ながさき歴史の旅

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ながさき歴史散歩

第33回 近代医学の地 島原散策

〜藩医 賀来佐一郎の足跡をたどる〜

 “近代医学”と言えば、「長崎」「シーボルト」を想像する人は多いでしょう。実は、長崎県の島原で、九州内の他藩や長崎に先駆けて、人体解剖が行われているのですが、意外と知られていません。藩主の松平家は歴代、学問に造詣が深く、好学の家柄であったため、人材育成の基礎となる教育には力を入れていたようです。日本三大薬園跡の一つ、旧島原藩薬園跡も残っています。
 今回の歴史散歩では、シーボルトに師事し、島原藩の藩医だった賀来佐一郎(かく すけいちろう)の足跡をたどりながら、島原の近代教育や近代医学の歴史を探ります。

歴史のとびら
解剖図
島原市蔵、島原市提供

 島原藩は1792(寛政4)年の普賢岳噴火に伴う災害「島原大変」で、未曾有の被害を受けました。このとき、眉山(まゆやま)が崩落して城下も埋没。藩の財政は窮乏しました。
 しかし、1793(寛政5)年、災害からの復旧と藩の建て直しを目指して、人材育成のための藩校「稽古館」を創設。1821(文政4)年には、医学分野を独立させ、いわゆる医学校「済衆館」を設置しました。「済衆」とは「民衆を助ける」という意味。病院や医師会としての機能も備えていたようです。
 当時、島原藩は松平氏が治め、豊後(現在の大分県)にも領地を持っていました。江戸時代の中期、豊後や豊前には有名な儒学者や医家が多くいました。

 豊後の島原領の出身だった賀来佐一郎は「豊後の三賢」の一人、帆足万里(ほあし ばんり)の弟子でした。佐一郎は、オランダ語を長崎のオランダ通詞の吉雄幸載(よしお こうさい)に、西洋医学と植物学をシーボルトに学び、長崎で約6年間過ごした後、1829(文政12)年、豊前安心院(あじむ)で医師として開業。その後、京都方面への遊学などを経て、1842(天保13)年に島原藩医として招かれました。翌年、藩医だった市川泰朴(いちかわ たいぼく)とともに、囚人を使った人体解剖に協力しました。同じ年、済衆館内にあった薬園の主任に任命されて、薬草の栽培研究を始め、その後、薬園の移転拡張工事にも尽力し、藩の再建に貢献します。1857(安政4)年、佐一郎は島原で息を引き取りました。

散歩コース

スタート地点までのアクセス

◎所要時間のめやす:約3時間

旧島原藩薬園跡

↓車で5分

本光寺

↓車で5分

島原城

↓徒歩5分

島原図書館 松平文庫

↓徒歩10分

武家屋敷跡

1旧島原藩薬園

 島原藩は1805(文化2)年、領内に薬園をつくりました。島原大変のとき、窮乏した藩は、栽培した薬草を各藩に売って、財政難を乗り切る方針だったようです。薬園は1843(天保14)年、島原藩の医学校「済衆館」内に移転。このとき賀来佐一郎が薬園主任を務めました。
 薬園が手狭で栽培に不向きだったことから、1846(弘化3)年、藩士の飯島義角(いいじま よしずみ)とともに、眉山のふもとを開墾。拡張工事を繰り返しながら、1853(嘉永6)年、現在の「旧島原藩薬園跡」の場所に完成させました。しかし、約15年後の明治維新を迎えて、薬園は廃園。民間所有を経て、現在は国指定の史跡として管理されています。


 現在、薬園の山手側には、薬師の詰め所跡や倉庫跡など、貴重な遺構がみられます。南北90m、東西110mの広大な敷地には、ハーブや樹木などが植えられ、真っ赤なシマバライチゴが、たわわに実を付けていました。長崎県や熊本県に分布する珍しいキイチゴです。冬にかけて、枝先に葡萄の房のような実をつけます。
 園内には、ほかにも柿の木、アジサイ、棗など多種多様に植樹されており、それぞれに効能があることを伝えてくれます。現代の私たちの生活の中では観賞用として身近な植物が、薬として珍重されていた時代があったことをしみじみ実感します。

2本光寺

 島原藩主松平家の菩提寺である瑞雲山本光寺。松平家の墓地のほか、1857(安政4)年に島原で亡くなった賀来佐一郎の墓もあります。境内には、貴重な文献や資料を展示した常盤歴史資料館もあります。

3島原城

 島原城には郷土資料が展示されており、その中には医学に関するものがあります。当時、西洋医学の先進地だった長崎に先駆けて1843(天保14)年、人体解剖が行われました。解剖図も展示されています。
 人体解剖には医学の実証的な研究のため、藩の医学校だった「済衆館」の教授や領内の医師たちが参加。教授でもあり、藩医だった市川泰朴が指導し、賀来佐一郎らが協力して、結果をまとめました。


解剖図
(島原市蔵、島原市提供)

 解剖していく段階を経て、肉の部分を褐色、臓器を青色、血管を赤色で表記。臓器の形や配置を絵で表現し、「小腸ニ丈九尺二寸 囲二寸五分」「左肺重八十目 長七寸五分 幅五寸六分」というように、重さや長さも正確に測定されています。既に「網膜」「肺」「胃」などの名称が記されており、科学知識の確かさやレベルの高さを伺えます。
 展示物の中には、「済衆館」の扁額も残っています。書は福岡藩士、亀井照陽(かめい しょうよう)によるものだそうです。市川泰朴の生家の薬箪笥など、薬を調合する道具なども展示されています。

4島原図書館 肥前嶋原松平文庫

 島原城主だった松平家が歴代にわたって収集・所蔵していた書籍などが「肥前嶋原 松平文庫」として、今に受け継がれています。その蔵書は藩政の記録はもちろん、歴史、宗教、政治、経済、自然科学、文学など幅広く、3000部1万冊以上にのぼります。中には最古の写本とされる「甲州式目」など4冊をはじめ、「紫式部日記歌」など、お宝がたくさん。松平家は代々、学問を好む家柄だったそうです。これらの書籍は藩校「稽古館」の教科書として活用され、藩学の基礎を築きました。
 蔵書の中に、賀来佐一郎が関わった本を発見しましたよ。「墨是可新話(めきしこしんわ)」です。島原半島の深江村出身の太吉という人物が1841(天保12)年、遭難して太平洋を漂流しているとき、イスパニアの海賊船に助けられたものの、そのままメキシコに連れて行かれ、5年ほど後に中国の船に乗せられて長崎港に到着。島原に帰り着きました。その漂流とメキシコ滞在の実録がこの本で、賀来佐一郎が藩士たちとともに、太吉に聞き取りしてまとめました。医学とは関係ありませんが、こんな偉業も残していたとは…。当時の外国の生活や風俗を知る貴重な資料になったはずです。

5武家屋敷跡

 島原城の西側には武士たちの集合住宅、武家屋敷が残っています。島原に残る武家屋敷は鉄砲の歩兵部隊の住居で、鉄砲町と呼ばれていたそうです。町名に上新丁(うわじんちょう)や下新丁(したじんちょう)など、「丁」が使われているのもそのゆえんでしょうか。
 屋敷の並ぶ道路の中央には水路が設けられ、生活用水として使われていました。それぞれの屋敷内には藩の命令で、梅や柿などの果樹が植えられ、自給自足できるようにしていたそうです。

〔文:大浦由美子〕

参考文献・資料
  • 『島原半島医史』島原市医師会

スタート地点までのアクセス

旧島原藩薬園跡

所在
〒855-0856 長崎県島原市小山町4703
営業期間
見学自由
休み
無休
料金
無料
問い合わせ
0957-63-4853

アクセス

鉄道…
JR長崎本線「諫早駅」で、島原鉄道に乗り換え、島原鉄道「島原駅」で下車。所要時間は各駅停車で約1時間。
バス…
福岡博多交通センターより、島鉄高速バスで約3時間。
船…
福岡天神より西鉄特急で約1時間、「大牟田駅」下車。西鉄バスで約10分、三池港へ。島原港行き高速船で約50分。

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  • オランダ通詞
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      • 島原城
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