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長崎と広島

幕末維新期の長崎と広島の関係を考えてみました その1

今回は幕末維新期における長崎と広島の関係についてお話しします。ここに一枚の略絵図があります(画像1)。これは、明治元年(1868)2月、九州鎮撫総督・沢宣嘉(長崎初代の知事でもあります)が長崎に上陸する際の長崎奉行所西役所(現在は長崎県庁が建っています)と大波止周辺の警備図です(「諸綴込」長崎歴史文化博物館蔵)。

画像1 西役所と大波止周辺の警備図これを見ると、島原、平戸、肥後(熊本)、筑州(=筑前・福岡)の各藩と並んで、芸州=安芸・広島藩の部隊が配備されているのが分かります。広島藩が警備した場所は、「波戸場西御役所下」=現在の県庁坂を大波止側に下りたところです。人数などの記載はありませんので、どれくらいの規模の部隊が警備していたか分かりませんが、広島藩の部隊が長崎にいて、しかも警備を行っていたことは、たいへん興味深いことです。

江戸時代、長崎には14の藩が蔵屋敷を置いていました。島原・大村・平戸・五島・対馬・佐賀・唐津・熊本・福岡・小倉・久留米・柳川・薩摩・長州の14藩です。また、この14藩から派遣された長崎駐在役人を聞役といいます。先ほどの警備図に記された藩の内、広島藩を除く各藩は長崎に蔵屋敷を持っているので、部隊を長崎に置くことは可能だったと思われますが、広島藩は長崎に蔵屋敷を置いていた藩ではありません。では、広島藩は長崎に何らかの拠点を置いていたのでしょうか。長崎における、幕末維新期の広島藩の動向を見てみましょう。
 
安政の開港後、貿易の中心は横浜に移りましたが、武器・艦船については輸入額の約7割が長崎での取引でした。「諸家届伺船買入御附札」(同館蔵)など、幕末期の長崎における武器・艦船の取引記録を見ると、広島藩はエンフィールド銃やスペンサー銃の他、アームストロング砲などを購入しています。慶応3年(1867)には1回の取引で5000挺もの銃を購入していることもあります(画像2)。

画像2 銃5000挺の取引記録広島藩は長崎に蔵屋敷を置いていませんでしたので、これらの取引には広島藩から派遣された役人に加え、長崎の商人が間に入ることがありました。このような商人を用達といいます。広島藩の場合、幕末維新期においては島谷(島屋)家などを用達とし、彼らを通して商業活動を行いました。長崎に蔵屋敷を置いていない藩は、用達商人の屋敷などを長崎における拠点とすることがありました。広島藩の場合、慶応3年、用達の島谷武兵衛が豊後町(現興善町)に持つ土地に「芸州産物売捌所」を取り建てています(「諸伺留」同館蔵)。なお、この島谷武兵衛は同年、広島藩に召し抱えられ、あとの用達は息子の要吉がつとめるなど、広島藩と島谷家は密接な関係にあったようです。(つづく)

【長崎県文化振興課 石尾和貴】


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