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秋ノ浦焼

その1 謎の多い秋ノ浦焼

長崎海軍伝習所の開設や、日本で最初の洋式工場である長崎製鉄所(万延元年(1860)長崎鎔鉄所から改称)の建設など、近代化の第一歩を踏み出した幕末の長崎で、新たに誕生した焼物がありました。
稲佐郷飽浦(現在、長崎市飽の浦町)で焼かれた秋ノ浦焼です。

 秋ノ浦焼の名前は、窯が設けられた飽浦という地名に因んでいます。この地は、江戸時代、アクノ浦、悪ノ浦、飽浦などと記録されてきましたが、秋ノ浦と称されることもあり、他より趣のあるこの呼び名が焼物に付けられています。


 さて、写真の皿は、やや厚手の磁器質の素地に、朱色やピンク・白・茶・緑・水色・黄緑・黄色など明るく多彩な顔料で、紅白の花をつけた木と鳥が描かれています。目立たない裏側にも、圏線と3つの蔓草文様が染付で描かれており、本格的な焼物の窯場ではないのに、きちんと手間をかけて作られた器であることがわかります。そして、高台の内側の「秋浦」という赤い上絵の銘が、秋ノ浦焼であることを証明しています。

 秋ノ浦焼は、安政4年(1857)に建設が開始された長崎製鉄所の建築用の煉瓦を焼く窯で作られたと言われてきました。
 重工業施設の建設現場のかたわらで、こんなに可憐な焼き物が作られていたとは、にわかには信じがたいことでしょう。

実のところ、どんな窯で、誰が、何のために作ったのか、いつからいつ迄作られていたのかなど、明らかになっていない点も多く、謎に包まれた焼物です。
 伝世品が少なく、消費地での出土例も無く、窯跡も残っていませんが、先学の残した研究成果や長崎製鉄所関連の記録類をたよりに、これから数回に分けて、その謎に迫ってみようと思います。
【長崎県文化振興課 松下久子】
 

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