ながさき歴史の旅

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ながさき歴史散歩

第37回 身近な友人 中国との交流を探る

~唐通事の足跡と四福寺~

 長崎独特の空気感や文化は「和華蘭(わからん)」といわれます。日本と中国、オランダの文化が混ざり合って同居しているところから「よく分からない」という意味の掛詞で、文化のるつぼ「長崎」のことをよく表しています。
 「漢字」「陶磁器」など、日本は古くから中国の文化や習慣の影響を受けてきました。特に長崎は、江戸時代、中国と貿易を続けていたため、長崎に住む中国人たちも多くいました。また、交易の中で外交官のような役割を果たす唐通事[とうつうじ]が大活躍しています。
 オランダ通詞を「通詞」と表記するのに対して、「唐通事」は「通事」とされます。「唐通事」は、貿易に関することはもちろんですが、唐人屋敷の住民や乗組員の生活など広い範囲にわたって世話をしたからだといわれます。当時の海外との交易は対中国が3分の2ほどを占めていたそうです。
 今回の歴史散歩では、唐通事の墓や中国寺を訪ねながら、歴史的にとても交流の深い、身近な国「中国」とのかかわりを見つめてみましょう。

歴史のとびら

 戦国時代の末期から、九州各地に中国人たちが住み始めました。長崎に住み着いた中国人は、長崎港における対中国貿易を支えます。1603年(慶長8)、長崎奉行の命令で、憑六(ひょうろく)が最初の唐通事になりました。憑六は中国の山西省の東南部の出身という説があり、後に唐通事を代々受け継ぐ平野氏のルーツとなります。こうして日本人の母方の姓を名乗ることを長崎奉行所に許され、二世、三世と代々唐通事の役目を担いました。時代とともに唐通事を世襲する家は増えていき、70近くあったようです。唐通事の役職や年齢などを記録した『訳司統譜』によると、1867年(慶応3)に解散されるまで、延べ1,600人を超える唐通事がおり、頴川家(えがわけ)や林家(はやしけ)、彭城家(さかきけ)などは名門といわれました。
 しかし、中国との貿易も次第に廃れていきます。貿易が衰退する一方で、唐通事たちは階級を増やし、人数を増やしていきました。受用銀12貫目を給与としていた大通事でしたが、四分の一の3貫目という困窮した時代も・・・。しかも親が現役の唐通事の場合は子供は無給という一家族に一給与しか与えないなどの厳しい対策がとられたこともあったそうです。
 幕末になると、没落していく家がある一方で、一部の唐通事たちは英語やフランス語の通訳へと転換しつつ、西欧諸国との交渉などに借り出されていきました。

 現在、長崎には中国寺が多く残っています。16世紀末、長崎に在留する中国人たちは稲佐地区の悟真寺を菩提寺とし、墓地をつくりました。その後、1637年(寛永14)に起こった島原の乱以降、キリスト教の取り締まりが強化される中で、「三福寺」とよばれる「興福寺」「福済寺」「祟福寺」が次々と建立されていきます。命がけの航海の安全を祈願したり、異郷の地で命を落とした仲間の弔いをしたりというのはいうまでもありませんが、出身地方によって寺は分かれていて、今でいう「県人会」のような役割も果たしていたのではないでしょうか。その中心はやはり唐通事たちだったようです。三福寺の創建から約半世紀遅れて、「聖福寺」が建立され、こうして長崎の「四福寺」の歴史が始まりました。

散歩コース

スタート地点までのアクセス

◎所要時間のめやす:約3時間

福済寺と頴川家の墓

↓徒歩約5分

聖福寺

↓電停「桜町」から「新中川」まで
 路面電車で約10分 徒歩約10分

東海さんの墓

↓徒歩約15分

長崎聖堂跡

↓徒歩約15分

興福寺と長崎聖堂の門

↓徒歩約15分

祟福寺

福済寺と頴川家の墓
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 福済寺の裏には頴川家と寺の歴代住職の墓があります。馬蹄形に組まれた石垣で取り囲む特有のスタイルが印象的です。頴川家は代々唐通事の家柄で、福建省から渡ってきた陳冲一(ちんちゅういち)を開祖とし、その長男である藤左衛門(とうざえもん)が頴川家の初代となりました。藤左衛門は1628年(寛永5)に建立した福済寺の檀家の筆頭で、寺の整備に尽力しました。唐通事界のトップに君臨し、経済的にも社会的にも恵まれていたからだといわれます。

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 残念なことに当時の福済寺は1945年(昭和20)の原爆で焼失。現在の寺は戦後に新しく建てられました。昔の面影は頴川家と歴代の住職の墓にしかみることができません。
 現在の福済寺の大きな如来像の中には、世界一の大きさを誇る「フーコーの振り子」があります。絶え間なくゆっくりと動く振り子が一時間おきに棒を倒す様子から、地球の自転を目で見て実感できます。

聖福寺
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 福済寺裏の墓地を通って歩いていくと、長崎の四福寺のひとつ聖福寺にたどり着きます。聖福寺は1677年(延宝5)に建立されました。「桃」「こうもり」「牡丹」「龍」。境内には、中国らしい植物や動物がたくさん“住んで”います。これらの意匠はひっそりとした寺の雰囲気にぴったりで、緑と静寂に包まれた空間は日常の喧騒を離れ、心を落ち着かせてくれます。

東海さんの墓
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 長崎市桜馬場町の春徳寺の裏に広がる墓地の中に、ひと際大きな墓が目をひきます。これが「東海さんの墓」です。墓にまつわるエピソードが残っています。
 唐通事だった東海徳左衛門(とうかいとくざえもん)は約50年もの間、その役職に就いていました。東海家の開祖で両親だった徐敬雲(じょけいうん)夫妻のために、1670年(寛文10)ごろから墓をつくり始めましたが、細かい指示を出していたため、いっこうに工事が進まず、1677年(延宝5)ごろにようやく完成しました。しかし、墓をつくった本人は消息不明となり、結局、墓に入っていないそうです。長崎では、仕事などが長くかかってはかどらないことを「東海さんの墓普請(はかぶしん)」といいます。

長崎聖堂跡
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 1647年(正保4)、儒学者の向井元升(むかいげんしょう)は後興善町に孔子廟と私塾をつくりました。その後、東上町に移転し、「立山書院」と名づけ、多くの儒学者を育てています。1711年(正徳元)には中島川沿い(現在の伊勢町あたり)に移転し、「長崎聖堂」または「中島聖堂」と呼ばれました。このときの孔子を祭る儀式の内容はその後、聖堂の大切な儀式として受け継がれていきました。聖堂設立は中国文化への敬意でもあったようです。東京の湯島聖堂、佐賀の多久聖堂とともに、日本三大聖堂の一つといわれるようになりました。
 しかし、明治になって聖堂は閉鎖。1959年(昭和34)、門扉が興福寺境内に移築されました。

興福寺と長崎聖堂の門
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 日本最古の黄檗宗の寺である興福寺は1620年(元和6)に創建されました。創建当時の檀家には、唐通事の祖となる面々が名を連ねました。
 寺の見どころはたくさんあります。国指定の重要文化財である大雄宝殿(本堂)はもちろん、媽祖堂、鐘鼓楼などは独特の趣があります。4で紹介した長崎聖堂の移築された門も境内にありますので、お見逃しなく。

祟福寺
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 「第一峰門」と「大雄宝殿」の2つの国宝、鐘鼓楼など3つの国指定重要文化財を有しています。2つの国宝は中国で組まれて、船に載せられたといわれ、屋根の部分の細かな装飾は、何ともいえない美しさを放っています。

〔文:大浦由美子〕

参考文献
  • 『長崎唐人の研究』李献璋(新和文庫)
  • 『唐通事家系論攷』宮田安(長崎文献社)
  • 『中国文化と長崎県』長崎県教育委員会
  • 『長崎唐人屋敷』山本紀綱(謙光社)
  • 『長崎県の文化財』長崎県教育委員会

スタート地点までのアクセス

福済寺と頴川家の墓

所在
長崎県長崎市筑後町2-56
駐車場
あり
料金
大人 200円、小中学生 100円
営業時間
7:00〜17:00
休業日
無休
お問い合わせ
 
TEL
095-823-2663
アクセス
 
JR…
JR長崎駅から徒歩8分

うんちくバンク

人物
  • オランダ通詞
歴史事件
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      場所
      • 湯島
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