吉村昭歴史小説の世界−『落日の宴 勘定奉行川路聖謨』を読む−其の2

 本格的な交渉は二十日に西役所で始まりました。北の国境問題について、どのようなやり取りが行われたのでしょうか。









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    プチャーチンは、
    「千島は、南は日本、北はわが国で支配いたしております。エトロフ島は、古くからわが国の
   人民が住んでおりましたが、その後、貴国の人民が移り住むようになっております。現在、日
   本としては、エトロフ島をいずれの国の所領とお考えか」
    と、たずねた。
    川路は、
    「千島はすべてわが国に所属する島でありました が、徐々に貴国に蚕食され、島名も変えら
   れている」
    と前置きし、文化年間に蝦夷地に来航した「ディアナ号」艦長ゴロヴニンが書いた「遭厄日本
   紀事」に、ゴロヴニンと日本側との間でエトロフ島は日本領、その北のウルップ島を日露中立の
   島とする協約をむすんだことをあげ、
    「エトロフ島には日本の番所ももうけられ、もとよりわが国の所領であることはいささかの疑
   いもありません」
    と、断言した。
    これに対してプチャーチンは、
    「ゴロヴニンは、わが国の正式の使節ではなく、かれの著書をこのたびの協議の参考にする
   ことは承服しかねる」
    と、反論した。
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 このあたりの交渉については、『幕末外国関係文書』など詳細な編纂史料があり、また長崎市中、諸藩にも、やり取りを記した写本が残っています。例えば「魯西亜船諭方贈答」より十二月廿日の対話をみてみましょう。『落日の宴』の文章が、史料に基づいて書かれたことがよくわかります。以下、波線(〜)で挟んだ部分は「魯西亜船諭方贈答」からの引用です。



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 使節(プチャーチン)
   日本千島之内南ハ日本北者(は)我国ニて支配致候、右之内ヱトロフ島者往昔我国人住居致
   来候処、其後貴国より手を入貴国之住居致候様相成候、当今日本ニてハヱトロフハ何れ之所
   領と心得られ候哉

 左衛門尉(川路聖謨)
   蝦夷之千島ハ不残我国之属島ニ而候、元来名も蝦夷語候処段々貴国より蚕食し名をも附し申
   替られ候義ニ有之、其後貴国之コローイン与(と)申者蝦夷地江罷越候砌規定を立国境を守、
   ウルツプをハ間島与致候積り堅約いたし其以来ヱトロフ島江者外国の者を置かず、領主よりも
   番所を差置れ来る処ニ而素より我所領なる処疑も無之候

 使節(プチャーチン)
   ウルツプ島者百年前魯西亜所領なりしに近年アメリカ人罷越猟事を致、ヱトロフ島者五十年前迄
   者魯西亜人而已住居致、貴国之人罷越 居候義者無之事ニ付右之心得方尋問ニ及処に候

 左衛門尉(川路聖謨)
   ヱトロフハ我所領なる事顕然として疑を容るへき処なく古者カンシヤツカ迄も我国の所属ニ而候、
   蝦夷人而已住居致候を其後貴国の拠守する様に成、夫れのみならずカラフト南岸之地我所属ニ
   て是迄番所をも差置来る、一体使節心得方ニ不審すへき条々有、貴国政府之書翰ニも無之義
   を使節より者色々与弁を加へ申聞らるゝ趣も有之者政府之意ニ者あらざるべし、右体之義強而弁
   論に及バるゝハ貴国之所領をなさんとの意ニ者有之間敷右様之心得ニ有之候者通信通商等之
   義者論判ニも難及是等よりして我国人心の憤怒を生じ可申(後略)

 使節(プチャーチン)
   コローインハ元来我国政府之使節にあらず、全く自己之了簡ヲ以て右様之事ニも及びたる事
   なれバ今般の証拠ニハ引用がたく(後略)
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吉村昭歴史小説の世界−『落日の宴 勘定奉行川路聖謨』を読む−其の1

 
 
 吉村先生は、東京都荒川区日暮里の生まれです。いわば東京下町の生まれ、育ち。
 奥様である作家の津村節子先生のエッセイ「下町生まれの夫」から「吉村昭」という人物をみてみましょう。以下、波線(〜)で挟んだ部分は「下町生まれの夫」からの引用です。









 






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    東京の下町生まれの夫と、雪深い北陸の福井生
   まれの私が結婚したのだから、縁というものは不
   思議なものだ。・・・
    「・・・日頃、仕事に追われてろくにかまってやれ
   ないのだから、一年に一度ぐらい、子どもたちと
   のんびりしてみたい」
    と言ったら、夫は思いがけぬほど機嫌をそこね、
    「暮というのは、一年の締のくくりをつけるために
   あるのだ。ふすま・障子をはりかえ、たたみがえ
   をし、心身共に新年を迎える準備をする。
   それを怠っては、年がら年中のっぺらぼうで、けじ
   めがつかない。また、新年には先輩や親戚に年始
   に行き、また来て下さる方もあることをありがた
   いと思わなくてはいけない。それをめんどうがる
   ようで、主婦と言えるか」
    と、私のささやかな願いは見るに一蹴されてしま
   った。   (「下町生まれの夫(部分)」)
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 吉村先生、相当に「頑固」です。「律儀」に通じるものでもあります。また、東京下町に対する思いもかなりのものでした。その思いは徳川幕府に対してもつながるのでしょう。 吉村先生の徳川幕府びいきは、かなり徹底しており、次にあげる対談での発言からも明らかです。
 「僕は、幕府というのはたいしたものだと思っています。川路聖謨(としあきら)「落日の宴」を書いていてつくづく感じますのは、川路にしろ岩瀬忠震(ただなり)にしろ、家柄・身分など一切無視して、有能な人材を幕府が積極的に登用していることですね」(「敗者から見た明治維新 with 田中彰」『歴史を記録する』)。
 繰り返すようですが、薩長土肥出身者を主人公にすることは決してありませんでした。『生麦事件』は、事件そのものが主題であり、歴史的意義が極めて大きいとの判断から執筆したもので、薩摩藩はえがいても藩士を主人公にしたわけではありません。今日人気の坂本龍馬についても、『トーマス・B・グラバー始末』の出版記念鼎談を、吉村・内藤両先生とNBC長崎放送で行ったとき、テエシタ男ではない、と言われたことを憶えています。
 「(坂本龍馬は)ちょこちょこ表舞台に出てくるけれども、歴史を動かした人ではありません。もともと歴史というのは一人の人間が動かせるものではない。薩摩と長州がともに外国と大戦争をやって、その教訓から「ああ、武器だ」とわかって結びついた。つまり、藩という大きな体制によって歴史が動いたわけで、一人の個人が動かせるほど軽いもんじゃないですよ」(「徳川幕府は偉かった with半藤一利」『歴史を記録する』)。
 一方、『落日の宴』の主人公川路聖謨は、実力のある魅力的な人物なのに、正当に評価されていない幕府の人材、ということで取り上げられたものと思われます。筆まめな川路は、役務日記、出張記録なども多く残しており(『川路聖謨文書』)、これも理由の一つです。なかでも『長崎日記・下田日記』(東洋文庫)が今回の基本文献ですので、ご参照ください。また、ロシア側の文献として、『ゴンチャローフ 日本渡航記』もあります。文学者でもあるゴンチャロフはプチャーチンの秘書官としてパルラダ号に乗船していました。
 はじめに、川路聖謨という人物がどのような生涯をおくったか、その概略を述べておきましょう。小禄の御家人から、幕吏最高位の勘定奉行勝手方首座まで昇進しています。

本姓内藤氏、父は日田代官属吏、御家人川路氏を継ぐ
 35才 勘定吟味役 〜 佐渡・小普請・普請の各奉行歴任
 38才 「さと」と結婚(4人目の妻)
 41才 従五位下 左衛門尉任官(小普請奉行のとき)
 51才 大坂町奉行
 52才 勘定奉行(公事方)に栄転(家禄 扶持取 →知行取 500石)
 53才 勘定奉行(勝手方)、海防掛、露使応接掛 〜 長崎へ(嘉永六年)
 54才 プチャーチン下田来航時の応接専任となる、条約交渉
 57才 勘定奉行勝手方首座
 59才 隠居、差控 ← 安政の大獄
 63才 外国奉行
 64才 中風の発作、左半身不随
 68才 慶応四年三月十五日 ピストルで自死 ・・・江戸城開城

 嘉永六年(1853)十月八日、ロシア使節に対する応接掛を拝命した川路は、同月晦日朝に江戸を出立して長崎に急ぎました。他に、元長崎奉行で西丸留守居の筒井政憲、目付荒尾成允(しげまさ)、儒者古賀謹一郎も応接掛に任ぜられ、次々と江戸を出立します。任命から出立まで20日以上もたっているのは、挨拶回りや、威風を示す供揃えの準備などに日数がかかったようで、形式を重んじる江戸時代においては随分早い方でしょう。
 十二月八日、川路は日見峠を越えて長崎に入り、中島の高木定(貞)四郎の屋敷に到着しました。鉄砲方だった高木定四郎は、当時兄のあとを継いで長崎代官を兼任しており、中島の屋敷は空いていたのです。また、筒井は長照寺、荒尾は岩原屋敷、古賀は永昌寺を宿所とし、他に浄安寺、三宝寺なども随員の宿所になっています。
 早速翌日夜、蘭学者で通訳担当随員の箕作阮甫(みつくりげんぽ)が川路を訪ねてきました。ロシアは、国境問題、とりわけ千島エトロフ島とカラフトは本来ロシア領であると主張し、日本の開国と貿易開始、少なくとも2港を開くことを要求しているが、どう対処なさるつもりか、と覚悟のほどをただしにきたのです。以下、二重線(=)で挟んだ部分は『落日の宴』(『吉村昭歴史小説集成 四』)からの引用です。
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吉村昭歴史小説の世界−『アメリカ彦蔵』・『漂流記の魅力』を読む−其の3

 
 終わりに『漂流記の魅力』から、世界一周をして長崎に帰ってきた石巻「若宮丸」乗組員のことを紹介します。吉村先生は、その「あとがき」で「これまでの一応の総決算として漂流そのものについて書いてみようか、と思った」。「さらに私は、数多くの漂流記の中から、一例として「若宮丸」の漂流を取り上げることを心にきめた。この漂流は、一般には知られること少いが、乗組みの者同士の確執、規模の大きさで特異な内容をふくんでいて、ぜひ紹介したいと思ったのである」と書いておられます。これに関する基本文献は『環海異聞』、『世界周航記』、『続長崎実録大成』(長崎志続編)です。
 若宮丸は、石巻の米澤屋平之丞持船八百石積、沖船頭は平兵衛、乗組員16名、寛政五年(1793)十一月末に、仙台藩の藩米2,332俵を積んで石巻を出港しました。沖合へ出て程なく申酉(西南西)の暴風が吹き出してやまず、若宮丸は楫を折られ、乗組員は髪を払って神仏に祈り、帆柱を伐り捨て、積荷の米俵を刎ね捨てて、ようやく転覆を免れました。

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吉村昭歴史小説の世界−『アメリカ彦蔵』・『漂流記の魅力』を読む−其の2

 
 この年1854年、彦蔵は、サンダースとともにサンフランシスコへ行き、ここでも商業学校に入って1年間在学、翌年起きた金融恐慌でサンダースの会社が倒産すると、学費の援助が得られず、紹介された会社で実務につきました。その後太平洋の測量船に書記として乗り組むことになり、そうなれば故国日本の土を踏むことができるかもしれません。ただ、カトリックの洗礼を受けていることから、サンダースはアメリカ市民権を取得することをすすめました。




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       自分はカトリック教会で洗礼を受け、ジョセフ・ヒコという洗礼名まであたえられている。
      それをかくそうと思えばかくせぬことはないだろうが、日本を訪れるアメリカ人の口から
      もれた場合、禁制であるだけに極刑に処せられるにちがいない。
        「ソレデ考エタノダガ、アメリカにnaturalization シタ方ガイイト思ウ」
       サンダースは、静かな口調で言った。
        「naturalization(帰化)?」
       彦蔵には、初めてきく単語であった」
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 彦蔵は考えたあげく、それを受け入れ、ボルチモアの地方裁判所に申請して、アメリカ合衆国の市民権を取得しました。ジョセフ・ヒコという日系アメリカ人第一号の誕生です。
 これまでサンダースはじめ親切なアメリカ人から、随分とかわいがられてきました。個人的資質もあるでしょうが、漂流のとき13歳という少年であり、英語学習、学校教育にも適応しやすかったと思われます。同じことは、ジョン万次郎でもいえるでしょう。
 サンフランシスコを測量調査艦クーパー号に乗って出港したヒコ(以下、ヒコと表記)ですが、事情があってホノルルで下船し、香港を経て、上海からハリス公使とともにミシシッピー号で日本に向かいました。途中長崎、下田に寄り、神奈川沖に投錨、ようやくヒコはボートで横浜村の船着場に上陸して故国日本の土を踏みしめました。1859年7月、アメリカ合衆国神奈川領事館が開設され、彼の通訳の仕事が始まりました。
 しかし、そのころの日本は、攘夷の嵐が吹き荒れていました。翌年、ヒコは領事館を辞任して、横浜に貿易商社を開いていますが、その前後に起こった出来事を列挙しましょう。

1859.8.25 横浜でロシア軍人殺害
1860.1.29 イギリス総領事館通訳のダン(伝吉)殺害・・・彦蔵の旧友
1860.3.24 大老井伊直弼、殺害される(桜田門外の変)
1861.1.15 ヒュ−スケン暗殺事件
1861.7.5  イギリス公使館襲撃(東禅寺事件)

 身の危険を感じた彦蔵は、 1861年秋に三度アメリカへ渡航し、南北戦争の最中にサンフランシスコからパナマ経由でニューヨークへ向かいました。翌年、ヒコはリンカーン大統領に会見しています。つまり、リンカーンに会った唯一の日本人ということになります。
 アメリカでの生活も平穏ではありませんでした。何せ南北戦争のさなか、ボルチモアではスパイ容疑で憲兵隊に拘束されたこともあったのです。リンカーン会見の翌月、ヒコはニューヨークを出帆、サンフランシスコ、香港、上海を経て横浜に入港し、再度領事館の通訳に就任しました。ところが領事とそりが合わず、2年ほどで通訳をやめたヒコですが、特筆すべきはその後の日本語木版新聞『海外新聞』の刊行です。この日本最初の邦字新聞は、1864年9月から66年6月まで続きました。
 幕末激動の情勢を一部省略して、いよいよ長崎のヒコに移ります。


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         その頃、長崎で商社を経営しているフレイザーから、アメリカに帰ることに
        なったので、商社を引受けてくれないか、という手紙が来た。フレイザーは、
        ウォルシュ兄弟と横浜で貿易の仕事をしていたことがあり、彦蔵はその三人
        と旧知の間柄であった。
         三人は、横浜を去って長崎に行き、それぞれ商社を設けた。ウォルシュ兄
        弟の兄ジョンは、貿易商を営むかたわら長崎のアメリカ名誉領事の役職も兼
        ねていた。
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 1866年前後の長崎港は、国内の戦乱の影響で、薩摩藩はじめ諸藩が競って大量の銃砲・艦船を購入している貿易構造に特徴がありました。横浜港のように、江戸という大消費都市を後背地にもち、関東・甲信の大生糸産地に近いという輸出入に有利な地理的条件はありませんが、300年来の貿易港だった長崎には、貿易のノウハウが蓄積しており、また上海・香港に近いことから、最新の海外情報をいち早く入手できる優位さがありました。
 フレイザーは言います。


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         「ト言ッテモ、貿易ハ武器ダケデハナイ。南北戦争中ハ、綿花ヲ輸出シテ大イ
        ニ儲ケタガ、戦争ガ終ッテソレハ駄目ニナッタ。シカシ、茶ヤ石炭ヲ輸出シタ
        リ、織物ヲ輸入シタリ、ソレガ私ノ仕事ダ」
         フレイザーは、静かな口調で言った。
         彦蔵は、フレイザーの言葉でグラバーというイギリス商人が長崎での貿易を
        牛耳っているのを感じた。
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吉村昭歴史小説の世界−『アメリカ彦蔵』・『漂流記の魅力』を読む−其の1

 
 海国日本には漂流記とよばれる独自の海洋文学がある、と吉村先生はいいます。
 江戸時代(朱印船時代を除く)、大洋を渡る航路はありませんでしたが、日本海側から瀬戸内、大坂、さらに江戸へ物資を運ぶ沿岸航路は大変発達していたのです。その弁才船とよばれる荷船が大坂・江戸間を航行中、あるいは漁船が太平洋沿岸で操業中、突然の時化に巻き込まれて遭難し、黒潮に運ばれてカムチャッカへ漂着、ロシアに到りました。また、ある船は太平洋上で、あるいは漂着した無人島においてアメリカ捕鯨船・商船に発見・救助され、ハワイやアメリカ合衆国に到りました。中にはアメリカで教育を受け、幕末の日本に帰国して活躍したジョン(中浜)万次郎やジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)のような人物もおり、後者が『アメリカ彦蔵』の主人公です。
 勿論、発見・救助された漂流民はごく一部で、大半は海に沈み、陸に漂着して殺される者もいたと思われます。幸運にも帰国できた場合、幕府・奉行所は、まずキリシタン宗門のことを吟味し、その後、生国や遭難・漂流の経過などを取り調べて、詳細な吟味書を作成します。
 長崎奉行所文書にも、土佐のジョン万次郎帰国の際の吟味書「薩州ヨリ送越候無人島漂流日本人一件」や、ジョセフ・ヒコの乗船であった播磨の永力丸乗組員の帰国に関する「寅弐番唐船ヨリ送来候漂流日本人一件」などが残っています。
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吉村昭歴史小説の世界 −『ふぉん・しいほるとの娘』を読む−其の3

 その後滝は、俵屋時次郎という商人と結婚し、そのもとでイネは美しく成長していきます。シーボルトの弟子として、滝・イネ母子のことをあたたかく見守っていた二宮敬作も
やがて伊予に帰国し、宇和島に近い卯之町で開業していましたが、イネはその敬作を訪ねて行きました。


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     お稲は、敬作の口にする父の話に
    耳をかたむけていたが、敬作もシー
    ボルトの話をするのが楽しそうだった。
     お稲は、ふと思いついたように、
    「母は、なぜ異国人の父と知り合い
     結ばれるようになったのでしょうか?」
    と、問うた。
     敬作は、返答に窮したように口をつぐみ、お稲に視線を据えた。
    「お稲さんは、どのようにきいている?」
     敬作は、さりげない口調で反問した。
    「父が出島から長崎の町に往診に出た際、たまたま病気をしていた母がみていただ
    き、それが縁で親しくなったとか。出島に入るには傾城(けいせい)の身でなければ許
    されぬために、傾城として出入りしたときいています」
     お稲は無心な表情で言った。
    「詳しいいきさつは知らぬが、そのようにきいている」
     敬作は、視線をそらせて言った。
     かれは、お稲が父母の結びついた事情について知らぬことを意外に思った。
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吉村昭歴史小説の世界 −『ふぉん・しいほるとの娘』を読む−其の2

 さて、南ドイツの名門ヴィルツブルグ大学医学部出身の若き医師フィリップ・フランツ・フォン=シーボルトの名声は、長崎から江戸をはじめ日本各地に伝えられ、蘭方医学を志す多くの若者が長崎に集まってきました。すでに長崎に遊学していた者も併せて教授するため、長崎郊外の鳴滝にあった青木家の別荘を購入、改修して居住兼用の塾となし、シーボルトは週に一度程度、出島から通うところとなりました。塾頭は阿波の美馬順三で、新入り・初級の者たちはまず塾頭に学びます。後にイネの後見・保護者となる二宮敬作が「我死なば 髪はふるさと なきがらは 美馬先生の 墓に埋めよ」と遺言したくらい慕われた人だったようです。美馬順三の墓は、大音寺後山のオランダ通詞中山家墓地にあります。


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     塾生たちにまず必要なのは、オランダ
    語の学力をつけさせることであった。
    シーボルトの授業は、通詞が補足すると
    は言え、オランダ語の知識がなければ理
    解することはできない。そうした事情から、
    シーボルトの週一回授業日以外の日は、吉雄権之助らの塾でオランダ語習得につとめる
    ことになった。
     また美馬順三らが、塾生たちにオランダ語、オランダ医学を指導することも定められた。
     病人の治療については、吉雄幸載や楢林栄建、宗建兄弟の協力を得て、難病の者を選
    んでおき、週一回のシーボルトの診察日に塾内に待機させることになった。むろんそれは
    同時にシーボルトの塾生たちへの臨床講義にもなる。
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吉村昭歴史小説の世界 −『ふぉん・しいほるとの娘』を読む−其の1

 「吉村昭」という人物を表現するのに、最もふさわしいのは「律儀」という一語ではないか、と私は思っています。
 前にも述べたように、吉村先生は『戦艦武蔵』で大きく世に出ました。以来、長崎は特別な町になったようです。「長崎はいい町ですね。私はほれ込んでいるんです」、このような趣旨の発言・文章を、いろいろなところで見ることができます。勿論、その律儀さは長崎だけに向けられたものではありません。ほんの一部分しか知らない私からみても、周囲の交遊ある人々、取材で世話になった人々に対して、北海道、愛媛県宇和島・卯之町など先生ゆかりの土地にいたるまで、本当に律儀な方だと感じました。
 また、医学関係をテーマとした小説が多い理由はご自身の体験によるものです。「私は中学二年生のときに肋膜をやりまして、五年生のときには肺浸潤で、戦後、喀血しましてね。末期患者になってしまったんです。それで、昭和二十三年の八月に例の胸郭成形を受けました。・・・肋骨五本を取ったんですけどね。・・・そういう経過があるものですから、自然に医学のほうのことを書くようになったんですかね」(「歴史と医学への旅」『歴史を記録する』)。
 そんな長崎と医学が組み合わさった歴史小説が『ふぉん・しいほるとの娘』です。吉村先生が、医学関係の歴史小説を書く基礎となった作品に『日本医家伝』があって、業績すぐれた12人の人物、それも「人間的に強い興味をいだいた」医家を選んで執筆されました(『日本医家伝』「あとがき」)。
 12人をあげてみましょう。山脇東洋、前野良沢、伊東玄朴、土生玄碩、楠本いね、中川五郎治、笠原良策、松本良順、相良知安、荻野ぎん、高木兼寛、秦佐八郎といった人物です。このうち前野良沢の短編は『冬の鷹』に、中川五郎治は『北天の星』、笠原良策は『めっちゃ医者伝』、高木兼寛は『白い航跡』というように長編小説になりました。すでに紹介した『暁の旅人』の主人公が松本良順ですし、楠本いねはここで紹介する『ふぉん・しいほるとの娘』の主人公です。
 楠本いねについて、『日本医家伝』文庫版「あとがき」には次のように書かれています。
 「楠本いねは、シーボルトとオランダ人専門の遊女との間に生まれた混血女性である。遊女であった母の生い立ちや、その後のいねの生涯については、長崎県立図書館で貴重な資料を見せていただいた。彼女を美化した説は多いが、私は自分なりに調査に努力し正確をはかったつもりでいる」。
 この短編が、吉村作品で最長編の『ふぉん・しいほるとの娘』になったのですが、それだけの素材があったということでしょう。当時長崎県立長崎図書館で資料を提供したのは永島正一館長でした。永島先生とは『戦艦武蔵』執筆以来の親しいお付き合いで、夜は必ず小料理屋で一杯やりながら長崎の歴史の話をされたそうです。さすれば、お酒を飲みながらの歓談が長崎を舞台とした歴史小説誕生につながったということになります。

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吉村昭歴史小説の世界 −『海の祭礼』を読む−其の2

 森山栄之助は、マクドナルドから英語、とくに英会話を習うことを、大通詞、通詞目付を通して奉行所に申し出たところ、ときの奉行井戸対馬守は白洲でマクドナルドを取り調べて、その人柄も、また英語の重要性も認識しており、早速許可を与えました。当時、わが国最初の英語辞書「諳厄利亜(アンゲリア)語林大成」の編集主幹を勤めた本木正栄の子昌左衛門久美が通詞目付の任にあって、オランダ通詞の精鋭が大悲庵英語学習に取り組むことになりました。西与一郎は通詞目付助、植村作七郎は大通詞、森山は小通詞です。


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       本木は、奉行所の積極的な姿勢にこたえて、英語修業の通詞団を編成するこ
      とにし、西与一郎を世話役として植村、森山以外に若く有能な通詞をえらび出
      した。小通詞並西慶太郎、中山兵馬、名村常之助、小川慶十郎、小通詞末席猪
      股伝之助、志筑辰一郎、稽古通詞岩瀬弥四郎、堀寿次郎、茂鷹之助、塩谷種三
      郎の十名で、中山、志筑は、まだ十代の若さであった。
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 この中に、1853年のペリー艦隊浦賀来航時に通訳をつとめた堀達之助の名前がありませんが、堀も何らかのかたちで英語学習に励んだはずです。昌左衛門の養子で、「和英商売対話集」の著者といわれる本木昌造も同様でしょう。


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       森山は、「レルン(learn)」という習得を意味する英語をしきりに口にしなが
      ら、自分たちがマクドナルドから英語の伝授をうけたいと願っていることを知
      らせようとつとめた。マクドナルドは、森山の真剣な表情に、なにを森山がつ
      たえようとしているかを探ろうとして顔を見つめ、首をかしげ、問い返したり
      する。そのうちに、内容がおぼろげながらわかりかけたらしく、手ぶりをはじ
      めた。
       森山の口にするレルンがlearn であることに気づいたかれは、自分の胸をつき、
      森山の胸を指さして<b>「レルン?」</b>と言った。
       森山が大きくうなずくと、マクドナルドの眼は明るくかがやき、
      「ヨーカ、ヨーカ」
       と、大きな声でくり返し、森山もgood, goodと答えた。
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 大悲庵講座は7ヶ月にわたって続けられました。ここで、これまでの長崎における英語研究の歴史を概観しておきましょう。文化五年(1808)、イギリス艦フェートン号が長崎港に浸入して狼藉をはたらき、水・食糧を得て悠然と出港するという、いわゆるフェートン号事件が起こりました。幕府(長崎奉行所)の英語学習指示は、この事件がきっかけです。オランダ通詞の中から本木正栄、吉雄権之助、楢林栄左衛門らが、出島商館のコック=ブロムホフに就いて英語の学習を始めました。その成果が、わが国最初の英語辞書「諳厄利亜語林大成」だったのです。


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       その日から、森山は、「諳厄利亜語林大成」の単語を一語ずつマクドナルド
      に発音してもらい、それをかたわらに片仮名で書きとめていった。マクドナル
      ドの発音を何度もくり返して口にし、夜、家にもどってからも、おそくまで発音
      練習をする。道を歩いている時も、絶えず英語を口にしていた。
       森山は、一度おぼえた発音を必ず身につけ、それは他の通詞たちも同じであ
      った。かれらは選ばれた者たちだけに異国語に対する勘がすぐれ、マクドナル
      ドをしばしば驚かせていた。
       しかし、森山をはじめ通詞たちが何度もマクドナルドに注意されるのは、Lが
      ふくまれている単語の発音だった。
      「ソレハRダ。Lはチガウ」
       と言って、マクドナルドは発音してみせる。
    ========================================
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吉村昭歴史小説の世界 −『海の祭礼』を読む−其の1

 吉村昭歴史小説の傾向として「私は、歴史上著名な人物を主人公にする小説を書くよりは、全く世に知られてはいないが、歴史に重要な係りを持つ人物を調べ上げて書くのを好む」(「日本最初の英語教師」『史実を歩く』)とあるように、そんな人物がいたのか、と読者を驚かせることが多々あります。『海の祭礼』の主人公であるラナルド・マクドナルドとオランダ通詞森山栄之助は、まさにそのような歴史上知られていない人物で、しかし二人の業績、歴史的意義はすばらしい。
 この小説は、幕末嘉永年間という徳川200年以上の平和が破られる時期を、史料に基づいて展開しています。『戦艦武蔵』以来、戦史小説を書いてこられた吉村先生ですが、証言者が減り史実を得られなくなったとして8年後にやめ、その後ノンフィクション分野の作品として歴史小説に注目し、それも主として江戸後期、また明治の題材を選んで取り組まれました。理由は、史実を大切にする執筆姿勢から、史料が多く残っている時代に限られたのです。
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吉村昭歴史小説の世界 −『ニコライ遭難』を読む−其の2

 皇太子は、当時長崎で評判の上野写真館を訪れました。上野彦馬の評価については今更述べることもありませんが、上野の家が代々画家を輩出した系譜であること、なおかつ御用時計師、すなわち科学(化学)の家でもあったことを強調したいと思います。彦馬には画家と科学者の血が凝集されており、写真機と必要薬品も自らの工房で手作りしたと言われています。




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       皇太子は、前日、ジョージ親王が写真師上野彦馬のもとにおもむいて写真を
      とったことをきいたらしく、人力車は新大工町の上野の写真館前でとまった。
       館内で写真をとった皇太子は、長崎に来て初めて乗った人力車の写真を日本
      にきた記念に持ち帰りたいと考え、随員を通じて上野に申し入れた。上野は承
      諾し、弟子に写真機を庭にはこばせ、人力車に乗った皇太子を車夫と後押しの
      男とともに撮影した。
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吉村昭歴史小説の世界 −『ニコライ遭難』を読む−其の1

 吉村昭先生にとって小説の主人公とは、「こちらが勢いよく体当りしてもはじきとばされるような強烈な存在であるべきで」、その点ロシア皇太子ニコライは「四つに組んで勝負をする」(「創作雑話」『史実を歩く』文春新書)相手として不足はありません。
 この小説の主題は、ニコライが巡査津田三蔵に襲撃された大津事件です。強大な軍事力を持つ大国ロシアの皇太子を、事も有ろうに警備の巡査がサーベルで斬り付けたこの事件は、明治天皇以下日本中を震撼させ、全国から膨大な見舞いの電報・書簡などが療養する皇太子のもとに届けられました。長崎県の市町村でも、例えば南高来郡西郷村の「村役場日誌」明治24年(1891)5月16日付に「露国皇太子御負傷ニ付御見舞電報打ツ」とあり、おそらく多くの市町村が電報を打ったのでしょう。

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吉村昭歴史小説の世界 −『暁の旅人』を読む−其の2

 いよいよ臨床医学教育に不可欠な病院建設です。ポンペの熱心な病院建設の建白は、長崎奉行岡部駿河守やオランダ領事官ドンケル=クルチウスの理解、協力もあって、幕府の認可するところとなりました。とくにこの二人の存在は大きかったようです。
 安政七年(1860)三月三日の節句の日に、大老井伊直弼が水戸脱藩士らに桜田門外で襲われて死去、年号は万延と改元されました。この年建設が始まった新病院は、将軍吉宗の時代に設けられた小石川養生所にちなんで長崎養生所とよばれ、また長崎村小島郷字佐古の畑地に建設されたので、通称小島(こしま)養生所ともいいます。隣接地に寄宿舎を併設した教育・研究のための医学所も建設されました。大村町の伝習所から養生所は離れており、不便・不都合は目に見えていたからです。


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       まず、建設地をどこにするかについて良順はポンペの意向をたずね、ポンペ
      は陽光のよくあたる通気のよい高所が望ましい、と答えた。
       長崎の町を歩きまわった良順は、豪商の小曽根という人物に会って相談した。
      小曽根は文人でもあって、良順の病院設立の話に賛同し、自分が所有する土地
      を提供してもよい、と申出た。そこは、小島郷の支那館の上方にある二反(約
      二〇〇〇平方メートル)ほどの高所にある畑地で、通気性はきわめてよく眺望
      絶佳の地だという。
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吉村昭歴史小説の世界 −『暁の旅人』を読む−其の1

 『戦艦武蔵』の著者として著名な吉村昭先生ですが、そのための長崎調査は数十回に及び、三菱長崎造船所訪問と現・旧職員への聞き取りは綿密を究めました。この小説によって文壇での地位を確立された後も取材等での長崎来訪は続き、お亡くなりになるまでに計107回お出でになりました。エッセイにも多くの「長崎」が登場し、万年筆、太麺の皿うどんなど、いろいろなことを書かれていて、長崎に縁の深い文学者としてもよく知られています。
 これまで長崎を舞台とした吉村先生の作品には、永島正一元館長、石田保元史料課長はじめ県立長崎図書館の職員が資料を提供してきました。ここでは吉村先生最後の長編となった『暁の旅人』を紹介したいと思います。二重線(=)で挟んだ部分は『暁の旅人』(『吉村昭歴史小説集成 七』)からの引用です。
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