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秋ノ浦焼

その2 秋ノ浦焼を焼いた窯について

 
 秋ノ浦焼は、長崎製鉄所の建築に使われる煉瓦を焼く窯で焼成されたと言われてきました。しかし、その確証を得られていないのが現状です。
 そこで、まずは、煉瓦などを焼く窯が、いつ頃どこに作られたのかを明らかにし、そこでの秋ノ浦焼の焼成の可能性について考えてみたいと思います。

長崎製鉄所の建設は、安政4年(1857)10月に開始されますが、建築用の煉瓦を焼く窯は、2ヶ月後の12月に作り始められました。
 窯の築造や煉瓦の製作には、地元の瓦職人が集められ、製鉄所全体の建設を指揮していたオランダ人ハルデスの指導の下で進められました。日本の瓦職人は、煉瓦用の窯や煉瓦の製作に不慣れで、手際が悪く時間がかかると酷評されながらも、翌年(1858)1月20日から窯は稼働し始めました。ちなみに、当時は、煉瓦を焼く窯も瓦窯と呼ばれていました。
製鉄所では、壁や塀に使われる赤褐色の煉瓦(通称:コンニャク煉瓦)だけではなく、瓦や耐火煉瓦も必要とされ、複数の窯が作られたようです。これはまだ、推測にすぎませんが、1200℃以上の高温を必要とする耐火煉瓦用の窯で、磁器の本焼がおこなわれ、別の窯では、上絵の焼付がおこなわれた可能性も考えられます。

 では、それらの窯はどの辺りに作られたのでしょうか。
 藤原学氏は、ポンペ著『日本における5年間』(1868年刊)に掲載されている建設途中の長崎製鉄所を表した石版画をもとに、轆轤盤細工所の近くに瓦用の達磨窯と、煉瓦用の6室程の連房式登窯の存在を指摘しています。
長崎奉行所の記録『手頭留』には、安政5年(1858)4月11日から5月14日まで、飽の浦にて昼夜とも瓦の焼成で火気が立ち上るので注意するようにという通達を出したことが記されており、最初の窯が飽の浦にあったことは間違いないと思われます。
 また、熊本宗孝筆「飽之浦製鉄所之図」には、舎密所横に「焼物窯 桁行七間 梁間二間」と添え書きされた屋根が描かれています。これらのことから、始め瓦窯は主要施設がある飽の浦郷の敷地内で、場所を移しながらあるいは複数の窯が並行しながら瓦や煉瓦の焼成が続けられたと考えられます。

 しかし、万延元年(1860)以降、窯は、飽の浦の南側にある岩瀬道郷に移されました。『御用留』の同年9月29日には「岩瀬道焼物小屋場」とあります。この敷地は、瓦窯などの建設用地として岩瀬道郷の畑地を新たに借り受けたものであり、『御用留』には文久元年(1861)1月〜6月分の借地料に関する記録も残されています。また、『長崎秋浦製鉄所之図』 などの絵図類には、岩瀬道郷に瓦窯の存在が明確に示されています。
 この場所のすぐ北側を流れる小川の一帯が、明治29年(1896)、第2船渠を建設するために掘削されました。その際、多くの窯や焼物の破片が出土したそうです。この岩瀬道郷の瓦窯で、秋ノ浦焼が焼成されていた可能性は、きわめて高いと言えるでしょう。

 この窯は、明治5年(1872)に水道用の土管を焼成し、一部は戦後まで社宅の塵芥焼却炉として使われていたと伝えられていますが、秋ノ浦焼がいつまで焼成されたかについては、残念ながら、まだ手がかりが見つかっていません。

 次回は、可憐な上絵付による装飾技法から、秋ノ浦焼について考えてみたいと思います。
【長崎県文化振興課 松下久子】

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