えてきました。

 徳川幕府の禁教令によって、キリシタンの取り締まりが強化され、弾圧が厳しさを増していくなかで、大村のキリシタンは潜伏しながら密かに信仰を守っていました。 放虎原の斬罪所では多くのキリシタンが処刑されました。1624年には、慶長遣欧使節をローマで案内したフランシスコ会のルイス・ソテロ神父ら5人が火刑に処せられました。 また、1658年には131人のキリシタンの命が奪われます。1657年、長崎奉行所は、キリシタンの捜索を大村藩に命じました。郡村(こおりむら)を中心にキリシタン608人もの逮捕者を出し、うち、大村では131人が斬首という厳しい処分が下されました。彼らは、翌年、この石碑の周辺にあった斬罪所で処刑されました。そして、長崎街道沿いにあった獄門所で1ヶ月間ほどさらし首となり、遺体は首と胴を別々に、約500メートル離れた場所に埋葬されました。これは、キリシタンが再びよみがえることを恐れたためといわれ、それぞれ首塚跡、胴塚跡となっていますので、あとで立ち寄ることにします。

 再び、国道34号線を渡り、長崎街道を通って獄門所の跡へ行ってみましょう。

4獄門所の跡

「郡崩れ」 長崎街道で見せしめにされたキリシタン

 むかし、大名行列など行き交う人々で賑わいをみせていた長崎街道沿いに、聖母マリアと子どもの像がありました。
 ここは、1657年に起こった「郡崩れ」により、放虎原(ほうこばる)斬罪所で処刑されたキリシタン131人の首を塩漬けにして、見せしめのために20日ほどの間、さらし首にした場所といわれています。

 キリシタン131人の遺体は、再びよみがえらないようにと、キリシタン封じのまじないをかけるようにして、首塚・胴塚と別々の場所へ葬られました。

5胴塚の跡

「郡崩れ」で処刑されたキリシタンの復活を恐れて埋葬(1)

 「郡崩れ」で処刑されたキリシタン131名は、獄門所でさらし首にされた後、首と胴を別々の場所に葬られました。再びよみがえることのないよう、キリシタン復活を封じるため、首を北へ、胴体を南へと隔てて葬り、塚をたてて魂を鎮めたのです。
 現在、胴塚の跡には、天空に向かって祈る姿の像がたっています。

 次は、北へ約500メートル先にある首塚へと行ってみましょう。再び、国道34号線に戻ってまっすぐ進みます。

6首塚の跡

「郡崩れ」で処刑されたキリシタンの復活を恐れて埋葬(2)

 国道34号線沿いの"かとりストア"の角を曲がると、塀で囲まれた首塚の跡がありました。白い十字架の門を開けて中に入ると、手をあわせた像の傍らに、ちょうど椿が咲いていました。

7今富のキリシタン墓碑

十字架が刻まれたお墓

今富のキリシタン墓碑

 帯取殉教地から歩いて約15分のところに今富キリシタン墓碑があります。江戸時代、厳しいキリシタン弾圧で大村領内のキリシタンに関する遺品や墓石は徹底的に破壊されましたが、この今富の墓碑は難をのがれて残ったお墓のひとつです。
 墓碑は竹薮のなかに隠れるようにありました。正面からは四角いお墓で正面に戒名が刻まれていますので、一見キリシタン墓碑とはわかりません。では、上部か背面から見てみましょう。キリシタン墓碑の特徴ともいわれるカマボコ型(半円柱)で、上面には十字架が刻まれているのがわかります。これは禁教時代に墓碑を起こして立て、カムフラージュしたものと思われます。

上面に刻まれた十字架(今富のキリシタン墓碑)

 さて、このお墓はいったい誰のお墓なのでしょうか? 最近まで、碑銘から1576年に没した大村純忠の家臣で一瀬栄正のお墓ではないかと思われていました。しかし、2007年7月に大村史談会の調査で、墓碑の上部に刻まれた「慶長19年」という年号と「庵■」(■は読み取れない文字)という名前らしき文字が刻まれていることが確認されたことから、一瀬栄正とは別人ではないかという説も浮上しているそうです。今後の調査に期待しましょう。

8帯取殉教地

大村で初めて殉教者をだした事件

帯取殉教地

 帯取殉教地の石碑がたつ場所は、大村湾に沈む夕日が輝く美しい眺望に恵まれた丘にありました。
 徳川幕府の禁教令発布(1614年)発布後、大村には宣教師38人が潜伏していたといいます。殉教事件が起こったのは1617年(元和3)の春のこと。大村藩は外国人宣教師2人を摘発して郡村(こおりむら)の牢へと連行しました。捕らえられたのはフランシスコ会のペトロ神父とイエズス会のマシャード神父。2人は同年5月22日にこの帯取の地で処刑され、大村で初めて殉教者がでました。
 現在、毎年5月には帯取殉教祭がおこなわれています。字架が刻まれているのがわかります。これは禁教時代に墓碑を起こして立て、カムフラージュしたものと思われます。

大村の殉教地をめぐった今回の旅では、日本初のキリシタン大名 大村純忠の存在によって、いち早くキリシタン文化を受け入れながらも、幕府のキリスト教の禁教政策を背景に、棄教、潜伏、殉教の道を選ばざるを得なかった時代の悲しさを感じました。数多くの殉教事件で消え去っていったキリシタン文化の歴史をしのびつつ、大村の地に生きた人々の足跡をたどる歴史散策となりました。
 4月の大村は、桜の名所として有名な大村公園に多くの人びとが訪れ、名物の大村ずしやゆでピーナッツなどで楽しませてくれますよ。
 大村の歴史散策として、<ながさき歴史散歩>第9回 「キリシタン時代の面影をたどる大村の旅 〜日本初のキリシタン大名大村純忠〜」もあわせてお楽しみください!

参考文献
  • 「旅する長崎学1 キリシタン文化1」 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 特集3-第1章 純忠、横瀬浦で受洗 日本初のキリシタン大名誕生
  • 「旅する長崎学3 キリシタン文化3」 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 特集2-第3章 元和の大殉教 再び血に染まった祈りの丘
  • 「旅する長崎学4 キリシタン文化4」 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2006年 特集4-第1章 大村キリシタンの弾圧「郡崩れ」
  • 「旅する長崎学6 キリシタン文化6」 第5章 領主棄教とキリシタン取り締まり 大村 (ガイド編)キリシタン時代の城下町と弾圧の歴史を巡る 企画/長崎県 制作/長崎文献社 2007年

スタート地点までのアクセス

鈴田牢の跡

所在
長崎県大村市釜川内 県道37号線(大村貝津線)沿いで釜川内公民館の向かい
開館時間
常時開館可
料金
なし

アクセス

車…
JR大村駅より約10分。
バス…
<大村バスターミナル>より県営バス[諫早駅前(医療センター・今村ニュータウン)]行きに乗り(所要時間は約14分)、<田久保>で下車し徒歩で約3分。[諫早駅前]に乗車し(所要時間は約12分)、<与崎>で下車し徒歩で約10分。

福岡から行く!

電車…
JR博多駅より[かもめ]に乗車し<大村駅>で下車(所要時間は約1時間55分)。車で約10分、または、バスで約14分と徒歩で約3分。
高速バス…
博多駅交通センターより九州急行バス〔九州号〕に乗り≪大村IC≫で下車、県営バスに乗り換え≪JR大村駅≫で下車。車で約10分、または、バスで約14分と徒歩で約3分。
車…
福岡市内より九州自動車道を利用し、長崎自動車道<大村IC>で降りて(約1時間20分)、さらに国道444号線から国道34号線に左折、与崎橋の三叉路を左折しコンビニの角を右折して県道37号線(大村貝津線)を走って約1分。釜川内公民館の向かい。

佐世保から行く!

車…
JR佐世保駅より約1時間25分。
電車…
JR佐世保駅より[快速シーサイドライナー]に乗車し<大村駅>で下車(所要時間は約60分)。車で約10分、または、バスで約14分と徒歩で約3分。

長崎から行く!

電車…
<JR長崎駅>より[快速シーサイドライナー]に乗車し<大村駅>で下車(所要時間は約55分)。車で約10分、または、バスで約14分と徒歩で約3分。
車…
長崎市内より出島道路経由の長崎自動車道を利用した場合「大村IC」で下り(所要時間は約25分)、さらに国道444号線から国道34号線に左折、与崎橋の三叉路を左折しコンビニの角を右折して県道37号線(大村海津線)を走って約1分。釜川内公民館の向かい。 長崎市内より国道34号線を諫早方面へ向かい、貝津町交差点を左折し県道37号線(大村貝津線)を北上、釜川内公民館の向かい。所要時間は約60分。

●JR大村駅・大村ターミナル・長崎バスターミナル・佐世保バスターミナルまでは「ながさき旅ねっと アクセス」をご覧ください。


うんちくバンク

人物
  • 大村純忠
歴史事件
    資料
      場所
      • 今富のキリシタン墓碑
      • 帯取殉教地
      • 首塚の跡
      • 獄門所の跡
      • 妻子別れの石
      • 鈴田牢の跡
      • 胴塚の跡
      • 放虎原殉教地
      その他
      • イエズス会
      • 洗礼名
      • 椿
      • フランシスコ会

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