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特別企画展「孫文・梅屋庄吉と長崎」に寄せて

もう1つの近代日中関係史 その3

前回に引き続き、少年時代の梅屋庄吉のことを長崎に残る資料も踏まえて見てみましょう。

●庄吉が上海に渡航したときの鶴江丸のこと
・15歳の時に上海へ渡航したことについて、昭和4(1929)年上海日報の回顧録で本人が語っていることは、前回紹介したとおりですが、自伝的小冊子の『わが影』(大正15(1926)年)にも記述があります。
 
・それらの記事を見ると、庄吉は梅屋商店の持ち船であった1,500トンの鶴江丸で、上海へ渡航したといいます。鶴江丸の前身はアメリカ船ビヤマン号といい、明治14(1881)年に、マニラから砂糖・麻をアメリカへ搬送する途中、熊本・天草の富岡で暴風雨に遭い沈没しました。明治15年8月25日付け西海新聞その沈没船は競売に出され、梅屋商店が八百円で落札したものでした。
 
・40年以上前のことを庄吉翁は話しているのですが、長崎に残る西海新聞(明治15(1882)年8月25日付け)で、このビヤマン号のことを確認することができます。
 
・右はその記事の内容です。天草沖で沈没した西洋型商船(新聞ではビヤモン号)は、江戸町とかの商人四名で沈没のまま買い入れ、小菅の造船場で修繕中である。その修繕費用は約千円程度。修繕を終えて売却する予定であるが、それでも四百円〜五百円の利益はあがると書かれています。
 
・庄吉翁は前出の回顧録で、沈没船を引き上げるときの様子を、「干潮時をみて九州の空樽を買求め船底に入れ以て同船を浮かばせ」などと語っているところからみると、梅屋商店は沈没船を競売で買い入れた4名のうちの1人だったようです。
・また、修繕後に鶴江丸と名付け、上海渡航するときに「持ち船」と表現していることを考えると、新聞記事には売却予定とはあるものの、他へ売却はせず、梅屋商店も所有者の1人だったことが伺えます。

・この新聞記事が8月25日付けであることから、庄吉が上海へ渡航したのは早くても明治15(1882)年の9月以降のことだと思われます。
【長崎文化振興課 山口保彦】


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