松原刃物

 大村市の松原は、長崎と小倉を結んだ長崎街道が通っていた場所で、人・物・異国文化が往来していました。この地の名産品に松原刃物と呼ばれる鎌や包丁がありますが、500年もの歴史を持つことをご存知でしょうか?

■松原刃物の歴史
 鍛冶屋は刀剣を作る「薄物」と、鍬などの農具を作る「荒物」の2つに分かれます。薄物鍛冶は繊細な焼き入れの技術が必要で、松原の技術は刀鍛冶の流れをくんでいます。
 松原刃物の歴史を追ってみると、1185年(文治元年)の壇ノ浦の合戦にまで遡ります。平氏一門の刀工・並衝行泰(なみのひらゆきやす)が源氏の追討から逃れるため、日向の国(宮崎県)に身を隠します。そして刀剣の需要が高まった戦国時代の1474年(文明6年)に、その子孫が松原に移住。八幡神社の境内で刀を鍛え、また農民の要望に応えて月型の鎌を作ったのが松原鎌の始まりとされています。これらの技術を、八幡神社の別当であった伊東家が受け継いで、多くの職人が技を習得して広まりました。
 刀の需要が減少すると、それまで余業だった鍬・小刀・鎌・包丁などに重きを移し、本業は鎌の製造へ変わっていきました。現在では包丁が主流となっています。
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平戸焼

 六角や三角の形が大きさを微妙に変えながら一分の狂いもなく配列された模様は、まさに神業です。白磁の本体に伝統の籠目文様が透かし彫りされているものですが、近づいてよく見てみると機械が彫ったのではないかと思うほどです。均等に美しく彫りあげられており、つい我を忘れて見入ってしまいます。気が遠くなるほどの時間を費やして仕上げられる作品は、まさに名匠のなせる手技です。
 写真の作品は、400年余にわたって高度な技術と崇高な精神を受け継ぐ平戸茂右ヱ門の手によって製作されたものです。

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長崎べっ甲細工とは

 べっ甲細工とはどんなものかご存知ですか?
 赤道付近に生息するウミガメの一種、タイマイの背甲と爪(甲羅の縁)、腹甲を巧みに加工、細工したものです。中国では6世紀末頃から製作されており、8世紀の唐の時代にさかんに製作されていたといいます。日本には奈良時代に伝わり、正倉院御物の中に数点保存されているそうです。
 17世紀以降、唐船やオランダ船によってべっ甲細工の材料が長崎に陸揚げされるようになり、中国人から習得した技術で、べっ甲細工が製作されるようになりました。
元禄時代には、丸山近辺に多くのべっ甲職人がいたといわれています。当時は、櫛が主に作られていましたが、やがてかんざしや化粧箱、タバコケースなども製作されるようになりました。べっ甲細工職人の中には、大坂や江戸へと移り住み、べっ甲細工を国内に広めた人もいました。
しかし、材料のタイマイが輸入品で、数に限度があり高価だったため、高級品として庶民には高嶺の花でした。幕末から明治時代初期に、ロシア人など外国人に注目され、購入されるようになります。1891年(明治24)には長崎を訪問したロシアの皇太子ニコライ2世がお土産にべっ甲を購入したといいます。その後、長崎のべっ甲職人たちは、西洋の生活様式に合うようなデザインを工夫します。研究を重ねていくことによって長崎べっ甲製品に対する評価が国内のみならず国外でも高まり、長崎を代表する名産品のひとつとして知られるようになりました。
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