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特別企画展「孫文・梅屋庄吉と長崎」に寄せて

もう1つの近代日中関係史 その2

前回に続き、長崎歴史文化博物館で開催中(H23.10.1〜H24.3.25)特別企画展「孫文・梅屋庄吉と長崎」を見て、考えさせられたことについて書きます。

●いわゆる「大陸浪人」のこと
・明治から昭和初期(戦前)にかけて、中国の革命運動や大陸経営に関わった日本人たちのことは「大陸浪人」(支那浪人)と呼ばれていました。
 
・大陸浪人の総数は『東亜先覚志士記伝』記載の列伝部分などから、約1000人にのぼるといいます。(参照『大アジア主義と中国』趙軍)
 
・中国の革命運動を主導した孫文と関わった日本人は、3つのグループに分けられます。(参照「中国革命に尽くした日本人」趙軍、『盟約ニテ成セル 梅屋庄吉と孫文』読売新聞西武本社編に所収)
     自由民権運動の立場から中国革命に参加したグループ 宮崎滔天・萱野長知など
     国権主義の立場から中国革命に関与したグループ 頭山満・内田良平など
     様々な立場から、それぞれの思惑を持って関わりを持った政界・財界・軍部の有力者 犬養毅・桂太郎・久原房之助など
 
・梅屋庄吉は、このグループ分けによると、財界の有力者としてに分けられそうですが、その動機から言うと,剖瓩い茲Δ任后
 
●少年梅屋庄吉が初めての上海で見たもの・感じたこと=「海外雄飛」
・明治15(1882)年の後半、数えで15才になる梅屋庄吉は持ち船鶴江丸で単身上海に渡りました。そこで見た上海の様子を、後にこう書いています。

「目に撮るものは立派な左右の巨立したドックで其先進振に驚き、大いに将来の雄志を抱いたものだ。時の上海には早四階建の洋館が二つもあったが、四馬路方面には日本のラシャメンが二百名もうようよと盛んに娘子軍の前衛ぶりを発揮し、今でこそ邦人の中心たる虹口であるが、往時は低い支那藁建の家屋が其処此処に点在し、草木茂る野原であった。邦人はごく僅かでバラック建の小舎で貿易をし、長崎県人の上野といふ人が崎陽号といふ雑貨販売旅館を現在の東和洋行附近でやって居った」
(小坂文乃氏蔵、スクラップ集から梅屋庄吉の回顧録「わしが来た頃ろ」昭和 4(1929)年の上海日報より)

・ラシャメン・娘子軍はいわゆる「からゆきさん」だと思われます。その数に対して、当時は、まだ商人としての日本人は少なかったようですが、国際都市上海の発展ぶりにびっくりし、いつか、こういう海外で大きな仕事をしてみたいと、若い梅屋庄吉は上海を見て「将来の雄志」をもったということがわかります。
【長崎県文化振興課 山口保彦】

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