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長崎と広島

幕末維新期の長崎と広島の関係を考えてみました その2

明治元年(1868)1月、長崎奉行河津祐邦は、鳥羽・伏見の戦いでの幕府軍敗戦の報に接すると、長崎を脱出しました。この政治的空白を埋めるため、当時長崎にいた諸藩の藩士たちは、新政府から責任者が派遣されるまで、長崎会議所という合議体を作り、長崎の政治を担当することとしました。

画像3 長崎会議所の盟約書「誓書」このときの盟約書である「誓書」(長崎歴史文化博物館蔵)の署名部分を見ると、薩州(薩摩)・長州・土州(土佐)の各藩士に続く4番目に、芸州=広島藩の国枝與助が署名しています(画像3)。この後、新政府から派遣されたのが、その1で紹介した九州鎮撫総督・沢宣嘉で、その長崎上陸時に広島藩などが警備を行っていたわけです。このように広島藩は長崎会議所に参加し、重要な役割を果たしていました。
 
長崎に、地方政庁としての長崎府(明治元年5月4日〜)や長崎県(明治2年6月20日〜)が置かれていた時代、長崎駐在各藩の中から月番が決められ、長崎府や長崎県からの通達をこの月番藩へ伝えると、その他の藩へ廻達されるという体制がありました(「諸家届并伺達」同館蔵)。この廻達には2つの系統がありました。1つは、長崎に駐在役人の聞役を置いていた14藩の中での廻達です。明治2年3月の聞役廃止以降もこの月番体制は維持されているので、江戸時代以来の聞役相互のつながりをそのまま使ったと見ることもできます。もう1つの系統は14藩以外の藩の中での廻達です(史料には「十四藩外藩」などと出てきます)。その際の宛名には「芸州其外藩々」、「芸州藩」、「島谷武兵衛」(広島藩用達、のち広島藩召抱)などと書かれています。他藩宛のものを見いだすことができませんので、「十四藩外藩」へ廻達する場合、まず広島藩へ伝え、そこから諸藩へ廻達されたと考えられます。広島藩が常時、月番をつとめていた可能性もあります。広島藩は聞役を置いていなかった諸藩の中の筆頭藩と見ることができるかもしれません。
 
以上、長崎における、幕末維新期の広島藩の動向を見てきました。この時期、広島藩は長崎で多くの武器を購入、豊後町に「芸州産物売捌所」を置いていました。また、長崎会議所の一員として行動、「十四藩外藩」筆頭のような役割を果たしていました。残念ながら、「波戸場西御役所下」を警備した広島藩の部隊が拠点としていた場所を特定することはできませんでした。しかし、慶応3年8月、長崎に滞在している諸藩士の止宿所が調査された際、「豊後町国許用所」と答えた広島藩士が複数います(『続通信全覧』)。このことからすると、豊後町の「芸州産物売捌所」が広島藩の拠点となっていたことは間違いないようです。(おわり)

【長崎県文化振興課 石尾和貴】


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