ながさき歴史の旅

ホーム   > ながさき歴史散歩 >   第30回 龍馬と弥太郎、ゆかりの地"長崎"にそびえ立つ

ながさき歴史散歩

第30回 龍馬と弥太郎、ゆかりの地"長崎"にそびえ立つ

坂本龍馬像  岩崎弥太郎像

 威風堂々・・・、長崎港を間に挟んで秋空に向かいそびえ立つ像。長崎市の風頭(かざがしら)公園と高島港には幕末に活躍した土佐出身の2人の立像があります。みなさんご存知の坂本龍馬と、三菱財閥の礎を築いた岩崎弥太郎(いわさきやたろう)です。龍馬像の視線は眼下に広がる長崎港を見つめていますが、その長崎港の玄関口に位置する高島に建つのが弥太郎像です。龍馬と同じように、弥太郎もまた幕末に長崎を訪れ活躍したひとりなのです。同郷の2人は長崎の地で交流を深めてきます。そして龍馬の死後、明治の新時代を迎え、弥太郎は龍馬も夢みていたといわれる海運業を興していきました。今回は2人が長崎で関わった2つの事件を振り返りながら、長崎ゆかりの地を巡ることにしましょう。

歴史のとびら

「伊呂波丸(いろはまる)事件」と「英国人水夫殺害(イカルス号)事件」

 1867年(慶応3)4月23日の夜。海援隊士を乗せた伊呂波丸が濃霧の中を航行中、突如現れた紀州藩の明光丸が横腹に衝突し、その衝撃で伊呂波丸は沈没してしまいました。龍馬ら乗組員は、相手方の船に乗り移り全員無事でした。龍馬率いる海援隊は、この事故に対して相手方に否があるとして紀州藩に抗議。土佐藩の後藤象二郎が全権となり紀州藩と交渉を行い、明光丸士官の詫び状一札と賠償金8万3千両余りを得たのです。この事件では土佐商会に着任したばかりの岩崎弥太郎も土佐藩側の一員として交渉に関わっています。

 続いて1867年(慶応3)7月6日の夜、長崎の丸山で福岡(黒田)藩士の金子才吉が英国人水夫と喧嘩をして殺害するという事件が起こりました。直後に金子は自殺しますが表沙汰にならず、長崎奉行と英国公使パークスは海援隊の隊士が犯人だと思い込んでしまいました。坂本龍馬は事実無根と猛抗議し、弥太郎も長崎の藩責任者として英国側と折衝を行っています。しかし、英国人相手の交渉は難航したようです。結局、長崎奉行所の裁定では海援隊は無関係となりましたが、真犯人が金子才吉と判明したのは約1年後のことでした。この事件は弥太郎の日記に「丸山異人横死の件」とあるように、遊廓街のあった丸山の路上で起こったものです。

散歩コース

スタート地点までのアクセス

◎所要時間のめやす:約95分
(徒歩、車、高速船利用
※利用する高速船の発着時刻で異なります)

風頭公園

↓徒歩約5分

亀山社中跡

↓徒歩約20分

土佐商会跡

↓徒歩約15分

後藤象二郎邸跡

↓徒歩約15分

長崎奉行所立山役所
(長崎歴史文化博物館)

↓長崎港まで車で約5分。
長崎港(大波止ターミナル)から高速船「高島行」で約35分

高島

1風頭(かざがしら)公園

 龍馬はかつてこの場所から長崎港を見下ろしたことがあったのでしょうか。風頭山には坂本龍馬の像が建つ風頭公園があります。展望台から長崎市街地や長崎港を一望することが出来ます。この公園では春になると江戸時代から続く長崎名物のハタ揚げ大会が開催されます。または桜や紫陽花(あじさい)の名所としても長崎市民に親しまれています。

2亀山社中(かめやましゃちゅう)跡

 坂本龍馬は、1865年(慶応元)、長崎を拠点にして日本初の商社といわれる「亀山社中」を設立しました。当初は小松帯刀(こまつたてわき)が家老を勤めていた薩摩藩が資金面の後ろ楯となりましたが、運営のための資金繰りは厳しく火の車でした。そこで新たな後ろ楯となったのは後藤象二郎が参政を勤めていた土佐藩で、名称も1867年(慶応3)に「海援隊」と変わりました。

3土佐商会(とさしょうかい)跡

 「長崎土佐商会」は幕末の長崎に設置された土佐藩「開成館」の出先機関です。正式名称は「土佐藩開成館貨殖局長崎出張所」。ここでは紙、樟脳(しょうのう)、鰹節(かつおぶし)など土佐藩の専売品を輸出し、外国から軍艦や鉄砲などの武器類を購入していました。岩崎弥太郎は、1867年(慶応3)、長崎土佐商会に赴任し間もなく主任となりました。現在、長崎市の西浜町電停そばに架かる鐵橋(てつばし)のたもとには「土佐商会」跡の石碑が建っています。その石碑には海援隊発祥の地とも刻まれています。

4後藤象二郎(ごとうしょうじろう)邸跡

 開成館の総裁で土佐藩の参政だった後藤象二郎は、長崎土佐商会の経営に当たるため長崎に滞在していました。伊呂波丸事件では、紀州藩との交渉について、後藤邸で龍馬と弥太郎との密談が行われました。1867年(慶応3)6月2日の弥太郎の日記によると「弥太郎が賠償額について原案を作り、後藤宅に行き、龍馬を呼び出して3人で密談をした」というような内容が記されています。現在の金屋町(KTNテレビ長崎ビル横)には後藤邸跡の石碑が建てられていますが、後藤邸はのちに岩崎弥太郎が譲り受け、三菱の所有として使われていました。

5長崎奉行所立山役所(ながさきぶぎょうしょたてやまやくしょ)

 英国人水夫殺害事件の海援隊士への尋問や弥太郎への事情聴取は、長崎奉行所立山役所(現在の立山町)で行われました。興味深いことに、 長崎奉行所で審問された弥太郎の様子を、龍馬は佐々木三四郎に宛てた手紙の中で戦争に例えて「敗走に及び候」と非難しています。 長崎奉行所立山役所跡は2002年(平成14)から発掘調査が進められていましたが、翌年、正門前の階段と踊り場の石畳が発見されました。その階段と石畳を生かして、 長崎奉行所立山役所の一部を忠実に復元したものが、現在の長崎歴史文化博物館で、長崎県の歴史・文化の発信拠点となっています。

6高島(たかしま)

 長崎港から伊王島経由の高速船に乗って、約35分で高島に着きます。「高島」は高島、端島(軍艦島)、中の島、飛島の4つの島からなっており、かつては石炭発掘で繁栄しました。高島港すぐそばの公園にはお目当ての岩崎弥太郎像が建っています。

 明治維新以後、岩崎弥太郎は大阪で九十九(つくも)商会を設立し、藩営事業の海運業を継承します。1873年(明治6)には名前を三菱商会と改称、汽船会社を経営しました。その後、弥太郎は長崎の高島炭鉱を買収し経営に関わります。高島炭鉱は幕末に佐賀(鍋島)藩と英国商人グラバーが共同経営し、1874年(明治7)にいったん官営になり後藤象二郎に払い下げられ、1881年(明治14)4月に三菱の経営に移りました。

 弥太郎像の前方には「石炭資料館」があります。さらに高島港から25分ほど歩く(島内循環バス有り 本町バス停下車)と、その歴史の記憶をとどめるように「北渓井坑跡(ほっけいせいこうあと)」「後藤象二郎邸跡」「グラバー別邸跡」などがありました。

 また、岩崎弥太郎の晩年にも長崎との関係は続きました。1884年(明治17)、長崎製鉄所を工部省より借り受け、長崎造船所と改称し経営を始めます。その3年後には払い下げを受け三菱の所有となりました。これが長崎港発高島行の高速船から右手に見える三菱重工(株)長崎造船所なのです。


〔文:小川内清孝〕

参考文献
  • 『旅する長崎学7 近代化ものがたり1』(企画/長崎県 制作/長崎文献社)
  • 『旅する長崎学8 近代化ものがたり2』(企画/長崎県 制作/長崎文献社)
  • 『岩崎弥太郎伝 上・下巻』(岩崎弥太郎・岩崎弥之助 伝記編纂会)
  • 『岩崎弥太郎』(入交好脩著 吉川弘文館)

スタート地点までのアクセス

風頭公園

所在
長崎県長崎市伊良林3丁目510-6他
駐車場
無し
トイレ
普通:有り、多目的:無し
アクセス
 
車…
長崎駅から約15分
バス・徒歩…
「風頭山行」で約30分、終点下車で徒歩5分

うんちくバンク

人物
  • グラバー
  • 後藤象二郎 
  • 佐々木三四郎
歴史事件
    資料
      場所
      • 大波止
      • 風頭公園
      • 高島炭鉱 
      • 長崎歴史文化博物館
      その他
      • 伊呂波丸
      • 海援隊
      • 開成館
      • 長崎製鉄所
      • 北渓井坑 

      アンケート

      コメント