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特別企画展「孫文・梅屋庄吉と長崎」に寄せて

もう1つの近代日中関係史 その4

引き続き、少年時代の梅屋庄吉のことです。
●長崎で過ごした10代の梅屋庄吉の夢
・明治10年代といえば、日本全国で自由民権運動が巻き起こる時期です。当時の政治的意識のある青年であれば、誰しも1度はのめり込んだであろうと思われる自由民権運動です。長崎においても西道仙らの長崎新聞発刊や、長崎改進党の結成、さらに全国的にも珍しい社会主義政党として樽井藤吉等らの東洋社会党の動きがありました。
 
・しかし、10代を長崎で過ごした庄吉は、政治的活動より、海外を視野に入れた実業家としての夢を描いていました。それは、おそらく商売をしていた家業の影響もあったでしょうし、また、長崎という江戸時代以来の貿易都市としての歴史と、地理的に中国に近いということも、その理由としてあったでしょう。
 
●19才の梅屋庄吉〜アメリカ渡航の夢・欧米人のアジア人感
・明治19(1886)年、19才になった庄吉はアメリカ渡航を企てます。しかし、乗り込んだ帆船ビニエスペンドル号が途中で難破し、九死に一生を得ることになります。その船上で、アメリカ人船長が、コレラを発症した中国人を、まだ生きているうちに海へ投げ捨てさせるという事件を経験することになりました。
 
・このことは、庄吉が娘の千世子に語っていることで、「アジア人を人間とは考えていない。はらわたが煮えくりかえる思いだった」と繰り返し話したということです。(『革命をプロデュースした日本人』小坂文乃氏著作より)
 
・果たせなかったアメリカ渡航ではありますが、そのときの体験こそが、のちに孫文と意気投合することになる動機を生んだようです。それは大陸浪人に共通する問題意識であり、遡れば、幕末に高杉晋作たちが上海に渡航して見聞して得たことと共通しています。幕末に討幕派へと収れんしていく攘夷派全体の問題意識でもありました。
 
・それは、欧米列強の植民地政策に対抗して、アジア人が経済的・文化的・民族的独立を如何に維持するかということでした。この意識を持ったことこそが、実業家としての庄吉に、アジア対欧米という視野での政治的意識を芽生えさせることになったのではないでしょうか。

(参考文献、『わが影』梅屋庄吉、『国父孫文と梅屋庄吉』車田譲治、『革命をプロデュースした日本人』小坂文乃ほか)
【長崎文化振興課 山口保彦】


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