歴史年表

梅屋庄吉 (UMEYA SHOKICHI)

年 表

孫文 (SUN YAT-SEN)

○梅屋商店所有の鶴江丸で上海に渡航
(14歳)
1882
明治 15
17歳の庄吉(※)
1883
明治 16
○中国に帰国
(17歳)
○アメリカ遊学を目指すが、途中船火事が発生し避難
(18歳)
1886
明治 19
孫文の書(※)
○凶作の朝鮮半島にコメを輸出し大もうけしたが、秋には豊作で失敗
(19歳)
1887
明治 20
○鉱山開発を計画するが失敗
(23歳)
○香椎トク、梅屋家の養女となる
1891
明治 24
○コメ投機に失敗、翌年中国アモイへ
(24歳)
1892
明治 25
○香港の西医書院を優秀な成績で卒業。
医師としてスタート
(26歳)
○トクと結婚。直後に養父吉五郎死去
○香港で写真館「梅屋照相館」を経営
(26歳)
1894
明治 27
○ハワイで打倒清朝を目指し、
革命団体「興中会」を組織
(28歳)
○孫文と出会う
(27歳)
1895
明治 28
○香港に戻り「興中会」本部を設置
○庄吉と出会う
○広東蜂起に失敗、日本へ亡命
(29歳)
フィリピン独立軍
軍服姿の庄吉(1898年)
(※)
1897
明治 30
○イギリスで南方熊楠と、横浜で宮崎滔天と出会う
○11月長崎訪問①
(31歳)

長崎からアジアへ

梅屋庄吉ゆかりの地

マニラ時代の庄吉(中央) と独立軍のメンバー(※)

アジア人としての自覚

1882年(明治15) 14歳で上海に渡った庄吉が目にした光景は、武力を背景に我が物顔に振る舞う西洋人の様子でした。その後上海を皮切りに、何か目的を探してさまようかのように東アジアを転々とします。ここで抱いたアジア人としての危機感や自覚は、孫文との絆や民族主義者たちへの支援活動の原動力となりました。

写真館ビジネス

カメラの前でポーズをとる庄吉少年。好奇心旺盛な彼は写真に関して何がしかの興味を持ったことでしょう。何より長崎には有名な上野撮影局がありました。庄吉はシンガポールで写真技術を習い写真館を始めたとされますが、当初はうまく経営を軌道に乗せることができなかったようです。しかし、香港で開業した写真館「梅屋照相館」は、出張撮影を行うなど新しいサービスを取り入れたこともあり、成功を収めました。

運命の出会い

1895年(明治28) 庄吉は香港で開かれた慈善パーティで英国人医師ジェームス・カントリー博士から孫文を紹介されます。その数日後に孫文は「梅屋照相館」を訪れ、二人は熱く語り合い、「君は兵を挙げたまえ、我は財を挙げて支援す」という盟約が交わされることになります。未来を切り開く情熱を持つ孫文と庄吉の運命の出会いでした。

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トクとの結婚

長崎での庄吉少年

トクと庄吉(※)

トクとの出会い

1894年(明治27) アジア各国を転々としていた庄吉は、久しぶりに長崎に戻りました。自分の家の敷居をまたいだものの、見知らぬ女性から「あんた誰ですか」と聞かれる始末。「この家の息子バイ」と憤慨する庄吉でした。この女性こそ、出奔(しゅっぱん)した庄吉に代わって、両親が梅屋家の存続のために壱岐島可須村(現在の壱岐市勝本町) の士族香椎家から養女に迎えられたトクでした。

病床の父の願い

既に老いて病に臥していた養父吉五郎は、久しぶりに姿を見せた庄吉とトクを枕元に呼び、「お前たちが結婚するのを見届けてあの世に行きたい」と祈るように言い聞かせます。庄吉とトクはこの願いを聞き入れ祝言をあげます。吉五郎は、その言葉どおりに二人の結婚後、安心したように息を引き取りました。

9年もの別居生活

祝言をあげた二人でしたが、庄吉はすぐに香港に戻ってしまいます。残されたトクは、養母ノブが他界するまで長崎で梅屋商店を切り盛りします。ようやく庄吉と香港で同居するのは、結婚してから実に9年後のことでした。

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「※」印が付された写真資料は小坂文乃氏提供
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