長崎学Web学会

ホーム > 長崎学Web学会 > 柏文蔚将軍の無念 その1

柏文蔚将軍の無念 その1

−革命いまだ遠し−

 写真の琵琶に五言絶句を記したのは、柏文蔚(はくぶんうつ)という中国革命の大物です。孫文の中国同盟会に参加し、革命派軍人として活動しました。辛亥革命(しんがいかくめい)後、中華民国では安徽督(あんきととく)に任命され、安徽省の行政・軍事権を握っていました。

 一方、柏将軍の盟友孫文は1912年1月1日の中華民国南京臨時政府成立とともに臨時大総統に就任していましたが、清朝を倒して革命の成果を強固なものにするため、袁世凱(えんせいがい)
()と妥協して皇帝溥儀(ふぎ))を退位させ、彼に臨時大総統の地位を譲りました。その後孫文は1913年(大正2)中華民国「全国鉄路督弁」として日本各地を訪れ、長崎でも国家元首並の大歓迎を受けました。その時の記念写真が数点残っています。

 ちょうど孫文一行が長崎にいたとき(3月22日)、国民党の同志である宋教仁暗殺の情報が入りました。すぐに上海に帰った孫文は、宋教仁暗殺が袁世凱によるものであるとして、武力による袁世凱政権打倒を主張しましたが、孫文と並ぶ革命派の大物である黄興は準備が整っていない、裁判や国民党が多数を占める国会で追及すべきとして反対しました。柏将軍はというと、当初孫文の主張に同調し、それも武力蜂起の急先鋒だったようです。

  しかし、実際蜂起に至らないまま時が過ぎ、6月には袁世凱によって国民党系の江西都督李烈鈞、安徽都督柏文蔚、広東都督胡漢民が解任されました。追い詰められた革命派は、まず李烈鈞が袁世凱に宣戦を布告し、ついに黄興ら慎重派も袁世凱討伐に立ち上がりました。第二革命が始まったのです。時既に遅しとの認識だった柏将軍も安徽討袁軍総司令として革命に参じました。

 この革命行動は圧倒的な軍事力をほこる袁世凱政権軍によって鎮圧され、革命派はそれぞれ国外亡命を余儀なくされました。8月末長崎港に着いた柏将軍は、そのまま長崎を亡命の地と定め、一連の外交文書によれば南山手や浦上山里村を住居としました。長崎は中国情報がいち早く集まるところだったからと思われます。

 そのうえ長崎には、華僑のコミュニティが存在していて彼らの支援が期待できましたし、東洋日の出新聞社々長の鈴木天眼(てんがん)のように革命派を支援してきた人物もいました。1914年元旦の東洋日の出新聞には、お礼の意味なのでしょう、柏将軍ら革命派の祝詞が掲載されています。()
 
 柏将軍は長崎を拠点にしながら何度も上京し、孫文とも連絡を取り合いました。とくに、革命の路線をめぐって対立していた孫文と黄興の間を取り持とうとしたのですが、うまくいきませんでした。上京のもう一つの目的は、日本政府の実力者や陸軍参謀本部と接触して中国革命への援助を引き出すことでしたが、これも失敗に終わりました。それどころか大隈内閣は袁世凱政府に対華二十一ヶ条要求を突きつける事態に至りました。もはや日本に残る理由はありません。1915年5月26日、伏見丸で長崎を発ちシンガポールへ向かいました。南洋に結集して革命派の再起をはかろうとしたのです。

【長崎県参与 本馬貞夫】


アンケート

コメント