歴史年表

梅屋庄吉 (UMEYA SHOKICHI)

年 表

孫文 (SUN YAT-SEN)

1900
明治 33
○6月長崎訪問②
○8月長崎訪問③
○9月長崎訪問④
○恵州蜂起
(34歳)
1902
明治 35
○1月長崎訪問⑤
(36歳)
○香港からシンガポールへ逃れる
○映画興行を始める
(36歳)
1904
明治 37
○シンガポールから帰国。長崎で上映会を開催
○映画製作を開始
(37歳)
1905
明治 38
○中国同盟会を結成(東京)
(39歳)
○Mパテー商会の名で本格的に興行を始める
(38歳)
1906
明治 39
○東京で「三民主義と中国民族の前途」を講演
(40歳)
1907
明治 40
○日本から国外追放
○3月長崎訪問⑥
(41歳)
東京・百人町に自宅兼撮影所を建設
(41歳)
1909
明治 42
○辛亥革命に撮影隊派遣
○南極探検隊に撮影技師を同行させる
(43歳)
1911
明治 44
※武昌での武装蜂起
(辛亥革命の始まり)
(45歳)
○「日本活動写真株式会社{日活) 」設立
取締役に就任
(44歳)
1912
大正 元
○中華民国の建国を宣言
○臨時大総統に就任
(46歳)
○日活の取締役を辞任
○Mカシー商会を設立
○東京で孫文に辛亥革命の記録映画を見せる
(45歳)
1913
大正 2
○「籌辧全国鉄路全権」として来日
(2月長崎訪問⑦、3月長崎訪問⑧、三菱造船所視察)
○第二革命に失敗し、日本へ亡命
(47歳)
1915
大正 4
○宋慶齢と結婚
庄吉宅で披露宴を行う
(49歳)

映画興行界の風雲児

1909年(明治42)
東京・百人町に建設した自宅兼撮影所(※)

日活創立時の記念写真(※)

Mパテー商会

香港での写真館に成功した庄吉ですが、独立運動への援助を理由に逮捕されそうになり、トクとともにシンガポールへ脱出します。ここで、たまたま入手していた映写機を使って映画興行をビジネスとして開始し、評判をあげます。この成功に手ごたえを感じた庄吉は、1905年(明治38) 長崎に戻って上映会を開催、これを手始めに東京でMパテー商会を立ち上げ、映画興行に本格的に参入します。

発揮される商才

映画興行界では新参者であった庄吉は、半額クーポンなどの斬新なアイデアを次々と打ち出し、娯楽を求めていた庶民の心理を巧みに刺激し、業績を伸ばしていきます。また経済的な成功だけでなく、映画の教育への利用についても活動を開始しています。

日活の創設

映画興行で莫大な財産を手にした庄吉は、孫文への支援を行う一方、映画界の将来を危惧し、日本での大規模な映画製作を可能にするため、同業者の大同合併に向け奔走します。その甲斐あって、1912年(大正元) 現在の日活株式会社の前身である日本活動写真株式会社を設立。自ら取締役に就任しますが、翌年、株式の暴落による経済的損失の責任を取る形で会社から身を引くこととなりました。

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辛亥革命

辛亥革命

辛亥革命撮影記録写真
攻撃をうけ退却する革命軍(※)

辛亥革命

革命の志士たちが寄せ書きをした衝立(※)

孫文の目指した革命

孫文は、1866年広東省香山県(現在の中山市) の農家に生まれ、12歳のとき事業に成功していた兄を頼ってハワイに渡り、そこで西洋の教育を受けました。1883年に帰国し、香港で医学を修めマカオで医者として第一歩をしるします。1894年に再び渡ったハワイで興中会を組織し、欧米列強の武力を背景とした支配と無作為な清朝政府から中国民族を救い出すため、民族主義、民権主義、民生主義の3つから成る三民主義を唱え、その生涯を革命事業に捧げます。

孫文と宋慶齢

孫文の革命事業は、挫折と失敗の連続でした。1911年の武昌蜂起により成立した南京政府の臨時大総統となり、辛亥革命が成功したかに見えましたが、いまだ衰えない清朝旧勢力を抑えるため、袁世凱に大総統の座を譲ります。袁による独裁が始まると、第二革命を起こしますが、袁の軍事力の前に敗れて、1913年日本への亡命を余儀なくされます。この日本への亡命の時期に、孫文は運命の女性・宋慶齢と出会い、梅屋庄吉・トク夫妻の骨折りにより1915年に結婚。生涯の同志となりました。

女たちの革命

孫文は革命に生涯をかけ、梅屋庄吉は物心両面で孫文を支えることに生涯をかけます。彼らの果たした役割や業績は、その影に彼らを支えた宋慶齢と梅屋トクという二人の女性たちの力があったことを抜きにしては語ることができません。またそれが故に宋慶齢と梅屋トクとの間には、時間の経過や国の体制、環境の変化などを瞬時に飛び越えられるほどの固い絆が結ばれていました。

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「※」印が付された写真資料は小坂文乃氏提供
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