歴史年表

梅屋庄吉 (UMEYA SHOKICHI)

年 表

孫文 (SUN YAT-SEN)

1866
慶応 2
○広東省香山県(現在の中山市) に生まれる
○長崎に生まれる
○梅屋家の養子となる
1868
明治 元
○榎津小学校に入学
(7歳)
1875
明治 8
 
○榎津小学校卒業 大阪・京都を旅する
(10歳)
1878
明治 11
○兄のいるハワイに渡る
(12歳)
○四国を旅する
(11歳)
1879
明治 12
○ハワイのイオラニ校に入学
(13歳)

国際都市長崎

大浦居留地と長崎港

大浦居留地と長崎港 1872年(明治5)
長崎出身で日本最初の職業写真家 上野彦馬の撮影
(長崎大学附属図書館所蔵)

上野彦馬が使っていたカメラ
上野彦馬が使っていたカメラ
(長崎歴史文化博物館蔵)

海外交流のために開かれた港

長崎の港は、海外との交易のために1570年(元亀元) に開かれ、ポルトガル・スペインとの南蛮貿易で賑わいました。その後江戸幕府は、鎖国政策により西洋との交易は出島でのオランダ一国とし、中国との交易も唐人屋敷という中国人居住区を長崎に定めて行いました。長崎は海外からの様々な文物や情報を日本全国へ伝えるための窓の役割を果たしていたのです。

日中交流の系譜

長崎の興福寺・福済寺・祟福寺といった唐寺の建立や、隠元(いんげん)・木庵(もくあん)・即非(そくひ)といった唐僧たちの渡来によって日中の文化交流が本格化しました。また唐人屋敷に居住する貿易商や船頭の中にも芸術家・知識人が数多くおり、彼らは長崎の文人・市民との交流を通じ、絵画、書、詩文などの文化芸術分野から、医薬、土木技術、祭り、年中行事、食べ物、生活習慣にいたるまで長崎・日本に大きな影響を与え、現在に至っています。

日本の近代化のさきがけ

開国を迫る欧米列強の海軍力に対抗するため、江戸幕府は1855年(安政2) 長崎奉行所に海軍伝習所を設置します。加えて1857年(安政4) の医学伝習所、1858年(安政5) の英語伝習所設置により、西洋の最先端の科学技術が急ピッチで長崎から発信されることになりました。

少年梅屋の見た長崎

海軍伝習の一環として1857年(安政4) に起工された長崎製鉄所も、明治維新後の官営期を経て三菱の長崎造船所となり、日本の造船産業を支えていきます。また、1859年(安政6) の開港により長崎には外国人のための居留地が造られ、欧米の貿易商とともに中国人貿易商も多く居住するようになりました。当時の長崎には写真、印刷、炭鉱、通信の分野に最新技術がいち早く導入され、明治初期、名実ともにアジアの国際都市となっていました。

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中国に迫る危機

香港上海銀行

香港上海銀行(中央) と長崎ホテル
(長崎大学附属図書館所蔵)

海底ケーブル陸揚庫、電信機
大北電信が建設した海底ケーブル陸揚庫(長崎市小ヶ倉)
手前:1871年(明治4) 海底電線が揚げられたとき使用された電信機

上海という街

中国の一交易港に過ぎなかった上海という街が世界史に登場するようになるのは、1842年にイギリスと清国で結ばれたアヘン戦争の講和条約(南京条約) 以降のことです。この後イギリス、フランスなどの租界が形成され、西洋商館が立ち並んで繁栄しているかにみえました。しかし、上海は中国にあって中国人のものでない都市となったのです。1862年(文久2) に幕府が長崎から派遣した千歳丸(せんざいまる)で上海を訪れた長州藩の高杉晋作らは、こうした情況に強い危機感を抱いて帰国しました。

上海と長崎

長崎と上海は、海外交易のために開かれた港という非常に良く似た生い立ちを持っており、つながりも深い町です。1871年(明治4) デンマークの大北電信会社は、長崎-上海間、長崎-ウラジオストック間に通信ケーブルを敷設しました。長崎の松が枝に現在も残る旧香港上海銀行長崎支店の建物(国重要文化財) は、1904年(明治37)に完成したものです。なかでも最も長崎と上海を緊密に結びつけたのは、横浜から神戸、長崎を経由した上海航路でした。当初アメリカのパシフィック・メイル社が運航していましたが、1875年(明治8) 岩崎弥太郎が率いる郵便汽船三菱会社がそれに取って代わりました。

欧米列強からのアジアの解放

18世紀後半に産業革命が始まり、蒸気機関など圧倒的な技術力と軍事力を背景に欧米列強は、アフリカやアジアの国々を植民地化していきます。屈辱的な支配に怒った人々の中には、母国を脱出・留学して高い教養と理性を身につけ、自らの手で民族を救うために活動する者もいました。そうしたなか、アジアで唯一近代産業を興して西洋に追いつきつつある日本に対して、民族自立運動への協力が期待されていました。

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長崎での庄吉少年

中島川河口付近

1869年(明治2) 頃の中島川河口付近。向かって右が庄吉が育った西浜町 (長崎大学附属図書館所蔵)

米問屋梅屋商店

庄吉は、1868年(明治元) 11月26日、本田松五郎・ノイ夫妻の子として生まれ、すぐに子供のいなかった遠い親戚筋にあたる梅屋吉五郎・ノブ夫妻の養子となります。
吉五郎は長崎の西浜町(現在の長崎市浜町) で「梅屋商店」の看板を上げ、貿易業と米穀商を営んでいました。

義商の片鱗

10歳頃の庄吉 梅屋家に養子として迎えられた庄吉は、しばしば店の売り上げを持ち出しては、貧しい人に配っていたといいます。
また弱いものいじめが大嫌いで、町の人たちに対してゆすり・たかりをする悪党グループ相手に大立ち回りを演じたことも。
困っている人を見ると放っておけない性格は持って生まれたものだったようです。

10歳頃の庄吉(※)

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白ドッポVS.黒ドッポ

白ドッポ vs 黒ドッポ

庄吉は、16歳のとき、不良グループのリーダー天田伝吉と大ゲンカをしました。天田率いる「白ドッポ組」は元来、町の人々に親しまれる存在であり、「長崎くんち」のときに、諏訪神社に奉納される蛇踊り等の出し物に「もってこーい、もってこーい」(もう一回、もう一回) とアンコールの声をかけ、奉納踊りを盛り上げる集団でした。ところが、天田率いる「白ドッポ組」は町のひとたちをおどしてお金を奪ったりしていて、庄吉はそれに腹を立て、家業の精米所で働く若者に声をかけ「黒ドッポ組」を結成し、金比羅山でたたかって、見事うちやぶったのです。そのことは「ポンポコポン」というノゾキめがねで取り上げられ、町中の評判になりました。

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猫魂(ねこだま) が宿る少年

猫魂(ねこだま) が宿る少年

庄吉は、まれに見る強運の持ち主でもあったようです。 幼少期、家の近くの中島川で溺れ、死んでしまったと周囲の人々があきらめて葬式をしている途中に息を吹き返したり、アメリカ留学を志して乗った船が火災となり、ほとんどの乗客が亡くなる中で生き残るなど、生命力の強さで窮地を脱しています。長崎独特の表現で「猫魂が宿っている」といわれるほどでした。

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「※」印が付された写真資料は小坂文乃氏提供
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